
次から次へ敵をどん欲に求め、打倒して世を改新ゆく修羅王織田信長。
社会最底辺から泥糞まみれてはいつくばって人情の機微をよく知り、それをくみ上げる「いい子」だったのが、ふたが外れるとそれまでに積り積もった“闇”をさらけ出し、恐怖の大魔王へと変貌してゆく豊臣秀吉。
本当はぶち切れ気質なのに、斜陽大名家に生まれたためにおしんばりの我慢に我慢を重ね、着実に力を付けてから、陰湿かつ露骨にライバルを蹴落としてゆく徳川家康。
松永久秀、毛利元就、伊達政宗、斎藤道三、荒木村重・・
中小でも山名、宇喜多、佐野、最上、赤井、・・
この弱肉強食まっさかりの戦国において、みんな強烈な癖と闇を抱え、何とか生きております。
いや、戦国だけとは限らないでしょう。
あなたも思っておりませんか。
結局、子供の頃見た「少年漫画の主人公」なんてただの子供向けのおとぎ話でしかないよな・・
ところが、わざわざ戦国時代に、しかも戦国大名として、そんな「少年漫画の主人公」みたいな人生を送った人がいたのですね。
湖北の暁将浅井長政です。

浅井長政の生い立ち
浅井家は江北の国人を束ねる家柄だった・・
まあ、ボンはボンなんですが、そんなに恵まれたボンではありません。
この辺は徳川家康の幼少期とよく似ております。
浅井家は戦国の北近江(滋賀県北部)に俄かに台頭した「国人領主のまとめ役」。
そもそもここは名門京極家の領国だったのですが、国人領主や領民らに不満がたまっていたのでしょう。
長政の祖父浅井亮政が京極当主を追い出し、国人らを束ねて事実上の自治状態を実現します。
まさに浅井家による「湖北ユートピア」。
が、そんなもんこの戦国に黙ってみていられない勢力が当然出てきます・・
江北、浅井家にしのびよる圧倒的強者の凶手・・

江南の六角家です。
江北の京極とは同族。
六角は古代以来の超名門ですし、その“自分のお庭”江北でそんな動き、穏やかでは見てられるはずがありません。
また、江北への介入のチャンスでもありますし・・
浅井は積極果敢な亮政の代はよかったのですが、その子久政の代になって一気に流れが変わります。
久政は六角に戦で負け、また、現実的に「六角傘下」になった方が家を保てる、と踏んだようです。
「ぼく、六角の飼い犬HISAだよ♡かわいがってね。くーんくん」みたいに平然とおなかをさらけ出し、媚びを売るようになります。
その時、猿夜叉は生まれた・・

そういった経過の中、六角の首城観音寺城下に生まれながらの人質として生まれた幼名猿夜叉(きっと猿に似てたのでしょう。それか、浅井家が六角家に警戒されないようにわざと変な名前を付けたんでしょうか)こと浅井長政。
ま、皮肉なことに、まったく同じ年観音寺城下に六角にも嫡男が生まれてるのですね。
それが御曹司六角義治です。
家の期待は生半可なはずもなく、しかも小笠原流弓術の達者。
そんな傍らに人質の子、猿夜叉。
スーパーエリート●ジータ様のそばに下等戦士●カロットではないですが、いろいろやるせなかったでしょうね・・
で、六角父子はさらに全く容赦がございません。
圧倒的強敵六角家によるパワハラ全開!!

厳しい戦国の習いですね・・
そんな猿夜叉に平井氏の娘と結婚させます。
平井氏とは六角の家臣です。
しかも、烏帽子親は六角当主義賢ですらありません。
なんと平井です。
どんだけ浅井の家格をふみにじるものか・・
しかも、六角は猿夜叉に「賢政」という名前まで付けてよこしました。
もちろん「賢」は六角義賢の「賢」です。
・・
湖北の暁将浅井長政見参!
江北の暮らしと自由が踏みにじられる・・

浅井久政はなおも「忍従」に活路を見出すしかなかったようです。
で、「その効果」というと語弊があるかもしれませんが、どうも六角の圧や搾取は浅井にではなく、江北国人衆へと向かっていたようですね。
つまり、猿夜叉の祖国江北では、浅井のみ栄えてほかはしぼられまくり・・(おそらく、領民にもかなりしわ寄せが行っていたと思われます)
六角とすれば「こういう連中はねえ。力づくだけじゃナンセンス。うまーくやつら同士の仲を裂くに限るんだな。にしても、飴と鞭はやっぱ効くんだな・・ふふふ」と言ったところでしょう。
このまま江北は江南の属国としてなすすべなく推移していくかに見えました。
が・・
父久政を竹生島に幽閉し、浅井新当主として立つ!

成長した猿夜叉は、鷹狩りに出ていた父久政を突如として捕らえ、琵琶湖に浮かぶ竹生島に幽閉してしまいます。
父久政の方向性に不満を持つ江北国人衆らに後押しされての決行!
父を幽閉するのですから大変な決意が必要だったでしょうが、この辺が猿夜叉の人格の特徴であります。
いつも、江北の国人衆らの意見をとても大事にします。
「俺たちの祖国を、その人々をどうするか」
というのが、猿夜叉のよく気にかけていたところのようです。
野良田の合戦で奇跡的勝利!江北の独立を達成!!

