
中央アジアの歴史は我々日本人にはあまりなじみがありません。
しかし、そこに知る人ぞ知る“英雄”がおります。
ジャラールッディーン。
どんな人物だったのでしょうか。
なぜジャラールッディーンに興味を抱いたか
私の尊敬する小説家の一人、井上靖が自身の旅行記で、実に生き生きと紹介しておりました。
きっと、井上さんはこの人を題材にした小説を書きたかったのだろうな。。。
でも、こんな、戦後の日本人から見れば、だいぶマニアック、かつ、ちょっと「引いてしまう」、人を描き出すなんて、出版社も大概の読者も嫌がるだろうな。。。
かと言って短編で纏めるにはとてもとても。。。
じゃあ、そんなに井上さんが惹かれるジャラールッディーンってどんな人だったのだろう。
と、私なりに資料を集め、いろいろと考察を巡らすようになりました。
ジャラールッディーンを調べるならこれが聖書だ!!
ジャラールッディーンに関する書籍はやたら少ないです。
が、聖書的存在はこれ!
フランス人ドーソンによる『モンゴル帝国史』。
ジャラールッディーンの基本情報
性別:男
出生地:おそらくウズベキスタンのウルゲンチ。
生きた時期:1199-1231(ちなみに源頼朝、リチャード1世が亡くなった年に生まれました)
民族:トゥルクメン(母はインド系)
身分:ホラズム王国大王
事績:西アジアから中央アジアで、最強時代のモンゴル帝国に抵抗できた数少ない指導者。でありながら、当時の西アジアから中央アジアを一代で席巻した恐るべき武力とカリスマの大征服王。
ジャラールッディーンの人柄
誰に似てる?
ある人が「呂布みたいだ」と言っておりました。
呂布とは三国志に登場する、異様に戦に強く、野心的な人物です。裏切りを繰り返しました。
似てます。
が、呂布ほど軽くありません。
項羽にも似てます。
が、項羽ほど重くありません。
織田信長にも一途孤高なところが似ております。
が、織田信長のような革新性や大局眼は乏しいです。
源義経にも似ております。
が、義経より世長けたところがあります。
相当なコンプレックスの人?
史書によると、中央アジアのホラズム王国の王子でありながら、インド人の母を持ち肌の色は黒みを帯びておりました。
王の長男で武勇は異常に優れているのに、最初は皇太子に指名されませんでした。
なので、相当なコンプレックスを抱いていたと思われます。
どんだけ戦強いねん・・・
戦の天才です。
まず、自身の武力が異常。
しょっちゅう自軍に数倍する敵と戦しておりますが、異常な武力と謀略により勝って勝って勝ちまくります。
グルジアに攻め込んだ時なんてのは、自ら一騎打ちを申し込み、たった一人で猛者を五人抜きしてから、その勢いのまま不戦協定を反故にして軍勢で攻めかかり、圧勝してしまいました。
本当に、ちょっとでもチャンスがあれば周辺にとうかがっており、また、やれば勝ちまくります。。
ただモンゴルにだけはいろいろとあって苦しみ続けました。。。
めっちゃ寡黙
また、非常に寡黙だったようです。
笑う時も苦笑するぐらいだったそうです。
たぶん、何を考えているのかわからない表情。
極道ばりの迫力だったと思われます。
いわば若頭です。
でも、激情家
そのくせ、実はものすごい激情家です。
お気に入りの宦官が亡くなったのを市民らがなんとも思わないでいるのを見て、処罰しようとしたようです。
なんとか周りに諫められましたが。
ある戦争の時には、第一の参謀シャラフ・アル・ムルクが、「守って相手の弱るのを待つと効果てきめんです」などと助言すると、ジャラールッディーンは「そんなやり方はなまぬるい!」と文房具でシャラフの顔面を殴打したようです。
・・・。
シャラフは明智光秀にキャラがとてもよく似ております。
実際、ジャラールッディーンの窮地に裏切ります。
