
織田信長による比叡山焼き討ち。
従来の通説では、おびただしい数の堂宇、坊舎が軒並み焼き打たれ、僧俗老若男女垣根なくなでぎりにされ、谷という谷、尾根という尾根に死体の山が折り重なった、という織田信長の圧倒的無道ぶりが喧伝されてきました。
でも、本当のところはどうなのでしょう。
あれ?織田信長さん、ほんとに四方まる囲みの殲滅戦をしたの?
(引用google map)
この焼き討ちでひとつとても気になることが。
というのも、織田軍の攻め口。
早朝、東麓から3万の兵で。
おいおい、ちょっと待て!
比叡山は近江坂本、仰木、滋賀里からだけちゃいまっせ。
西の京口、大原口はどないなってますん!?
まあ、確かに京は織田政権下です。
が、本当にそこに大兵が満を持し待ち構えていたのでしょうか。
暗に逃げ場所を作っていたのかな、なんて気がするのですが。どうでしょう?(幕末の上野戦争とちょっと似てます。上野戦争では攻囲新政府方が天才謀士大村益次郎により旧幕府方の籠る寛永寺の根岸方面をわざとガラ空きにしておりました)
信長にとっても、坂本・比叡山を延暦寺に占拠されているのがうっとうしいだけで、その要地さえ押さえてしまえば、「問題にならぬ」と考えていたのか、という気が(こういうスタンスは今回の中国政府による香港介入も似たような傾向があるように感じます)。
昭和の実地調査でも言うほどの痕跡は発見されてない?

また、実際に、昭和の発掘調査でもあの時の消失跡や遺骸などの痕跡は思いのほかにすくないようですし。
ただ・・
比叡山焼き討ちは比叡山そのものより坂本・堅田近辺まで包括した被害が心配・・

ただ、これ、南京大虐殺と似たところがあるように思います・・
実は、うちの祖父が当時の日本軍の一兵卒として入京いたしまして。
曰く、「南京大虐殺の話はでっちあげもはなはだしい!」
「入京の際は少しぐらい反抗があるのかと思われたのに、さっぱりなかった」
つまり、日本軍による大した残虐行為もなかったようです。
ただ・・うちの祖父の逸話をさらによく聞いていくと違和感が・・
結局、行く先々で現地人に日々の食糧を提供させ、
「賢いやつらはな、向こうから『持ってってください』言うて、もてなしに来よる。なんでて?」
「やられへんないからな!」
と堂々。
私は中国人にかなり世話になった経験があったこともあり、思わず白い目を向けると、
「なんや!これは戦争やぞ!食うもんもないねん!どないすんねん!(華中華南の戦線ではかなり早期から本国からの補給がなくなりました。我が祖父曰く、どないして戦争しようっちゅうねん?また、そのまま大陸で太平洋戦争開戦を知って一言、大本営の連中は現場をなんも知らんな)」
ちなみにうちの祖父は普段決してそんな大それた人間ではありません。
こんな若者が何十万人も一挙に詰めかけ、何年も駐留するって・・(実際に、放火や殺人、強姦、略奪などの話を方々で耳にします)
もとい。
ここで、誰が悪いとか、そういったことが言いたいのではなく、南京大虐殺って南京市内では喧伝されるほどの被害は出てないかもしれないけれど、近縁も含めるとやっぱり・・(中国の皆さん、これはまぎれもなく日本の国恥です。本当に申し訳ないことをいたしました)
そうなんです。
この比叡山焼き討ちにおいても、麓の堅田や坂本での放火が。
実は当時すでに多くの人が比叡山から麓に降りて暮らしを営むようになっていた傾向が・・
やはり、その百年ちょっと前にあった足利義教による焼き討ちの影響があるでしょうか。
また、中世に入って流通経済が発展し、琵琶湖に面した堅田・坂本の相対的価値が上がったこともあるかもしれません。
市民生活が活発になってますからね。
つまり、織田信長軍はそんな市街地を“東”からローラーですりつぶすみたいにして。
当時、ここの主要統率官として当たった明智光秀が「仰木(堅田と坂本の間にある地)を無条件殺戮すべきだ」と書に残しております。
そして、戦後、信長はそんな光秀にこの坂本五万石を与えております。
織田信長による比叡山焼き討ちはまだまだ検証の余地がありそうですね。