戦国山名氏について調べるほどにドン引きする・・今の日本もこうなってはいけない

歴史
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最近、山名氏について研究しております。

といっても、「六分一殿(※)」や「西軍の大将」と言われた輝かしい時代ではありません。

(※)室町前期、全国66か国のうち11か国の守護を山名氏がつとめていたことがありました。つまり、「日本全国の六分の一殿」という意味です。

戦国時代です。

はっきりと凋落傾向。

ただ、これがどうも他人ごとではありません・・

戦国日本の中でも屈指の無秩序状態、それが山名・・

戦国時代と言えば、家臣や領民が謀反を起こしたい放題、『○斗の拳』さながらの弱肉強食、ヒャッハーの世界です。

んが、私も因幡・但馬の戦国史を確認して戦慄しました。

いやいや、これはちょっとほかの地域とレベルが違うのではないか・・

おやっさん(当主)はあっちにつく、こっちにつく、仁も義もへったくれもありません。

同じ山名同士でも潰しあう。

実の親子兄弟でも関係ナッシング!

家臣は主君の暗殺を平然とする。

そして、部下どもが勝手にドンパチを始め、勝手にクーデターを起こし、主君を引きずり下ろし、やりたい放題。

ここはほかの地域と違って、長らく、求心的勢力が表れなかっただけに、まあそれはそれはいつまで経っても何度も何度も・・

あ、またやってる。

ここでもやってる。

さらにここでも。

敵も味方もありません。

領主・国人層がこんななのですから、領民たちは・・

ただでさえ、戦国と言えば、盗賊・殺人・拉致・奴隷が横行しているのに・・

鬼の哭く国です。

・・・

戦国山名暗黒史実例

以下は、全体の中のほんのごく一部にすぎません。

1467-1478年 応仁の乱

・・ここがケチのつきはじめです。

山名宗全はそれまで山名の勢力回復に並々ならぬ貢献を果たした怪傑だったのですが。

これですっかり消耗してしまいました。

1483-1488年 山名政豊が播磨赤松氏へと攻め込み、敗れる。

その後、父山名政豊と嫡男山名俊豊による抗争が勃発。山名政豊が勝つ。

1512年 山名当主致豊が家臣の太田垣氏、八木氏、田結庄氏らによってクーを起こされ、家督を弟に譲る。

・・覚えておいてください。

ここは太田垣や田結庄、垣屋、八木の山名四天王(もちろんほかの国人衆も独立色が異様に強いです)が「勝手なこと」をやりまくります。

ていうか、それだけ山名が弱ってるんです。

1529年 但馬二方郡の塩冶氏が、丹生氏を攻める。

・・家臣たちが勝手にドンパチ。

残念ながらこれは山名名物です。

山名宗全時代から半世紀、山名の求心力はすでに驚くほどありません。

1548年 但馬山名祐豊が因幡山名誠通を討ち取る。

・・山名は室町以来分裂しています。

で、このころには、それらはほとんど他家同然です。

これぐらいは同士討ちにも入りません。

?年 山名豊数、弟の山名豊国を追う

・・兄弟争いぐらいは朝飯前です。

ちなみに山名豊数とてすんなり因幡山名の当主に収まったのではありません。

お隣の山名本家祐豊にごり押しされたのか、一年間、祐豊の嫡男棟豊に当主の座を先取りされております。

で、この一年間、というのがあやしすぎる・・と私は見ております。

だってこのタイミングで棟豊は謎の若死にをしちゃってます。

1558年 塩冶氏と丹生氏らが抗争。

1563年 山名豊数、家臣の武田高信に居城を追われる。

1563年 武田高信が山名豊成を毒殺。

1569年 山名祐豊が東から織田、西から毛利の圧迫を受け居城を追われる。まもなく織田信長に謁見し、但馬出石郡のみの領有復帰を認められる。

・・戦国山名氏における大きな曲がり角となります。

それまではどうにか独立的地位を保持していたのですが、ここから「他家に従属しての生き残り」という苦しい生き残り戦術が露骨になってまいります。

1570年 生野銀山を太田垣氏が山名氏から奪還。(生野銀山をめぐっては永年、山名、太田垣、垣屋、織田、羽柴などが入り乱れて争奪合戦を続けます。もはや誰が敵で誰が味方とかもよくわかりません。要はみんなが欲望を抑えられず、敵味方の仁義すらかなぐり捨て、あい争っているという世紀末感半端ない様相です。戦国但馬を象徴する場所と言えます)

1570年 垣屋氏が田結庄氏らに敗れる。

・・織田毛利ショックの影響でしょう

1576年ごろ 織田と毛利の仲が急速に険悪となる。

このころから、山名氏は「今日は織田に付き、明日は毛利に付き」の繰り返し。

戦国中小勢力の常とはいえ、山名の場合、その度合いが異様に頻繁です。

数年単位、下手すれば数か月単位でこれをやることも・・

山名を全国最大の勢力に押し上げたという一族最大の英祖時氏(ときうじ)が南北朝など数多くの勢力の間を上手に渡り歩いて立身を成し遂げたので、そういった方針を受け継いでいたのかもしれません。