ただ、シャラフが明智光秀と違うところは、ジャラールッディーンによって鎮圧され、死んでしまいます。
ちなみに、ジャラールッディーンの父王も相当に感情の起伏の激しい人物です。
また、ジャラールッディーン自身管弦が好きだったらしいです。
物語的にはかなり絵になるところがあります。
井上靖がなぜ彼に惹かれたのかなんとなくわかります。
老獪、でも、ちょっと短絡的
さっきも申しましたが、本当に呂布に似ております。
しかし、呂布ほどの軽さはありません。
というのも、独特の信義の厚さがあります。
つまり、手当たり次第に殺したり、よその領主の地位を簒奪したり、部下にブラック労働をしむけることに独特な自重があります。
また、周りの意見を大人しく尊重する部分もあります。
相手をじっくり丸め込もうとするところもあります。
それでいて、商人的に胡散臭い話を持ち出してむりやり売り込もうとすることもあります。
でありながら、向こうからおいしい話を持ち掛けられると、すぐにちょっかいを出そうとする軽薄さもあります。
この辺は一応大国の長男に生まれた育ちの良さと、文明の十字路中央アジア的な民族要素が色濃いです。
恐らくジャラールッディーンはこの人に影響を受けた
ジャラールディーンはアレクサンドロス大王(紀元前356-紀元前323)の影響を多分に受けたのではないかと推測しております。
実際、アレクサンドロス大王はジャラールッディーンの生まれ付いた中央アジアにも侵略し、ホラズム王国の首都サマルカンドなどはアレクサンドロスに徹底的に破壊されました。
当時ジャラールッディーンの地元では伝説的な人物として語り継がれていたでしょう。
ちなみに、ジャラールッディーンのホラズム王国は父ムハンマドの代に、宿敵の西遼を打ち負かし、北方草原地帯のカラハン朝を滅ぼし、南はインド系のゴール朝を大いに侵食し、西にはカリフのアッバース朝に遠征をおこない、西アジア・中央アジア最強国として急速に版図を拡大しておりました。
アレクサンドロス大王の父王フィリッポスの、そして、アレクサンドロス本人が空前の世界帝国に飛躍させたマケドニア帝国とよく似ておりますね。
また、ジャラールッディーンはその肌の色を気にされたのか、また、その強すぎる気性を警戒されたのか、また当時のホラズム王国は他にもお家騒動の種を抱えておりましてジャラールッディーンを次王に就かせると国が割れる、と思われたのか、長男でものすごい武勇なのに、最初は次期王に指名されませんでした。
その点アレクサンドロスも、長男で優秀なのに、国内の他の勢力によって他の弟を担ぎ上げられ王位を簒奪されかけたことがあります。
おそらく、ジャラールッディーンは幼い頃から、インド人の血を引き色が黒いと言って不当な差別を受けることもあり、当時国を牛耳っていたカンクリ族の祖母兼国母テルケン・ハトゥンに「カンクリの血の薄い不遜な小僧」として遠ざけられつつ、「だったらアレクサンドロスみたいになりゃいいじゃないか。だってかの人はインドだって征服したんだろう。そうすりゃだれも肌の色など言ってられない。征服王に俺はなる!」と人知れず期していたのではないでしょうか。
また、皮肉なことに、ジャラールッディーンの行軍は中央アジアからインド、中東、とそれをなぞるようでした。
おそらく、「ああ、俺は大王の生まれ変わりだ」と信じ込んでいったのでは。
ジャラールッディーンのハイライト
実はジャラールッディーンには、アレクサンドロス大王ともうひとつの共通点があります。
というか、これは古代史・中世史の軍事的英雄には無くてはならないものなのかもしれません。
それが名馬です。
アレクサンドロス大王には、誰の言うことも聞かないけれどアレクサンドロスだけが手なずけられたという奔馬ブケファロスがおります。
呂布には赤兎馬があり、項羽には「すい」がいますね。
