
知る人ぞ知る奈良県北西部にある日本史の超穴場平群(へぐり)。
なにがどう穴場やねん!と言いますと、ビッグネームがここからどんどん生まれ出てるんです!
WAO!そんな人も平群出身?あるいはゆかり?
平群の地勢
↓場所はこちらです。
(引用google map)
生駒から下ってくる「ちはやぶる神代もきかず」龍田川沿いの谷間。
秋は渓流に流れゆく紅葉が名物です。
ご覧の通り、まさに古来平群谷と呼ばれた地勢であります。
守るにはうってつけですね。
また、南の王寺からは大阪平野にすっと抜けられます。
斑鳩の宮-奈良にも近いです。
というわけで、ここを根城にする勢力が発達しやすいのでしょう。
平群の日本史ビッグ3+α
①平郡氏

日本史の教科書にちらりと名の出てくる平郡氏。
古代のかなり重要な豪族です。
応神天皇以後、人臣最高の大臣(おおみ)に就いた強力な氏族の流れで
葛城氏の没落後にやってきます。
ワンマン経営で有名な雄略天皇の片腕としてかなり勢力を伸張させた平群真鳥(へぐりのまとり)が絶頂。
ただ、記紀では悪者扱いされる武烈天皇の命で討たれてしまいました。
そして、武烈天皇亡き後、後継ぎがおらず、継体天皇の大和入りを待つことになります。
この辺から大伴氏、物部氏、巨勢氏が台頭しています。
そして、その後が蘇我氏です。
②松永久秀

あの織田信長に「松永に世人になしえぬ三悪あり」と、言わしめた戦国の代表的梟雄。
三悪とは
①足利将軍義輝を暗殺したこと
②主家三好にそむいたこと
③東大寺を焼いたこと
信長に対しても何度も裏切り、最後は誅滅されました。
でも、どうも本当はそこまでの悪ではなさそうです。
足利義輝暗殺の現場には居合わせておりません。
また、主家三好に背いたと言われますが、もともと三好の正式当主義継を盛り立てようとしたのは松永久秀の方。
相手方の三好三人衆が勝手にその当て馬を担ぎ上げてきたのです。
そして、松永久秀と言って忘れてならないのが、類まれなその革新的才気。
日本の近代城郭のシンボル櫓(最初、松永久秀が多聞山城に造ったので多聞丸といいます)を発明しました。
織田信長にも大変に気に入られておりました。
そんな松永久秀が手塩にかけた居城のひとつが平群町にある信貴山城。
織田方の大軍に囲まれ、最後は信長が所望する茶器に火薬を入れ、抱いたまま爆死した、という壮烈な伝承が残っております。
③島左近

平群にはまだものすごいビッグネームがおります。
それが、「(石田)三成に過ぎたるもの」天下の軍師島左近です。
石田三成に石高の半分として召し抱えられ、関ケ原で大奮闘したとしてよく知られ、そのあまりにもの男ぶりから原哲夫氏の『SAKON(左近) -戦国風雲録-』の主役になるなど、今も圧倒的なカリスマを誇ります。
島氏はもともとこの平群谷の豪族。
当時中小勢力が割拠する中、筒井氏に付いて必死に盛り立てておりました。
ちなみに、この筒井氏は松永久秀とはお互い宿敵同士としてしのぎを削り合っております。
筒井氏は信貴山城の戦いで見事、松永に引導を渡しますが、その後、当主交代(筒井順慶→筒井定次)でそれまでの功臣たちの多くが冷遇され、致仕する人が続出。
こうして浪人状態にあった島左近に石田三成は声を掛けました。
役業者(えんのぎょうじゃ)もゆかりが深いよ
北の生駒山から南の信貴山まで、いわゆる生駒山地と呼ばれるエリアは古来修験道の聖地として親しまれ続けております。
なので、修験道の開祖と言われ、前鬼と後鬼を従え不思議な伝承をたくさん残した役行者が修行をしたと言われる地もこの辺りに点在しております。
平群町では、鳴川にある千光寺が有名です。