
前から気になっていたのですが、鳥取城の山名家臣、つまり、今日にも明日にもころころころころと主君を入れ替え、毛利につき、織田につき、とまあ節操の「せ」の字もない人たちがなぜか吉川元春のために命がけであの「鳥取城餓え殺し」を敢闘しているのですね。
吉川元春、なにものやねん?
吉川元春とは?

毛利両川の一角。
毛利元就の次男。
作り話らしいですが、あの「三本の矢」の一人です。
主に山陰方面を担当しておりました。
小説・ドラマなどでは何かにつけ、「知将」の弟小早川隆景(主に山陽担当)との対比で、ただの「武勇一点張り」あつかいです。
でも、どうもこの人のおこないにいろいろと触れていくとそんな小物キャラには到底見えません。
備中兵乱ではこんなことも
戦国後期から安土時代、近畿から四国・中国にわたってほとんどの勢力は、織田と毛利の間を行ったり来たりしております。
そう、「こうもりやろう」と山名だけが言われる筋合いなんてのはまったくありません。
そう考えると、今世界が米中で揺らいでおりますが、旧西側なんだからアメリカにつくだろうとか、あるいはその逆とか、そういう固定観念は実際かなり揺らいでますが、やはりあまり当てにならないかもしれません。
さらに今中国寄りだからと言って明日にはアメリカに寝返るなんてのは、現実として割と当たり前になるかもしれません。
世界はあの時代に近づいております。
話がずれました。
そう、岡山県でも守護赤松という蓋がすっかり外れてしまいまして、三村、庄、宇喜多、浦上などがしきりに覇権争いをやり、例の如くそこに「織田派につく」「毛利派につく」という後ろ盾戦略も活発となっておりました。
そこで、三村元親という大名が毛利側の後ろ盾としての甲斐性の無さにすっかり愛想が尽きたのでしょう。
織田方に鞍替えしてしまいます。
そこを鎮圧するためについに毛利が大軍を。
三村元親にしてみれば、「おい、それ、もっと早くにしてくれよ」と思ったでしょう。
本当に大毛利だ大織田だといったところで、他人様にはこんないい加減な仕打ち。
米中もおたがいいい加減なことをすると世界各地でドロドロになるでしょう。
もとい、こんな混乱の中、吉川元春は
「三村元親だって何か理由があって向こうに鞍替えしたんだろ。ちゃんと言うことを聞いてみないと」
なんてまともなんでしょう。
さらに、
「それでもごり押しするような無道なら、毛利も先は暗いな」
とまで言い捨てます。
その後、実際に毛利は織田におしこまれまくるのですから、元春の言っていることはある程度的を得ていたと思われます。
まあ、結局小早川隆景らは吉川元春の言うことを黙殺してごり押しし備中兵乱と言う混沌に突入してしまうのですが。
あ、吉川元春と言えばこんなこともありました・・
鳥取城に義理立て半端ない
鳥取の山名氏は毛利氏にもともと何か取り立てるほどの縁故はありません。
例の如く今日は織田・明日は毛利、と戦国の世を飄々と渡り歩くかつての名門山名。
そう、天正九年、この時山名は“たまたま”毛利方についておりました。
そんな山名で大変な事態が・・
殿さまである山名豊国がなんと、勝手に城を捨て織田方羽柴秀吉のもとに逃亡。
前代未聞です。
城に残った家臣らはここで吉川元春に泣きつきます。
するとなんと吉川元春は自分の一門衆吉川経家を鳥取の新城主に。
すでに圧倒的不利と言われたそこに敢えて送り込む、つまり、「義理のために死んでくれ」と言っているようなものです。
しかも、吉川経家は本当にこの鳥取城で最後まで敢闘し、「城内の者らの命の身代わりとして切腹」し、開城しております。
実はこの時既に吉川元春の軍6000はすぐそこまで迫っておりました。
が、相手は羽柴軍3万。
もはや、鳥取城も落ち、“不敗の将”吉川元春でしても勝てる見込みなどありません。
が、吉川元春はなおも突出し、川を背後に陣を敷きます。
背水の陣です。
秀吉はこの元春の捨て身を恐れ、ついには手を出すことができませんでした。
義理も人情もないこの乱世に、すごいですね。
吉川元春トリビアいろいろ
☆吉川晃司さんは吉川元春の子孫です。
☆『太平記』40巻を書写しました。『太平記』といえば、登場人物のほとんどが今日にも明日にも主を変え、部下を裏切る、のですが。。。楠木正成などの希少なキャラに感化されたのでしょうか。それとも、後醍醐天皇や足利一門などの右往左往ぶりを反面教師にしたのでしょうか。
☆敢えて不美人と結婚。そして夫婦仲良し。
☆生涯計76回の戦で64勝12引き分けの“不敗の将”