
明智光秀のことを調べてみると、一度はこのフレーズに出会うと思います。
「その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた」
引用『大日本史』
「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。」
引用『大日本史』
まあ、ほかにもつらつらと続くのですが・・
これを書いたのはルイス・フロイス。
当時日本にやって来ていた著名な南蛮人宣教師です。
じゃあ、なぜわざわざルイス・フロイスはここまで明智光秀をボロカスにこき下ろしたのでしょうか。
どうもひとつ気がかりな説に行き当たりました。
明智光秀とキリシタンの関係。
そもそもルイス・フロイス『大日本史』とは?

ルイス・フロイスはとてもまじめな南蛮宣教師です。
任務には非常に忠実。
つまり、偉大なるカトリック世界を世界中に浸透させるためにその一命を捧げております。
そして、とても筆まめ。
愛すべき祖国(ポルトガル)やカトリックのためにほとんどだれも行ったことがない遠国の日本について、実に事細かく、できるだけ正確に書き記し、伝えよう、という大いなる使命でしょうか。
であるため、彼の遺した『大日本史』は今でも歴史第一級資料として非常に重要視されております。
ただ、読むとわかるのですが、癖が強いです。
まあなんというか少年漫画の世界です。
いいもん、と、悪もん、の区別がすこぶる明快。
基準はただ一つです。
カトリックにとって、いいもん、か、悪もん、か。
おかげさまで、朝山日乗(信長のブレーン、日蓮宗の権威的僧侶、安土宗論でロレンソ了斎に負ける)、本願寺、松永久秀(キリシタンを追放したことがある)などはボロッカスに書かれております。
その勧善懲悪の図式があまりにあからさますぎてもはやギャグか?と言う世界です。
『北斗の拳』の敵役みたいなもんですね(古くてごめんなさい)。
朝山日乗はジード様。
本願寺はラオウ。
松永久秀は聖帝サウザーみたいな風に私は読み取りました。
それに比べると、熱烈なキリシタンである高山右近なんかはトキみたいです。
さて、本題に戻りましょう。
そんなルイス・フロイスの『大日本史』に明智光秀がどう書かれているかと言うと・・
『大日本史』の中の明智光秀
殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
引用『大日本史』
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
引用『大日本史』
また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついにはこのような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二カ国の国主に取り立て、信長がすでに破壊した比叡山の延暦寺の全収入とともに彼に与えるに至った。
引用『大日本史』
ほとんどユダ様(『北斗の拳』で悪逆な謀略を使い主人公一味を苦しめます)のようなあつかい・・
よほど、キリシタンの嫌がることをしたのでしょう。。。
明智光秀はキリシタンになんの嫌われることをしたの?
でも、今一般的に知られている範囲では、明智光秀がキリシタンにそんなあからさまな嫌なことをした記録が全然残っておりません。。。
なんで?
濡れ衣?
いや、いや、そんなことはないでしょう。
そうです。
ひとつ思い当たることがあったのです。
それが、八上城攻め。
丹波の波多野秀治を征伐するときにおこなった凄惨な籠城戦です。
というのも、この戦で明智光秀は相手の兵糧補給を徹底的に遮断し、城内を飢餓地獄にしてしまっているのです。
その「籠城兵らの草木をも噛み、牛馬をも食べる」生々しすぎる様は『信長公記』や『信長への手紙』にまで残されている事実です。
で、実はあまり知られていないのですが、どうも波多野秀治はキリシタンぽいのです。
というのも、波多野秀治はなぜか家紋をそれまで伝統の「鳳」から「丸に出“十字”」に変えてしまっているのです。
しかも、彼の領国の近くには、播磨や摂津といったキリシタンの盛んな地域がたくさん。
また、波多野秀治は同時期に反織田で籠城戦を戦った三木城の別所長治のように開城しないのです。
あれだけ飢えてるのにずっと戦おうとするのです。(波多野秀治は味方の将士らにクーデターを起こされて、明智方につき出された、と言う説があります)
まるで、島原の乱みたいな執念です。
すると、どうでしょう。
『大日本史』に書かれていた内容って、明智光秀の丹波攻略のやり方と一致する点がやたら多いのですね。。。
・調略駆使
・いくら負けても粘り強く攻める
・敵味方に信賞必罰を徹底
など。
当時のキリシタンというのは大変な独自のネットワークを持っております。
水面下での相互融通というのがすごいのですね。
島原の乱なんかでも、島原と天草は海を隔てているのに、いつの間にやら「彼らは一つ」になっているのです。
で、一度小さな火が点くと、瞬く間に大反乱になっちゃうのです。
となると、丹波八上城での受難者たちの情報がフロイスのもとに、となるのはごく自然。
フロイスはこんなのを絶対に忘れることはないでしょうから。
そして、気の毒なことに、明智光秀はこれが後の仇となってしまいます。。。
山崎合戦での高山右近の向背
そうなんです。
あの光秀一世一代の大勝負である山崎合戦で、高山右近が羽柴秀吉方で参戦しちゃうのです。
しかも、右近はフロイスから「やつは悪魔の友。でうす様の敵だ」と吹き込まれておりましたので、大いに大いにはりきって最先陣として明智陣に突撃してまいります。
ほかの中川清秀といった摂津衆もしっかり秀吉方についてますし。
右近に「絶対に秀吉についた方がいいですぜ」と吹き込まれましたかね。。。