
ああ、また馬鹿って言ってるよ。
ゲームではやたら数値の低い雑魚扱い。
ドラマの数々では本当にいつもいつも残念賞。
歴史は敗者に厳しいですね!
「じゃあどうすりゃいいんだ!」
という越前戦国大名朝倉義景のボヤキです。
朝倉義景データ

職業:戦国大名
在年:1533~1573年(享年39歳)
出身地:おそらく福井県一乗谷
越前の戦国大名朝倉孝景の息子として生まれた、と伝わる。
15歳で朝倉の家督を継ぐ。
一乗谷に京風文化をコーディネイト。
流れ公方足利義昭をかくまうも、入洛に踏み切れず、織田陣営に逃げられてしまう。
その後ただちに、織田信長は足利義昭を旗頭に入洛を敢行・成功。
一方、義景は織田信長からの入洛要請に従わず、それを不遜として征討対象に。
一度は古くからの盟友浅井長政が織田方から寝返り、織田軍を圧倒!
改めて1570年近江姉川で朝倉・浅井軍と織田・徳川軍は開戦!
織田・徳川軍が勝利した、ことになっている。
その後、織田信長包囲網の一勢力として活動。
浅井軍とともに比叡山に籠るも織田方からの和平を受け、すぐ撤退。これも「チャンスに弱い尻軽か!」とブーブー言われるポイント。
武田信玄の上洛の時も越前にさっさと引き返し、武田信玄に「ともに語るに足らず!」などまたブーブー。
結局、1573年、織田軍に攻め込まれ、首都一乗谷も炎上、最後は一門衆朝倉景鏡に裏切られ自害。
朝倉義景の愚痴が止まらない・・(世が太平ならわしは英雄だ)

何が戦国だ!
わしが100年後に福井藩徳川家の跡取り息子として育ってたら今頃は「雅なイケ藩主だ!」
越前に上方から池大雅やら丸山応挙、与謝蕪村なんかを招いて(※)、大文化王国を築き上げている!
(※)朝倉義景は京から公家や学者・芸人など文化人を数多く呼び寄せております
茶道や造園なんかもじゃんじゃんやらせて、今頃福井は金沢にも負けないぐらいの大観光地だ!!!!
名物グルメの2つや3つぐらい余裕でできていたに決まっている。
越前切子(※)なんてのは世界に誇れる文化遺産になってるな。
(※)朝倉義景在世当時の越前領ではガラス細工の跡もあります。
わしのご当地ゆるキャラもきっと大人気だなこれ。
年に1回義景公祭りなんてのがあってみんなで福井の城下町を練り歩くんだ!!!
で、景鏡をかたどった鬼が節分の日に豆を投げられまくるご当地習わし!!!
当たり前だ。
ふん!
そんなに戦で勝つのがえらいのか!
こんな総合格闘技リングに囲われたみたいな時代よさらば!!
朝倉義景の愚痴は全然止まらない・・(わしは決して戦下手ではない!少なくともそこまでは)

ていうか、そもそも「わしが戦に弱い」ってなんでそこまで決めつける!
わしはこれでも小笠原流弓術の達者だぞ!!
しかも、信長が出てくる前は若狭や加賀に出陣し、たびたび戦果を挙げている。
あの成り上がりのKY野郎がすべてをぶち壊したんだ・・
(ちなみに姉川の合戦でも浅井・朝倉は一方的敗北を食らったわけではありません。織田信治、森長可、坂井政尚などという織田方の名だたる武将をたくさん討ち取るなど少なからぬ損害を与えております。実際その後、浅井・朝倉は織田方とあいかわらず粘り強い闘争を続け、志賀の陣ではかなり追い込んでおります)。
朝倉義景の愚痴はまだまだ止まらない・・(なめとんか朝倉家臣団!)