で、さらに山名家をすさまじくしてるのは・・

家臣らもそのたび、“独自に”「あっちに付いたり、こっちに付いたりする傾向がある」

・・もともと独立色の強い国人衆の寄り合い所帯。

さらに、地元における山名の敵対勢力の多くが、尼子や毛利などと必ず結託しようとする、という複雑な歴史が入り組んでおります。

だから、敵の敵は味方、今日の敵は明日の味方、などもうわけがわからずこんがらがっちゃいます。

戦国山名の年表を読むのは、哲学書を読むのと同じぐらいしんどいです・・

1580年 鳥取城主山名豊国が城を抜け出し、羽柴秀吉に降伏。

・・鳥取城内の者らは「羽柴秀吉に徹底抗戦」で固まっておりました。

が、居場所のなくなった山名豊国は、なんと「単独」で羽柴秀吉に降伏。

一説には、家臣らに城を追い出されたとも言います。

その後、鳥取城は羽柴秀吉により「餓え殺し」にされました。

戦国山名本家歴代当主

山名宗全(1404-1473)

山名教豊(1424-1467)・・・応仁の乱にて父宗全に先んじて陣没

山名政豊(1441-1499)・・・嫡男俊豊と抗争し、追いおとしてしまいます。

山名致豊(1468-1536)・・・俊豊の弟です。山名四天王にクーデターを起こされ失脚します。

山名誠豊(1493-1528)・・・致豊の弟です。山名四天王に担ぎ上げられます。

山名祐豊(1511-1580)・・・致豊の子。山名の威信復活に活躍します。が、後年は苦境に・・

山名義親(1559-1627)・・・祐豊の子。

山名堯熙(1559-1627)・・・祐豊の子。

山名堯政(-1615)・・・大坂の陣で豊臣方として陣没。

戦国歴代因幡覇者

山名豊時(不明)・・・因幡山名家当主。

山名豊重(-1512)・・・豊時の子。

山名豊頼(不明)・・・豊重の弟。

山名誠通(-1548)・・・豊頼の子。鳥取城を築城。但馬山名祐豊・豊定兄弟に滅ぼされる。

山名豊定(1512-1560)・・・山名祐豊の弟。祐豊に因幡統治を任される。

山名棟豊(1544-1561)・・・祐豊の嫡男。因幡赴任後1年で死去。

山名豊数(不明)・・・豊定の嫡男。弟豊国を追う。その後、有力国人の武田高信に謀反を起こされ、追われる。

武田高信(-1573)・・・若狭武田の傍流。主君山名誠通に謀反の疑いを掛けられ殺された国信の息子。因幡を代表する下克上大名。のち、山名豊国に敗れ、毛利氏を頼る。

山名豊国(1548-1626)・・・豊定の子。兄豊数に国を追われるが、山中鹿之助の援助もあり因幡国主として復帰。鳥取落城後は多田氏の食客となる。その後、秀吉に請われ、御伽衆に。関が原では東軍に属し、但馬6700石に復帰。

戦国山名氏支配のまとめ

ここに戦国山名氏統治について簡単にまとめておきます。

①山名氏による統治がやたらと弱い

部下らのたびかさなるドンパチを止められません。

部下らにクーも起こされ、しかも負けてます。

戦のたびに離反者が出がちです。

そのほか反抗勢力まで領内に割拠しがちです。

②山名氏、織田に付いたり、毛利に付いたり・・

山名祐豊(1511-1580)という当主がおります。

もともと、家臣らに牛耳られていたのを、何とか復権しようとした、中興の主、ではあった、のですが・・

そんな時あたかも東から織田、西から毛利が強くなってきておりまして・・

悲しいかな・・

たちまち、両陣営の傘下をやじろべえのように行ったり来たりするように・・

窮余の策とは言え・・

さてさて、こんな事情ですから、家臣らとて、きれいごとは言ってられません。

あれあれと・・独自で、あっちに付いたり、こっちに付いたりする者まで・・

もはや遠心分離機状態・・

やっと少し回復しつつあった山名の求心力はこうしてあっけなく瓦解してゆきました・・

③なのに、山名を頭に置きたがる

これだけ好き勝手やってる国人衆ですから、自分たちで「頭に立てばいいのに」というところです。

が、そうならないのが、但馬因幡の悲劇です。

太田垣も垣屋も八木もみんなみんな、やるだけやって、「国主は山名様」をあくまで担ぎ上げようとしてきます。

殿さまも大変です・・(たまに山名が家臣らにやり返しますが)。

山名豊国なんて、一時はお兄さんに国を追われた漂泊の身だったのです。

が、その後、武田高信が謀反を起こして因幡を占領すると、“一党”たちはどこからともなく山名豊国のもとに集まり、さらに山中鹿之助たちまで利用して因幡奪還をおこないます。