なおも猿夜叉は平井の娘と離縁。
江南に返してしまいます。
ついでに「賢政」の名乗りもやめました。
そうです。
ここに「浅井長政」が発進します。
事実上の独立宣言。
当然、これを黙ってみていられないのが、六角です。
国力・兵力は六角の圧倒的優位。
このままでは、忽ち浅井が飲み込まれるのがオチ。
のはずなのですが・・
浅井長政とて、こんな不利にわざわざ玉砕的な正攻法なんかではいきません。
調略を駆使します。
ここに江南肥田城主高野瀬秀隆という男がおります。
累代の六角家臣なのですが、かねてから六角に不満を持っていたのでしょうね。
突如、反旗。
長政、さっそく図に当たりました!
で、この高野瀬がとても頑張ってくれるのですね。
六角による圧倒的攻勢をしのぎにしのぎ、水攻めで城を水浸しにされても持ちこたえました!!
これに乗じて、ついに浅井本軍が動き始めます。
江南野良田の野にて、兵数ではいまだに六角が倍しておりましたが、浅井軍の鋭気とたくみな奇襲!
江北に凱歌が上がりました。
あの桶狭間の合戦と同じ年にこれが起こったというのも因縁深いですね。
仁の指導者浅井長政
で、ここからなのですが、これが本当に戦国大名なのだろうか、という誠実さのオンパレードです。
暗愚の敵将をも称賛する
六角は隣国美濃の斎藤氏と同盟を結んでおります。
で、浅井長政はこの斎藤氏の領内にもたびたび攻め入ります。
斎藤家当主竜興。
家の政治を放擲し、えこひいきが多く、竹中半兵衛に城を奪われ、織田信長に国を取られた暗愚の大将として知られております。
が、浅井長政はそういう敵将に対しても「立派な大将だよ」とたたえております。
ほんとなの?浅井長政は卑怯なことはしない主義者です

遠藤喜右衛門という人をご存知でしょうか。
浅井長政の忠臣の一人。
参謀のような立ち位置だった、と言われます。
その遠藤には非常に興味深いエピソードがあります。
浅井長政は織田信長と同盟を結ぼうと、彼を佐和山城に接待しました。
その時、遠藤は信長を
「表裏の大将」
と断じて、ひそかに暗殺を長政に進めてきます。
このあたりはさすがに怜悧な遠藤です。
しかし、長政は「おら、そんな信義に反することはしねえ」と拒んでしまいました。
どれだけ誠実な人柄なんでしょう・・
ただ気の毒なことに、後に長政は信長に滅ぼされてしまいます・・
織田信長との縁を切り、朝倉の味方に付く!
織田信長が自分の意に従わぬ朝倉家を討伐しようした途上、朝倉に長年の恩顧ある浅井家が突如として信長を裏切り、窮地に陥れたことはよく知られております。
ただそもそものこういう事実はあまり語られません。
その事件が起こるまでの浅井長政は織田信長の上洛戦に付き従い、足利将軍があわや三好三人衆にかっさらわれそうになった「本圀寺合戦」にも駆けつけ窮地を救ったといわれます。
ただ、それだけ莫大な労力と戦功があったにもかかわらず目立った物質的恩賞はなし。
これはたんに浅井長政自身のみならず、浅井家の問題にもなってきます。
そこにきて、突然何の相談もなしに大軍をもっての朝倉攻めですよ。
浅井家の家臣や領民らはどう思ってたでしょうね。
浅井長政はそういうところに黙っていられる男ではなかったようです。
撰銭(えりぜに)の制限を決行!

浅井長政は社会的弱者にとても優しいこんな政策を決行しております。
撰銭(えりぜに)の制限です。
「撰銭とは何ぞや」
と申しますと、当時はいろんな種類の貨幣が流通しております。
中国銭、中国銭のコピー銭、、無文銭(絵柄無しの手抜き銭)、商人が独自で発行した銭。
なので、たんに「1文」と言っても、いろんな「1文」があるんです。
しかも、価値はそれぞれにバラバラ・・
ということで、人々は「良い銭」を選り好みするようになります。
これが撰銭です。
が、これが重大な問題を作ります。
いわゆる格差。
つまり、「いい銭」は自然と、強者にばかり集まり、「悪い銭」は自然と、弱者にばかりしわ寄せされるようになります。
悪い銭だと大変です。
何せ、商売人が「だめだよ。うちは良い銭でしか売らないから」とすると、買いたくても買えません。
たとえば、米の不作の時に、これをやられると、米の実質値段が吊り上がってしまいます・・
が、浅井長政は一味違います。
これを大幅制限!
「破銭(欠けてしまった銭)と無文銭以外はみんな同じ価値」
と決めました。
滅亡寸前に、みんなにねぎらい
で、ここが浅井長政のハイライトだと思うのですが、ついに追い込まれ、間もなく滅亡、となった時に、浅井長政はみなに「ありがとう」とねぎらって回ります。
天正元年9月1日浅井長政小谷城にて滅亡。
享年28歳。
浅井長政は死なず!
この人がもっと長く生きていれば・・
どんな生き方をしたのでしょうか。
この人は織田に敗れ、嫡男満福丸まで殺されてしまいます。
ただ、浅井家は女系は滅びておりません。
そうです。
豊臣秀吉の奥さんであり、秀頼の母淀君。
そして、徳川秀忠の奥さんであり、家光の母お江。
お江の子孫はその後もしばらく、徳川の将軍を累代継いでいきます。
また、浅井長政の「知・仁・勇」の精神は地元江北に今もずっと尊崇され続けております。