そもそも、あの体たらくの大いなる予兆(※)。
(※)朝倉家末期は織田家による離間策もあって裏切りが相次いだせいもあって戦でのあまりに一方的な敗北が目立ちます。
それはわしが生まれた時から持っていた・・
めぼしい実兄弟がいない・・
わし、ほぼ一人っ子(本当に一人っ子だったかもしれません)。
さらに、子宝に恵まれない・・
嫡男になるはずだった阿君丸(くまぎりまる)はすぐ先立ってしまうし。
だれかに毒を盛られた、とも言われてる・・
その後、わしが37の時にやっと生まれたのが側室小少将の子愛王丸。
木下秀吉の気持ちがよくわかるよ。
年を取ってからの子どもは本当にかわいい。
で、ほかは女児ばかりなんだ。
つまり、わしに直つながり盛り立ててくれるリアル一門衆がほとんどいないんだ。
ほかの大名家を見ろ。
信長も家康も男児が十数人もいるビッグダディだろ(うらやましい・・)。
毛利家なんて三矢の教えがあるんだね(うらやましい・・)。
島津(※)とか兄弟でどんだけ助け合ってんだよ(うらやましい・・)。
(※)戦国ファンならご存じの通り、島津四兄弟はそれぞれに役回りをうまく回しあい、あのむずかしい時局にしたたかに大国としての実を守り続けました。
血縁は力だからね。
で、うちはその穴埋めとして「一門衆(の名のもとに他人よりめんどっちい遠い親戚の面々byよっしー視点)」が力を持つ当然の仕掛けなんだね。
その最有力が敦賀の日下部朝倉と大野の土橋朝倉なんだよね。
これが実は、はなからなかなかの曲者で・・
日下部朝倉はわしの親父孝景の弟景紀ていう人の系統。
で、わが朝倉の軍神朝倉宗滴(※)の養子の家柄なんだね。
(※)戦国シミュレーションで恐ろしい高数値のまさに越前の軍神。とことん現実的なやり方で、主家を盛り立て、特に戦では無類の強さ。また、78歳と当時としてはかなり長生きで、老いて愈々盛んの、頼もしすぎる戦国越前最強レジェンドです。
敦賀ってのはそもそも我ら朝倉の西の守りのかなめ。
しかも、日本海と琵琶湖を結ぶ流通の要所でもある(※)。
(※)朝倉義景は外国とも交易をやっておりました。やはり大内氏を模範としていたのでしょう。
そんな誉れ高い一族でしょ。
わかるよね、わしの立場の大変さ。
で、もう一方の大野。
こっちの先代がわざわざ当家に謀反を起こした(※)複雑な家柄。
(※)朝倉景鏡の父景高は1540年、当時の朝倉当主孝景に謀反を起こし、隣国若狭に追放されました。
で、継いでるのがあの景鏡なんだよね。
時に頼りになる知恵袋だし、がんばりやさんだったけど。
ぶっちゃけ、性格はかなりゆがんでたね。
そして、極めつけはこやつらの仲がすこぶる悪い!
1564年加賀出陣の折には、景紀の嫡男景垙と、景鏡が「俺が総大将だ」って喧嘩をおっ始めちゃって・・
景垙は外されて悔しさのあまり自害を・・(景紀はマジぶちぎれて、景鏡に訴えに行っちゃったよ・・)
きっと景鏡が裏で工作をしてぐうの音も出なくしたんだと思うよ。
そういや、うちが初めてのぶこう(信長のこと)とバチバチになって、敦賀をあっさり落とされたときは、栄えある敦賀軍司職(※)はとうとう廃止されちゃったな・・。
(※)朝倉宗滴や朝倉景紀など、敦賀衆当主は歴代これを世襲しておりました。
「はっは。おいおい。朝倉を武で支えてるのは我我だという普段の御託はどうしたのかね。バカは休み休み言いたまえ。はっはっは。まるで人が●ミのようだ!」
こいつ(朝倉景鏡)、性格がマジ、●スカ大佐みたいで、いつも仕方ないからいい顔してやってるけどほんっとやばいんだよな(ああ、とうとう言っちゃった・・一方、敦賀衆は本当に●ウロ将軍っぽいんだよな・・)。
で、ラスでマジでやっちまうんだけど・・(こんなやつには●ルスにかぎる!)
うちって外見華やかだけどなかなかの昼ドラ系組織でしょ・・
ほかに頼りになる身内がいずに15歳から当主やらなきゃならなかったわしの気持ちになってみ・・
のぶこうはこういうのを見過ごさなかったんだな・・
おかげでうちは堀江一族とか魚住景固とか例の景鏡とか明智光秀とか(※)、裏切り者が後を絶たないんだけど、
(※)みんな朝倉家臣でしたが、朝倉を裏切りました。
こんなんで戦も屁もないよ。
朝倉義景の愚痴を最後まで聞こう!(みんな無茶ばっか言うなよ・・)
①拝啓足利義昭公、当家をそこまで危険にさらさないで

