
日本史最大のミステリーの一つ、本能寺の変。
なぜ明智光秀は主君織田信長を討ったのか。
今までいろんな原因が取りざたされてきましたが、真相はこれだと思います。
本能寺の変の従来説はいろいろあるが・・
従来パワハラ説の信ぴょう性

まず、従来のパワハラ説オンパレードを一挙に紹介しましょう。
◆丹波の八上城攻めで攻めあぐね、和議の条件として光秀は母を差し出した。しかし、信長はそれを聞き、「何勝手なことしとんねん!」と八上城主の波多野秀治とその弟秀尚を処刑。八上城側はぶち切れ、腹いせとして光秀の母を処刑。
◆宴席で、信長が下戸の光秀に「おら、酒飲めや。俺の酒が飲めんのか」と槍の穂先を向けておどし、ぐいぐい飲ませる。
◆徳川家康一行を安土に招き、光秀にその接待役をやらせたが、梅雨と言うこともあり料理の魚が腐っていた。それに激怒した信長が「どんだけ使えんやつやねん!」と、料理を全部堀に投げ捨てた。
◆信「君の領地である坂本と丹波を召しあげる。代わりにまだ未占領の石見と出雲をあげる」
◆光秀が稲葉一鉄配下の斎藤利三を引き抜き、利三はさらに那波直治まで引き抜いてしまい、さすがにぶちぎれた稲葉一鉄が信長に訴え、信長は光秀を髻をつかみ突き飛ばした。
◆甲州征伐の折、諏訪で、光秀が「我らも骨を折った甲斐がありました」と言うと、信長は「お前がいつ骨を折ったのだ!」と激高し、欄干に光秀の頭を何度も叩きつけた。
この上4つはが当時からだいぶ経ってから作られた読み物に書かれたもの。
よって、信ぴょう性があまりありません。
ただし、斎藤利三の引き抜きの件は、稲葉家文書に書かれ、信ぴょう性は比較的高いです。
実際に、その信ぴょう性で非常に名高い南蛮宣教師ルイス・フロイス『大日本史』にも「明智光秀が織田信長に暴力を受けているという噂がある」と書いています。
また、諏訪での折檻は江戸初期の川角太閤記に書かれたもの。
本能寺の変の時代に比較的近く、光秀の臣だった山崎長徳による話などがあり、幾分の信ぴょう性があります。
さらに一応書いておくと、丁度この頃、光秀の嫡男十五朗の初陣の年頃とかぶさってくるのですね。
こんな傷だらけの姿をそこでさらす、というのはちょっとその屈辱たるやはかり知れません。。。
陰謀説あれこれ

従来説ではこんな陰謀説がありました。
◆羽柴秀吉
◆足利義昭
◆朝廷
など。
なかったとは言いませんが、それだけで動く人物に光秀は見えません。
明智光秀と言う人は大変に「合理的」であり、「慎重」です。
野望説
明智光秀は大変に有能で、野心的です。
ぶっちゃけ、彼らのようにちゃんと膳がすえられていたら、織田信長、豊臣秀吉よりもうまく天下事業をやってのけていたのではないか、とすら思いますし、自信もあったような気が・・
そんな明智光秀の気質をよく物語る彼自作のこの一首。
「我ならで 誰かは植ゑん ひとつ松 こころしてふけ 志賀の浦風」
訳)自分以外の誰が植えるというのかこのひとつ松。こころして吹けよ。志賀の浦の風よ。
最近、光秀と言う人はかなり大人しい人と思われている節が強いです。
が、実際のところ、かなり勝気な人格が見て取れます。
さらに、この手紙。
「仰木の事は是非ともなてきりに仕りべく候」
訳)仰木についてはぜひ皆殺しにしたいです。
これは延暦寺焼き討ちに際しての一文です。
いかに戦国乱世とは言え。
という光秀。
天下への野心はあってしかるべき、ですが。。。
光秀は身内家族部下領民などには非常に情の篤いところがあります。
万一失敗した時のことを考えると、光秀はそんな伸るか反るかの大博打に軽々に手を出すとは思えません。
本能寺の変の原因、本当のところはたぶんこう
おそらく、原因は単純にひとつだけではありません。
かなり複合的です。
本能寺の変の前に起こったあれこれ
この明智光秀と言う人物を調べていると、本能寺の変(1582.6.2)の起こる数年前から気になることが立て続けに起こっております。
佐久間信盛、安藤守就、林秀貞、丹羽氏勝の一斉解雇(1580.8)

