
三木の干殺し、鳥取の餓え殺し。
徹底した兵糧攻めはまるで羽柴秀吉の専売特許のように謳われております。
が、本当なのでしょうか。
明智光秀もほぼ同じころ、かなり似たような作戦をとって落城させております。
三木の干殺しと八上城攻め比較

攻城期間
羽柴秀吉の三木城攻め:天正6年3月末~天正8年1月中旬
明智光秀の八上城攻め:天正6年3月~天正7年6月
作戦内容
三木城攻め:三木城から半径およそ2kmの周辺を包囲。兵站を徹底して遮断。
八上城攻め:八上城の周辺に堀・柵を幾重にも設け、堀際に陣屋を隙間なく配置。
情報を盗んだとしたらいつ?だれ?
三木城攻め:天正6年夏ごろに明智光秀は播州方面に援軍に現れている。
八上城攻め:天正7年、羽柴秀長が丹波氷上方面に攻め込んでいる。
どっちが先?
わかりません。。。
ただなんだか豊臣秀吉の専売特許あつかいされているのには違和感を感じます。
明智光秀は秀吉より有能?
そもそも、明智光秀はああいう最後になってしまったために、どうも織田信長や豊臣秀吉、徳川家康より格下あつかいされているのが、どうも今一つ納得いきません。
織田信長に一番気に入られていたのは、秀吉より光秀。
しかも、築城、商業誘致、治水、調略、イベント、検地、人脈作り、戦争、・・
たいがい何をやっても一流です。
もし光秀が完全に天下をにぎっていたら、どんな活躍をしていたのか楽しみです。