足利義昭公の入洛要請を断ったのがそんなにバカなことなの?
確かにあれで天下のチャンスは無くなったけど(ま、もともと天下なんて狙ってもないけどね)。
当家はね。
あの応仁の大乱でね。
各大物守護大名どもが自分勝手に京で戦乱やりまくってるすきをついて下克上をやり遂げた一族なの(※)。
(※)当時の朝倉当主孝景はかなり現実的であり野心家であり武闘派で、応仁の乱に出陣するもどさくさまぎれに西軍から東軍に寝返り、越前の事実上領主の座を主家斯波家からもぎとりました。
京の戦乱に巻き込まれるバカバカしさをほんと思い知ってるの。
実際、あれから見てみなよ。
京に討ち入った勢力のどこがおかげでどうなってる?
山名?細川?大内?土岐?三好?六角?松永?上杉?
のぶこうがうまく行ったなんて思いっきり結果論なんだよね(※)。
(※)また、朝倉家は応仁の乱後もたびたび上洛を決行しますが、京のめまぐるしい政権交替の中で、長く権益を保持することができなかった歴史も持っております。
つうか、うちと浅井と松永(※)くんだりの兵で京を維持するなんてリスク高すぎなんだよね!(と、わしは思ってる)
(※)畿内の有力戦国大名松永久秀。当時は三好三人衆と仲たがいしております。
どうせ、あの六角(※)は「浅井の味方は俺の敵」という寸法だから邪魔してくるに決まってる。
(※)滋賀県南部の戦国大名。基本的に浅井家と仲が悪いです。
三好三人衆や波多野、筒井(※)なんてのも絶対結託しやがるからね。
(※)三好三人衆は将軍足利義輝を暗殺し、京を抑えておりました。波多野は丹波の有力国人。松永に領地を追われておりましたが、奪還にやる気満々です。筒井は奈良県の有力国人。松永久秀を宿敵とみなしております。
そこに来て国内では一向宗がいつ和平(※)を反故にしても不思議じゃない。
(※)北陸は一向宗の強い国柄。朝倉家とも歴年干戈を交える間柄でしたが、足利義昭のとりなしで両家和平を結んだばかりです。うーん、やっぱりこの人名君ですね。信長とやりあうまでは。これで隣り合う加賀とも北近江とも平和関係、一方、若狭は属国化していっているので、周りに敵がいない状態を実現。まさにパックス・アサクラーナ(朝倉による平和)。しかも、国内の経済も文化度も上げてるんですから。ほんと、信長さえいなければ歴史教科書で戦国最高の文化功労者として太字表記される人物だったかも。
わしはあいにく冒険主義者ではないんだ。
大人の戦国大名だ。
わしは今まで累代積み上げた朝倉の領国を守る!!
足利義昭公にだってわしなりに誠意は尽くしてきたよ。
どこの国にもいられなくなったのをうちはきっちり受け入れて、お世話もやり続けた(※)からね。
(※)朝倉義景はまだ流浪中の足利義昭をいろいろと支援し、越前に招いてからも元服させるなど、一定の誠実さを見せ続けております
まあでも、とうとうよそに・・
よりにもよって、あの成り上がりものの家に・・
はあ・・(ためいき)
②あの成り上がり(織田信長)の言うことだけは聞けん!!

