
確かに、羽柴秀吉は織田信長のとても優秀な家臣の一人なのですが、途中まではライバルの明智光秀にポーンと追い抜かれたまま、柴田勝家ともわりと功を競った状態にありました。
なのに、なんだか途中から一気に躍進し、ごぼう抜き!
いつの間にか織田家中随一といってよい軍団長にまで出世します。
なぜなのでしょうか。
なぜ羽柴秀吉が急に出世したのか
①テクをどんどこパクる貪欲さ

何でも、成長したければ、まずは人から技術をパクれ!といわれます。
日本の芸道でも、ステップの道は「守・破・離」
まずは、先人たちからしっかりした技術を吸収することに徹する守から始まります。
今、世情を騒がせている某大国も、抜け目なく外国の技術を自分のものにするようになって急成長しました。
その点、羽柴秀吉については、
①彼の十八番と言われる城攻めは、どうも明智光秀からパクったような形跡が見られます。
三木城の干殺し、は、明智光秀による徹底的な攻囲戦である八上城攻め、とほぼ同時期です。
②家臣に羽柴や豊臣の姓を授けまくる、というのも先にやっていたのは明智光秀でしょう。
③姫路城に天守を造ったのは織田信長からのパクリ
秀吉は、歌を細川幽斎に、連歌を里村紹巴に、茶道を千利休に、などなど、新しいキャリアを積むのにその分野の超一流に率先して師事する人です。
たんに賢いだけでなく、大変な頑張り屋さんだったのですね。
②黒田官兵衛との出会い

よいブレーンというのはやはり大事なのですね。
軍師黒田官兵衛と出会ってから、苦戦膠着気味だった中国戦線が一気に羽柴有利に代わってゆきます。
なにせ、官兵衛は地元である播州を上手く取り纏めてくれますし、また、奇想天外な城攻めもたくさん提案してくれます。
そのほかにも、重大な功績数知れず。
そして、官兵衛自身も自分の能力を存分に生かしてくれる上司に出会い、しっかり歴史に名を残せるまでになりました。
まさに水魚の交わりです。
③銀山との出会い

そして、どうも置き忘れられがちなのがこれだと思います。
銀山との出会い。
1569年、秀吉は総大将として但馬の山名征伐を敢行します。
結果、即圧勝!
こうして、当時、山名重臣である太田垣氏が権益を握っていた生野銀山を接収いたしました。
さて、その後の秀吉の動きを思い起こしてください。
三木城干殺し。鳥取城攻めの準備として因幡の穀類を買い占める。鳥取城の餓殺し。備中高松城水攻め。
これらはみんな「やっぱ元祖田中角栄かよ!(田中角栄は秀吉にあやかり今太閤と呼ばれておりました)」とつっこみたくなるほど、大金バババッ!のブルドーザーぶり。
また、摂津多田をそれまで何百年と抑えていた塩川氏から無理やり奪い取り、直ちにそこの多田銀山を開発し、バブリーになったことも。
なんという銀山への執着ぶり。
恐らく、そのうま味を存分に知っていたのでしょう。
ビッグマネーなくして秀吉あらず。
そして、銀山なくして本能寺の変すらなかったかもしれません(明智光秀が追い込まれることはなかったかも)。