
古代・中世の戦争でたびたび出てくる水攻。
血を流さずに敵を降す、というとても画期的な策。
に見えますが、本当でしょうか。
私は、下手な使い方をすると、その身を亡ぼす近道だと思います。
水攻とは?
水攻とは、敵の陣地や城を水浸しにし、防御力・士気をだだ下げにし、敵味方あまり血を流さぬ替わりに土木工事をせっせとやり、敵をやっつける画期的な策です。
孫子の兵法にも、敵を攻める策の一つとして書いております。
なんてナイスな戦術?

水攻こそなんてナイスな計略、として二度も使った男が日本におります。
豊臣秀吉です。
見事成功して、強敵毛利・紀伊太田党を降し、彼の天下取りに大いに貢献した、と言ってよいでしょう。
が・・・
水攻は使った人間を亡ぼすやばすぎる戦術だ?

本当にそうでしょうか。
水攻というのはとどのつまり、敵の拠点とその一帯をぐろっとまるっと水没させる戦略です。
つまり、周りの田畑、商街、王族貴族街、見境なく、です。
特に古代中世における日本や中華大陸の人間社会のほとんどは農耕地。
ここを勝手に全没させられるのです。
豊臣秀吉の場合
秀吉は人たらしだったとはいえ、そういう辺には気が回らなかったのでしょうか。
いや、そもそも彼は貧農上がりであり、家庭環境もからんだ苦心惨憺からかえって「黒歴史として葬りさりたい」という意識が濃密なほどです。
私は、秀吉がたった二代でほろんだ、のはその辺が大いに作用しているのでは、と思っております。
秀吉は、ほかにも三木城干殺し、鳥取城餓え殺し、朝鮮出兵などをやっております。
目の前で、田畑、家郷、人、をたちまち無尽に帰す、ようなのを見せつけられると、「このおっさん何を目指しとんねん」と、多くの人がなるのはむべなるかな、と思います。
実際、彼の死後、彼の後裔を味方する人は軒並み減ります。
石田三成も

秀吉子飼いとして、出世した石田三成も、師父を倣い、関東の忍城でこれを使いました。
結果、見事失敗したのですが。
三成もやはり、同僚や全国の大名の多くに背かれ、その身を滅ぼします。
大名というのはその下に組下小名がおり、彼らの多くが農耕民を礎にしております。
曹操も

中華大陸も東北など一部の地域を除くと、大農耕地帯です。
三国志、の中でも特によく水攻を使ったのが曹操。
袁紹に勝ってから順当にいけば、中華を統一してしかるべき。
が、諸葛亮や劉備閥、呉などの抵抗により、思いがけず頓挫。
それどころか、曹操が建てた魏は建国五十年持たずして、内臣の司馬氏に乗っ取られ、滅びます。
関羽も

そして、三国志で水攻を使ったと言えば、この人、関羽。
これで、于禁を虜にし、宿敵曹操の喉元に刃を突き付けたのですが。
その矢先、同盟相手呉の呂蒙が翻り、たちまち窮地に。
さらに、仲間であるはずの麋芳、劉封、孟達に助けを頼むも袖に去れ、四面楚歌で敗死。
春秋時代の最後を彩る晋陽の戦い
中国史ではそれを遥かに遡る、春秋時代の終わりにやっちまってます。
大国晋が王族不足で弱体化し、その家来である者らの権益争いで、智氏が優位。
そして、智氏は晋を改めて「統一」すべく、ほかの晋内ライバル豪族たちを束ね、「晋内第二勢力」つまり智氏のライバル趙氏を征討。
そこで使ったのが水攻。
効果覿面。
もう趙氏も滅亡間近。
ウハウハが止まらない智氏。
が、味方していたはずのほかの有力豪族魏氏、韓氏が「智氏やばくね」「つーか、どーせ、こいつ、趙氏の次俺たちを亡ぼす気満々でしょ」と、結託し造反。
智氏は忽ち滅亡します。
ほかにも・・
日本国内では、戦国時代、近江の六角氏が浅井氏に対し水攻をおこない、失敗します。
その後、六角氏は浅井氏に惨憺たる敗北をなめ、さらに織田氏の台頭により、近江から追われます。
人心に気を付けよう
ただ、オランダやモンゴルでは、この策をとっても、なお繁栄した形跡があります。
TPOでしょうね。
ヨーロッパは信教というのがとても大きな意義を持っており、そのためならば、水攻で、自分たちの土地や他人の土地がどうなろうと構わない、というのがあるのかもしれません。
また、モンゴルでは、農耕より遊牧。
ともかく、他人の土地でもものにしさえすれば、OKという要素が強いようです。
あの人たらしの秀吉でさえしくじりました。
気を付けましょう!