(※)浅井・朝倉を滅ぼした後、織田信長は正月の宴で浅井長政、久政、朝倉義景の頭蓋骨の箔濃を酒の肴にしてしまいました。
織田家みたいな野蛮な一族。
はんっ!!!
あそことはもともと仲が悪いんだよね。
間の美濃でまだ土岐家や斎藤家が健在の頃にたびたびやりあったりもしてる。
おたがい守護の斯波氏の被官から下克上で成り上がったなんてどうか言わないでちょうだい!(※)
(※)織田家も尾張守護斯波氏から実権を奪った下克上大名です。
うちはね。
山口の大内氏や能登の畠山氏(※)みたいな京風文化を自領に花開かした雅な一族。
(※)両家とも地元に小京都を築き上げた文武両道の先駆的守護大名です
それにくらべてあの田舎者商売で血の気の多い家風を見てちょうだい!
それを何を血迷って「入洛せよ」だ。
お前らの下風は死んでもあおがぬ!!
③何が「風林火山」だ!武田信玄、お前はブラック同盟者か!

武田信玄め。
やつが入洛を目指した時、わしが国元に引き上げたのを相当さらしもんにしてくれたようだな。
はあ?
つうか、お前らそれまで何やってたんだ?
うちは浅井と一緒にほとんど出ずっぱりで織田と戦ってたんだぞ。
ちょっとはわしらとその士卒たちを休ませろ!
ローテを組むんだ。ローテを!
しかもうちの国元は雪国なんだ。
もうじき雪が降って大変なことになるんだよう。
上杉謙信(新潟県の戦国大名)だって、柴田勝家(福井県の戦国大名)だってみんな冬は地元に帰るしかねえんだよ!
自分の言い分だけ言って、こっちの立場を全然わかろうとせぬ、このなんちゃって同盟者め!
朝倉義景公は愚痴を言うのにも疲れ、引っ込んでしまわれました

ああ、いい!
もう疲れた!
ていうか、もうお前らみんな好き勝手しろ!
敦賀衆も大野衆も要は「朝倉のため」「御屋形のため」なんて言うけど、本当は「敦賀朝倉のため」「大野朝倉のため」なんでしょ。
もうどうぞご勝手にまた派閥争いでもなんでも盛大にやればいいじゃん!
にしても、武田も本願寺も織田相手にいつまでも随分頑張るね・・
わし、もう眠たくなってきたよ。ねえ、●とらっしゅ・・
浅井さんにも申し訳ないけど、今のうちじゃとても織田に勝てないのでいったん国元に退かせてもらいます(※)。
(※)よっしー直卒の軍は浅井の首城小谷城そばまで出張って織田方に抗戦しておりましたが、つらくなって勝手に国元に退き上げてしまいます。が、そこを信長に抜け目なく追い打ちされ、そのまま一乗谷炎上。朝倉義景も自害しなければならなくなります。浅井より先に滅亡してしまいました。
だいじょうぶ。
You can do it!
ああ、そういや、小少将(※)ってほんといい女なんだよ。
(※)朝倉義景の側室。義景が晩年に寵愛。朝倉の政務にも時折口をはさみ、越前朝倉の傾国の代名詞とされる美女。
もう、この席でぐらい好きなこと言わせてよ。
わし、結局、父にも嫡男にも早くに亡くなられ、家臣にも一門衆にも本当の友がいない・・
なのに朝倉の重責を若いうちからずっと・・
こんな激動の時代に。
それに比べるとあいつはね、確かにちょっとあざとい性格かもしれない。
でもね・・
阿君丸も愛王丸も生んでくれたし。
阿君丸が亡くなった時、本気でその悲しさを分かち合えたのは結局・・
こどもらと一緒に居れた時のあたたかさも。
血のつながりってやっぱ大きいよ・・