佐久間は当時織田家臣の中で最大領土でした。安藤は旧美濃三人衆。林はかつての筆頭家老。丹羽は工事中の大石が信長の通る通りに落ちてしまったのでクビになりました。
前線から遠のく・・

光秀は天正7年(1579年)に丹波・丹後の平定を完了。
実はこれを境に光秀の戦闘前線への配置がほぼなくなります。
以後は、領国および近畿の内治、あるいは、信長によるイベント興行(左義長・京都馬揃え)などの支援。
こちらも大事な仕事ですが、焦りはなかったでしょうか・・
長宗我部氏への態度の豹変(特に1581年末から)

長宗我部元親の正妻は明智光秀の部下の縁者です。
光秀は織田と長宗我部の橋渡し役になっておりました。
が、長宗我部が勢いづき四国を平定しそうになると、信長は渋りだします。
そう、信長は結構「ケチ」なのです。
そして、信長のもう一つの悪い癖が、「いきなりやっちまう」です。
平手政秀の息子の馬を取り上げる、お父さん信秀の葬式に抹香を投げつける、浅井に無断での朝倉攻め、徳川信康・築山御前の粛清など、大変なことをほぼ「気分かよ」というノリでバーとやってしまいます。
そこが信長の味でもあるのですが、周りを大変に驚かせます。
さらに、長宗我部については、どうもこやつがいっちょ噛んでます。
羽柴秀吉です。
実は羽柴秀吉の一門の羽柴秀次、ええ、あの人です。
秀次は当時、三好康長の養子になっておりました。
三好康長は長宗我部の四国における対抗勢力です。
が、長宗我部に押されまくり、もはや風前の灯火でした。
で、康長は信長に泣きつくのですが…
そして、1581年11月、秀吉は黒田官兵衛という男と突如淡路に攻め込むのですね。
当時、淡路は毛利方となっております。
で、たった一日で平定。
もう、四国は目と鼻の先です。。。。
あやしすぎます。。。。
さらに、意味深長なのは、、、
本能寺の変の直前の日付(天正十年五月二十一日付)で、長宗我部から斎藤利三への手紙が。
斎藤利三は明智光秀の重臣であり、長宗我部元親の正妻の親族です。
まさに、織田・長宗我部橋渡しの実務役です。
そして、その手紙の内容とは、
「長宗我部が信長の言う通り、土佐一国と阿波の一部以外すべて返してもいいよ」
というもの。
丁度この頃、織田軍は信長の子である神戸信孝と宿老の丹羽長秀を大将として四国征伐隊を編成し、出撃寸前でした。
結局、この手紙はいつごろ届いたのでしょうか。
もし本能寺の変までに届いたなら、光秀や利三は信長に訴えに行ったのでしょうか。
光秀は26日には亀山入りしているので、それ以前に光秀のもとに情報が行っていないと、信長との面談はなかった公算が高いでしょう。
もし、26日までに光秀が知っていたなら、亀山入りの前に京で、信長に訴えようとし、拒絶されていた可能性が高そうです。
と言うか、この手紙を届けるのは“特に命がけ”の“喫緊”。
一方、大阪湾近辺は織田方によって反毛利・長宗我部戒厳状態にあったはずで、すさまじい人間ドラマがあったことが推測されます。
ライバル秀吉の大躍進

おそらく光秀最大のライバルと言ってよい羽柴秀吉がこの頃大躍進しております。
そう、それまで秀吉は光秀より一歩後ろを行く存在のはずだったのに、、、、(官兵衛の存在は相当でかいかもしれません。秀吉大出世の3段ロケットは1.織田家加入2.軍師官兵衛を帷幕に3.信長の死、では?)
播磨・但馬・淡路・因幡を平定。
さらに、美作・備前(宇喜多氏)・伯耆(南条氏)を誘降。
光秀は信長からそんな「秀吉を助ける」べく中国出陣の命を受けます。
明智光秀の縁者御ツマキの死

本能寺の変の起こる1年前、光秀の縁者である御ツマキという女性が亡くなっております。
御ツマキとはどうも信長の奥の人物らしく、『兼見卿記』や『言継卿記』などに記される実在性のかなり高い人物です。
光秀の妻(妻木氏)の一族の者と考えられます。
信長には「一段ノキヨシ(=いい女)也」としてかなり気に入られていたようですが、天正9年の8月に亡くなり、光秀は尋常ではなく気を落としたようです。
おそらく御ツマキは、信長の奥と光秀の連絡役であり、調停役だったのでは、と思います。
奇跡的天変地異などあれこれ・・

