
世間。どうやら自分にも、それがぼんやりとわかりかけてきたような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ。人間は決して人間には服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペ返しをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き延びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋は世間ではなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当たっての必要に応じて、いくぶん図図しく振舞うことを覚えて来たのです。
引用。太宰治「人間失格」より