その馬が歴史に残る活躍を為したのはジャラールッディーン最大のピンチ、つまりモンゴルのチンギスハーンとのただひとつの直接対決の時です。
実は、チンギスハーンのモンゴル帝国は大変な恐怖帝国でもありまして、しかもその中で最悪の被害をこうむったのは中央アジアです。
彼らによる恐るべき蛮行はもはや虐殺とか侵略とか言った範疇すら超えております。
マジで蒸発です。
やばすぎます。。
都市民を手当たり次第に殺す。
鳥獣すら残さず。
死体の腹を抉り、皮を剥ぎ、首を並べてピラミッドまで作り、目や口から溶けた銀を流し込み、飲んだ宝石を胃袋から採り出し、都市ごと完全破壊する。
バーミヤンなどはそこでいったん都市の歴史がとぎれております。
メルブという当時百万都市はいまだに消滅したままです。
ほか、ヘラートやニシャプールなどこの辺のめぼしい都市のほとんどは似たような過去を背負っております。
そんなラオウの圧倒的強さとキバ一族の野蛮さをあわせもった魔軍相手にホラズム王国は指揮のまずさもあって序戦からやられ放題。
なのに、国のエース的存在ジャラールッディーン(モンゴルとの前哨戦で王軍唯一勝勢にありました)はまともな活躍の場を与えられず、市民を見捨ておめおめと逃げ続けるばかりの父王ムハンマドのお守り状態。
とうとうそんな父王もカスピ海の孤島で寂しい最期を遂げることになり、その枕元にジャラールッディーンら子供を呼び出し、「やっぱり次王はジャラールッディーン。お前しかいない」。
今さらかい!
王国を復興するにはもはやジャラールッディーンの稀有な武力しかないと踏んだのでしょう。
ここからジャラールッディーンの孤独な反撃が始まります。
まず味方を探して旧都クフナ・ウルゲンチに向かいますが、悪い意味での「大人」どもが、自分たちの世界を既に築き上げており、ジャラールッディーンのような邪魔者を殺そうとします。
が、間一髪逃げ落ち、広大な砂漠を抜ける途中、モンゴルの小隊とたまたま遭遇。
これをやっつけます!
そして、イランのニシャプールへ凱旋(以前、ニシャプールは国王ムハンマドによって「狩り」と銘打ってトンズラをこかれ、彼はこのホラサーンの重要都市に二度と帰ってきませんでした。その時、ジャラールッディーンもこの父の背信と同行せざるを得なかった思われます。つまり、そんな状況でモンゴルの攻勢を凌ぎ続けていた健気な都市です。ジャラールッディーンの奇跡の帰還で沸き返ったことでしょう)。
しかし、ここでは周りの都市をモンゴルに浸食されまくっており、十分な味方が集まらないと踏んだのでしょう。
なんと、ここからジャラールッディーンはわずかな手勢で敵がわんさかいるホラサーンをつっきり、もともと自分の領地だったはるか遠いアフガニスタンまでの逃避行を強行します。
どうにか、アフガニスタンに着き、そこで大量の味方を集め、ついに「チンギスハーンめ。もう好きな用にはさせぬ。決戦だ!」と息巻き、北の要衝パルワーン平原に進軍。
そこでモンゴルの大軍を打ち負かします。
これで、目論見通り、
「よっしゃ、後はチンギスハーン。出てこいや!」
となるはずだったのですが、ここが多民族国家ホラズムの弱点です。
戦後処理の褒美をめぐって余りに痛い仲間割れです。
これでほとんどの兵力がジャラールッディーンを勝手においてけぼりにどこかに行ってしまいました。
・・・。
ジャラールッディーンは「これでは勝てぬ」と急ぎ引き揚げ、「そこしかない」とばかりにインドを目指します。
が、チンギスハーンは抜け目ありません。
「絶対倒す!」
しかも、彼らが近々大河インダスを越えるのを見越し、夜を次いで急追してきます。
対してジャラールッディーンとすれば、
「モンゴル人は水が苦手(元寇でもそうでした)」
と知っていたでしょう。
なんとかこの大河を越えておきたかったところ。
なのですが。。。