彼らのこうした動きへの執念には戦慄すら禁じえません。

そして、足利幕府の末期とも非常によく似ております。

あちらでも、細川、三好、松永、いろんな癖のが出て、いろいろやってくれますが、あくまでトップには「お飾り」を置こうとするのです。

過去のブランド力に必要以上にすがる体質というのはちょっとどうなのかと思います。

よって、いつまで経っても国内は安定しません。

ここが「万年○斗の拳状態」と呼ばれる所以です。

(追記。山名豊国はその後また他家に寄食になりますが、旧山名重臣らはまたしっかりと豊国の家臣としてくっついてきました。もはや「山名とゆかいな仲間たち」状態です。)

山名氏支配のなれの果て

こんないざこざを延々とやって、どうなったかと言いますと・・

結局、織田氏が毛利氏を圧倒し始めます。

そして、非常に大きな事件が起こったのが1580年。

鳥取城の戦いです。

このころ、山名氏はもう何度目かの毛利氏傘下に入ってまして、毛利氏はさすがに因幡の鹿野城というところに、肝いりの城代を置き、ここに山名の人質たちを囲っていたのです。

当たり前です(もう何度裏切られたかしれませんから)。

ここに侵攻してきたのがあの知将羽柴秀吉

彼は本城の鳥取城の守りの堅いのを見澄まし、先に鹿野城を落としてしまいます。

で、手に入れた人質たちを餌に「どうだ、開城しろ」と鳥取城に迫ります。

で、人質を順番に殺してゆき、とうとう山名当主豊国の愛娘あかね姫の番になった時・・

鳥取城にいた山名豊国は「降参!」。

山名家臣ら唖然・・

山名家臣たちの内心「貴様、バカ殿とは思っていたが・・俺たちの親族が殺されるのをみすみす見すごしながら、当座の自分の娘の命だけ助けるとは!」

が、山名豊国の内心も推し量ってみましょう。

こんな人たちのために自分のかわいらしい娘の命をやれますか(この家で主君と家臣の信頼を解くのは酷な気がします。第一、豊国は自分の母方のおじいさん細川高国が山名祐豊に裏切られ、果ては自死にまで追いやられております。豊国は“山名”というものを幼心から何度も何度も思い知らされる人生だったと、推測しております)。

ドスケベ猿羽柴秀吉はまんまとあかね姫を拉致って姫路の現地妻にしてしまい・・

そして、開城はしたものの、鳥取城のその後をおもんぱかりましょう。

あなたならこの状態で、山名豊国として、鳥取城主を続ける自信はありますか。

・・

で、毛利とて黙ってません。

羽柴がいなくなると、速攻で攻めてきて・・

戦になるわけありませんね。

だって、鳥取城にいる山名家臣らの身になってください。

こんな「万々歳!」なことないじゃありませんか。

即開城です。

さあ、山名豊国、大変です・・

後ろ盾すら失いました・・

当然の帰趨でしょう。こうして豊国は織田と密通していたとも言われます。

で、バレて家臣らに追い出された、とも、

自分から逃げ出した、とも、

こうして、羽柴秀吉による二度目の鳥取城攻撃が始まります。

が、羽柴秀吉はさすがに知将です。

力攻めの愚を避け、若狭などで米の大量買い

こうして、日本海沿岸の米価、爆上げ!

で、ここが山名家臣団のいただけないところなのですが、小利にかまけて大事な兵糧米を爆売りしてしまいます!

このタイミングで羽柴秀吉にいざ攻め立てられることになってしまうのですが・・

先立つものがありません!(当時の山名家臣たちにしてみたら、過酷で不毛な時代を延々と生きのびてきた果てです。先々を見る余裕なんて生じてくるかどうか。例の悪い癖で、「大毛利が何とかしてくれるよ」も大いにあったように推測されます。秀吉ほどの人物なら「彼らに何が効果的か」をよく調べ、わきまえた上でこういう策を仕掛けたのだと思います

兵糧攻めで、城内は早々に飢餓地獄。

人肉をむさぼりあうほどのすさまじさだったと伝えられます。

こうして、落城。

先んじて、但馬山名も織田に降伏していたので、とうとうあの「六分一殿」は「一切無禄」にまで失墜してしまいました。

(散々の紆余曲折の末の江戸時代、村岡藩主に返り咲いた山名豊国は今や“世渡り上手”の代名詞です。が、実際は“成り行きによる運”もかなりあったと思います)

今の日本は大丈夫なのか?

昨今の日本は「元気がなくなった」と言われるようになって久しいです。

ただ、そういう状態でも、「幕末」や「戦後」はどうだったでしょう。

あるいは、「江戸時代真っただ中」はどうだったでしょう。

大変な「バイタリティ」を発揮する、あるいは、「独自性を磨く」。

しかし、最近の日本国内にそういった「バイタリティ」の培われる空気はどうなのか、あるいは、「衰える方や現状維持を選ぶのなら、その中でも“これは負けない”というもの、や、“居心地やすさ”を追求する」という点では。

何か、今の日本を見ていると、衰えていっているのにあくまでむかしの残像に固執し、かつ非常に場当たりで、そのままにっちもさっちもいかなくなっているように見えて仕方ありません。

あの頃の山名にまつわる人たちには、織田氏や毛利氏のような「時代を動かす力」は訪れず、といって、徳川氏や会津上杉氏のような「包容力」も見られませんでした。

ああいう先細り方だと、残るものがどういうものになるのか、心配です。

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