実は、本能寺の変が起こる頃、珍しい現象がいろいろと立て続けに起こっておりました。
三月には京都でもオーロラを確認。
ほどなく、隕石落下。
五月十三日には彗星出現。
そして、本能寺の変の日は朔(新月、闇夜です)。
しかも、織田信長はわずかな供回りとだけ。
ほかの目立った部将はみんな遠国。
信長の嫡男信忠もわずかな手勢で信長のすぐ近くに寝泊まり。
また、織田信長は天下統一の寸前、もうチャンスは二度とやってこようとは思われません。
さらに、光秀が本能寺の変の直前までいた場所が大事です。
丹波亀岡は足利尊氏が反鎌倉幕府の挙兵を行った地です。
光秀が「天の声」と思ってしかるべきです。
織田家の近畿管領的な人間はみんな没落した
これは余談として読んでください。
そう、明智光秀と言えば、本能寺の変当時織田家の近畿管領的地位。
ただ、ここに呪いがあるのです。
池田勝正、荒木村重、原田直政、佐久間信盛、前任的な彼らはみんな没落していっているのです。。。
当時の光秀は「ああ、俺も・・」と言うプレッシャーはあったかもしれません。。。
“強くなりすぎた勢力”のトラウマ
これも余談です。
長宗我部が信長に目を付けられ始めたのは「強くなりすぎたからではないか」と言われることがあります。
実際、なんでそれまで長らく敵対し、向背常ない体質で、しかも、もう死に体となりつつあった三好を助け、それまで、長らく盟約を結び続け反毛利・反三好で成果を出し続けていた長宗我部をわざわざ切ろうとしたのでしょう。
さらに、クビになった佐久間信盛とて人格や成果に問題はあったかもしれませんが、もう一つどうしても気になるのは「近畿に織田家臣最大の勢力を誇っていたこと」。
そんなんが身近にいれば、信長も安心してられないでしょう(本願寺・毛利あたりと組んじまえばえらいことになるな・・)。
となると、信長の気質をよく知り、嗅覚の鋭い光秀も「こりゃ、信長様のいつもの“あれ”が私に対して発動しつつあるかも・・」と心配になると思います。
そもそも明智光秀は織田家中で“浮き”がちだった?
明智光秀は「新参中途採用」と言うことで、従来の織田家臣たちにあまり受けが良くなかったようです。
ルイス・フロイスがそう書いてます。
しかも、光秀は朝廷や将軍家などとの折衝が得意の都会的な文化肌としてあっと言う間に大出世。
柴田勝家、羽柴秀吉、佐久間信盛、あたりからしたら「かなりいけ好かない奴」に見えたかもしれません(柴田はそれでも光秀に厚情を見せる義理を果たしたりしております)。
そんな孤立した中で、信長が秀吉の口車に乗り、大事な仲間である長宗我部や斎藤利三などをボロボロにされかけたら、余計に「うぬ・・」という気になるかもしれません。
結論
元来
◆非常に有能で野心があった
◆自分の身内部下などへの信義は非常に篤かった
◆主君信長には大変な恩義とリスペクトがあるが、一方で何ともできないムラも思い知っていた
そこに来て、ブラック企業体質の織田家(領民に対してはわりと優しいです。弱者保護、特権排除、信賞必罰徹底、が目立ちます。が、武将・大名らにはなかなかきつそうです)における尋常ならざるプレッシャー。
◆一家みんなで命がけの過当競争気味
◆一つ間違えば、すべてを失うのをいっぱい目の当たりにしてきた・・
◆リアル暴力もたぶんあった・・
◆しかも、ライバル同士の陰湿な足の引っ張り合いもいろいろ・・
◆さらに、その秀吉が中国地方で大活躍。
そして、
◆頼りにしていた御ツマキが亡くなる(あの気の変わりやすい信長様とこれからどうやっていけばいいの?)
◆長宗我部との盟約を反故にするって何だと思ってるの?
◆秀吉の「お助け」をしろってかい!?
◆ほかに「囁く」ものもあったかもしれない
さらに、
◆「天」が、「お前が織田信長をやっつけろ」と言っているようにしか思えない
こうして、明智光秀はついに意を決してしまうのでしょう。。。
にしても、羽柴秀吉、、、、大横入れのちゃぶ台返しで、明智光秀も、信長の遺児たちも、まんまと掬い蹴散らし、盗み取ってしまいました。。。