ドーソンの史書によると、渡河決行の日の明ける前にチンギスハーンのモンゴル軍が追い付いてしまいます。
ジャラールッディーンとすれば最初から勝てっこありません。
が、インダス川を背に、つまり背水の陣でこれに臨みます。
ジャラールッディーンのホラズム軍は猛烈に奮戦しますが、精強なモンゴル本軍の猛攻の前にだんだん苦戦においやられます。
そこで、「退くよりは前へ!」と関ヶ原の島津軍ばりの前退をけしかけます。
が、次第にインダス川沿いの高い崖(20フィート)に取り囲まれます。
万事休す。
ところが、ここでジャラールッディーンはとんでもない行動に出ます。
なんと、愛馬ごとインダスの川に飛び降りていったのです。
そして、なんとか着水し、馬に泳がせ逃げてゆきます。
これに他の味方も、「なら俺たちも」とどんどん飛び込んでゆきます。
これを見て、モンゴルの兵たちは矢をつがえますが、チンギスハーンはかっこいいですね。
「あの男を射てはならない」
と皆を止めます。
「武将ならあの男を手本とせよ」
この戦で溺れ死ぬホラズム人は数知れず、あるいは射殺されインダス川は赤く染まったと言われます。
そして、チンギスハーンは自身での追撃はここまで。
本当に水と蒸し暑いのが大嫌いなんです。
ちなみに、ジャラールッディーンはこの時の馬を想い、二度とこの馬に乗ることはなかったそうです。
その後のジャラールッディーン
ここまでのジャラールッディーンはどんだけかっこいいねん、なんですが、史書にはこの辺りからだんだん嫌なところが目立ってまいります。
あまりの苦境と挫折に、自分や他人というものが信用できなくなったのかもしれません。
なんとかチンギスハーンから逃げ遂せた者らが一人二人と集まってきますが、彼らにはもう食うものも何にもありません。
「彼らを生かすために仕方なかった」
とはいえ、自分の母方のふるさとインドにたぶん始めてやってきて早々略奪をさせることに。。。
おかげで現地政府に目を付けられて、戦争になります。
普通ならこんな数少ない流浪の軍隊では勝てっこありません(食料だけでなく武器や馬も多くは略奪したものと推測されます)。
が、ジャラールッディーンは強いです。
普通に勝ってしまいます。
そして、すっかり現地が居心地よくなった家臣。
「このままここに居ませんか。だって川の向こうに戻ったらチンギスハーンがいるじゃないですか」と、進言。
が、ジャラールッディーンは受けません。
「俺はモンゴルに勝ちたい!」「王国を取り戻したい!」と、インドから出てイランへ。
で、こっちでは、弟から領地を簒奪してしまうのですね。
ま、この弟が政治に無能で、イラン現地の部下らが「何とかしてや」と頼み込んで来たようなのですが。
そして、ジャラールッディーンはその奪った地盤から早くもイラクのアッバース朝攻めへ。
「むかし、父王にいらん因縁をつけた」という言い分ですが、私は「おい、モンゴルと闘いたかったのじゃなかったのかよ」とつっこみたいです。
ま、先に領地を広げてからモンゴルとやるつもりだったのかもしれません。
で、その戦役も途中で引き揚げ今度はアゼルバイジャンを征服。
次は、キリスト教のグルジア(グルジアは計三回も攻め込まれます)。
「モンゴルはいつ出て来るんだ」という話です。
しかも、「全イスラムの大敵モンゴルを倒す」と大上段で銘打ってるのに、同じイスラム教の国々に攻め込みまくるというのも(この野郎は都合のいい時だけこの文言を持ち出してきます)。
で、いざこざやってるうちにジャラールッディーンの台頭を警戒したモンゴルがとうとう攻めてきて、ジャラールッディーンは激戦の末またも敗れます(ただし損害自体はモンゴル軍の方が大きく、ほとんどが生きてアム川を越えられませんでした)。
兆度この頃、あの簒奪された弟がアッバース朝に寝返ろうとしたという不幸も利いたでしょう。
