
日本の戦後復興と台頭は世界史的奇跡と言われます。
なのに、ここ二三十年ほど停滞基調がやまない原因とは何なのでしょう。
どうも日本史や地政学をあさっていると、気になる考察に行き当たりました。
ランドパワーとシーパワー
地政学に、ランドパワーとシーパワーという概念があります。

ランドパワーは、ごく簡単に述べると、
☆内陸的
☆陸軍重視
☆農林業重視
世界史的には、ロシア帝国、モンゴル帝国、清、プロシア帝国、アメリカの覇権などが当てはまります。

これに対し、シーパワーとは、
☆海洋的
☆海軍重視
☆商業重視
大英帝国、カルタゴ、スペイン、ポルトガル、などが当てはまります。
日本史における地政学

日本と言えば、島国。
だから、当然シーパワーに軸を置かれていそうなものです。
実際、縄文以前、日本はかなり海洋交易が盛んだったようです。
ただ、米作りが盛んになる弥生以降となると様相が変わってまいります。
天平時代や平氏政権など、たまに海外交易に積極的になるのですが、
それは概して一時的。
必ず、遣唐使を廃止したり、源氏が平氏をやっつけたりして、
☆鎖国的
☆農林業重視
にすべからく安定してゆきます。
日本には、イギリスや、スペイン、カルタゴみたいにあまり外敵がやってこないからでしょうか。
そして、内需である程度賄えるからなのでしょうか。
確かに、自然はとても豊かで、資源も(金銀石炭錫木材など)人口も少なくありません。
戦国時代の終結もやはりこのパターン
実は戦国時代の終結もやはりこのパターンです。
そもそも戦国への突入は農産の下がる小寒期に入る時期と重なります。
そして、その後続く混乱を収めていくのが、とても
☆商業的
☆外交的・外征的
な織田信長、豊臣秀吉。
どうも彼らにはシーパワー的要素が強いです。
ところが、彼らの天下は長続きしません。

ものすごく
☆農業的
☆鎖国的
な徳川政権(徳川氏も始めはわりとシーパワー的な統治を目指していたようですが、すぐやめました)にとってかわられ、こちらは二百六十年続きます。
なぜこんなことになったかというと、目の前で、南蛮貿易、とか、鳥取城餓え殺し、とか、忍城水攻め、とか、朝鮮出兵、などを見せつけられた当時の大多数の国民(そのほとんどが農民かそれにまつわる人たちです)からすると、「なんじゃこりゃ!?」感ははんぱなかったと思わずにおれません。
目に見える田畑という田畑を勝手に青田刈りして、家里を焼き払って、水に沈めて、ぼっろぼろむきだしの大地と、食うものにあえぐ人々、・・・これは敵味方問わず想像を絶する光景だったと思われます。
そして、その分を何やらよくわからぬでかい船や異国人との商売で、糧を稼ぐ、これも奇術か詐術のように見えたかもしれません。いや、多分見えたと思います。
明治~太平洋戦争はシーパワー

かように日本は長らくランドパワーの伝統を受け継いてきました。
が、大きな転換点はやはり黒船。
地球儀ひとつとなった、帝国主義真っただ中の時代にあって日本も鎖国を守ることができなくなってしまいました。
そこで、ついに明治維新。
そこからは一転して、国内の近代産業化が進み、日清・日露を経て、列強の一角となります。
しかし、第二次世界大戦により挫かれることになりました。
戦後の日本史

そして、戦後日本の経済大国化も明らかにシーパワーによるものです(ただし、土台事態はそれまでの農民的なあるいは職人的なものが濃厚です)。
安くて革新的で優秀な商品をたくさん作り、日本のビジネスマンは世界を駆けました。
この頃に合わせて、日本国内の労働人口も第一次産業から急激に第三次産業化します。
しかし、
日本人(和人)の伝統的な精神はランドパワー
日本人(和人※)の魂の奥底にはやはり農民的なランドパワー的なものが強く宿っていると思います。
(※日本は本来、単一民族国家ではありません。ほかにアイヌや蝦夷、渡来人、外国人労働者などいろんな民族を包括した歴史があります。また先述しましたが縄文以前となると、価値観がだいぶ異なるようです)
本来、あまり変化を好まず、身近にあるものを大切にし、地道に成果を上げていく。
そういった本音が経済大国化するごとに顕在化してきたのでしょう。
当然のことながら、それは、一概によい、とか、悪い、とか、断じきれる質のものでないでしょう。
実際、長い江戸時代に、日本は、世界にも誇れる、美術や工芸、また、識字率が圧倒的に高く、物乞いが極端に少なく、リサイクル精神がごく当たり前に普及しておりました。
その一方で、まずい点もやはりいろいろと出てきております。
そう。
そして、20世紀末から世界的にグローバル化のうねり。
つまり、「こうしたい」という本当の想いと、現実の乖離が激しくなり、
厳しいながら、平安末期、戦国期、幕末のような状況に近づいているのだと思います。
目指すべき方向とやることがあいまいになってるのでは
そして、また一つ気になるのは、日本の台頭のキーになってきたのは、日本人本来の農民的・職人的気質に根差したものでありながら、最近はそれが変にないがしろにされて(空洞化・イノベーションの希薄化など)、とにかく売れればいい、的になってきているようにも思います。
戦国時代に陸軍が世界最強クラスになったのは、鉄砲を改良する鍛冶職人の力量が、
近代になって日本文化がクールとされたのは、それまでの非唯物的な精神の醸成や、たぐいまれな作品を生み出す芸術家や工芸家が、
戦後日本のトヨタもホンダも松下も、
彼らが若い頃、何を学んでいたのか。
あるいは、とにかく売れればいい、というのも一つの道ではあると思います(とはいえ、市場倫理の担保は必要だと思います。いや、その場合余計必要になるでしょう。無視すると、世界史的にそうであるように、すぐにひどいことになってしまうでしょう)。
が、そのためにも、そういう人材を作る教育から変えていかなければならないと思います(外国語やネット、AIやビジネス、金融、資産管理、対人心理など)。
あの頃のカルタゴ人やソグド人、ベネチア人などは若いころから一般教養よりほかのものをよく学んでいたはずです(別に一般教養が悪いと言っているわけではまったくありません)。
ここ二三十年はそのあたり、何を目指してそのために何を身に着けていくのか、かなり場当たり的になっているのだと思います。
あるいは、衰退するなら衰退するのもあり(人間の幸福はお金や人口、政治力軍事力だけではわりきれません)で、ならいかに有意義に衰退するか、というのを真剣にやった方がよいと思います。
だれしも人生には限りがあります。