ま、弟とすれば、そういう気も起こるわな。
そして、こんな弟をこれまで生かしていたのか、というのも意外では。
そこがジャラールッディーンなんです。
味方だとみなすと、たとえ敵対しても義理堅いところがあるんです(ただ、「生かしておくとまずい」とみなすとしれっと殺しに来ます)。
以後、わずかな手勢で放浪状態になり(またかよ)、自身熱病に落ち、死にかけます。
この辺もアレクサンドロス大王に似ておりますね。
ジャラールッディーンも「これは運命だな」と死ぬつもりだったかもしれません。
ただ、ジャラールッディーンはアレクサンドロスと違い、ここで死にませんでした(この時、家臣たちは「もしものことがあればジャラールッディーンの後継として娘婿のヤガン・タイシを推そう」としたようです。優れた武将です。ジャラールッディーンに男児はいたっぽいですが、「血統より最も強いものに継がせる」としたアレクサンドロス大王がしのばれます)。
すると、昼間は狩りに、夜は(イスラム教徒なのに)酒宴にうつつをぬかしだしたようです。
ちょっと壊れてしまったのかもしれません。
それでも、さらに次はサラディンの子孫たちがごちゃごちゃに絡んでいるダマスカス方面などにちょっかいをだしたりしていたのですが(ジャラールッディーンがあんまり強いので「うまい話」を持ち掛けて来る領主がいろいろいるのです)、あるクルド人にかくまわれ、そこで居合わせたある男に「かつてこいつはクルド人である俺たち兄弟を殺したものだ」として殺されてしまいます。
むやみやたらに戦争をけしかけまくったからの自業自得感満載です。
ただ、彼のカリスマ性はすごくて、中央アジアから中東一帯、特にイランではモンゴルに果敢に立ち向かった英雄として信奉されます。
実際に、彼が亡くなってからしばらくは、「俺はジャラールウッディーンだ!」という人がいっぱい出てきました。
私的なジャラールッディーン
私的には、よくわからない人です。
特にチンギスハーンに負けてからの後半生はやたらと周りにちょっかいをかけまくり、ぐちゃぐちゃにしていってくれます。
モンゴルと闘いたいと言っていたのに、同じイスラム教の国々を攻めまくるところも、なんだか節操がないです。
でも、味方に優しく義理堅い彼は、「苦手のモンゴルを相手にするより、得意の他を相手にして勝ちまくった方が、味方を満足させられるな」と思ったのかもしれません。
最後の方で、みんな諦めてしまったかのように狩りや酒にうつつをぬかすのも中途半端です。
でも、彼はその狩りで、常人離れした戦の感を研ぎ澄まし、皆との酒宴で不器用ながらも彼らの心を知り、つなぎとめていたかったのかもしれません。
かかる『悪漢』になぜ井上靖が惹かれたのだろう。
そう思うと、ジャラールッディーンの類稀なる一生懸命さからでは、と伺わせます。
基本的に、井上さんは一生懸命生きている人が好きです。
特に、「時流や運命や世間に冷遇されつつ」という人がいいようです。
そういう人の方が、「一途さ」にエッジが利いてたまらないようです。
その点、ジャラールッディーンは、途中まで凄まじい一途さがありました。
また、明らかに時流や運命や世間に見放されまくったところも、何とも言えず哀感を誘います。
最後の方でぶっこわれ気味になったのも、たまに小賢しいことをたくらむところも、たぶん、「逆に人間らしい」というか、井上さんには「深み」になるんだと思います。
実際、ジャラールッディーンはこんな人だったからこそ、あれほどの事績を残せたのだろうとは思います。
アレクサンドロスになれそうでなり損ねた男。
あのチンギスハーンに「こいつのようになるんだ」と言わしめた男。
自分と周りがぶっ壊れるまでやりまくった男。
ジャラールッディーンが亡くなってホラズム王国は霧消しました。