「重ね行く没落から開けた句境」尾崎放哉の名俳句と生涯

歴史
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この人の文を読んでいてふと思ったのは

「やっぱり人にはそれぞれに合ったところがある」

ということ。

定形の俳句でも、散文でもなく、大保険会社の重役でも、高級官僚でも、家庭人でもなく、結局この人にはこれが。

自由律俳句尾崎放哉

私が言うのもなんですが、本当にどうしようもない人だったようですね。

ただ、しみじみと。

彼の一生と名句についてまとめてみました。

尾崎放哉の生涯

1885(明治18)年生まれ。

鳥取藩士であり鳥取地方裁判所書記官尾崎信三の次男。

本名は秀雄。

鳥取一中(現鳥取西高)から東京帝大法学部。

卒業後職を転々とするも、朝鮮海上保険支配人として京城支店に赴任。

ただ、非常に酒癖が悪く、ほどなく免職。

この頃、以後宿痾となる肋膜炎にもかかります。

その後、満州、実家の鳥取などを転々とするも、素行は収まらず、妻薫と離縁。

寺男として京都一燈園に入り、以後また転々とします。

常称院(京都)では、住職の妾の浮気に居合わし、口止めの酒を飲まされますが、住職の前で失態を演じ、いられなくなります。

須磨寺(神戸)では寺内の派閥争いに巻き込まれ、食うや食わずの果てにやはり追われる羽目に。

常高寺(小浜)でも毎日あまりに粗末な食事しか与えられずたまりかねて出奔(「毎日、裏のタケノコばかり取って食べさせられるので、腹から笹が生えてこないか」などというぼやきを残しております)。

そして、衰弱と肋膜炎の重篤の果てに西光寺(小豆島)でついに入滅します。

享年四十一歳。

人生の途中まではエリート街道を突き進んでいるかに見えながら、やがてみずから踏み外し、零落に零落を重ね、最後は枯れ果てるようでありました。

傲慢で毒舌は鋭く、誠鼻持ちならない性格。

甘ったれで。

ただ、愈々と厳しくなるごとに、より純粋になってゆく魂は自由律俳句という新たな世界に不思議な昇華を見せます。

尾崎放哉名俳句集

まあ芸術家なんてのはそういうものかもしれませんが、この人も戊辰戦争に大功あった一族のボンボンとして、東京帝大法学部に受かった超エリートとして、ぬくぬくやって来たころの文章はどうも。

それに比べて、あらゆるものを失いに失った先に記す言葉と言うのは違います。

この人は晩年に名句が集中しております。

よき人の机によりて昼ねかな

これは、放哉15歳ごろ。

確かにすでに片鱗はあります。

一里来て疲るゝ足や女郎花

25歳。愛した従妹を詠ったとも。

一人、愛妹をしのびて、

うつむきて、ふくらむ一重桔梗哉

これが29歳です。

女乞食の大きな乳房かな

これが33歳。

笑ふ時の前歯がはえて来たは
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗えば白くなる
爪切つたゆびが十本ある
入れものがない両手で受ける
咳をしても一人
よい処へ乞食が来た
墓のうらに廻る
肉がやせてくる太い骨である




今日来たばかりの土地の犬となじみになつてゐる
ひよいとさげた土瓶がかるかつた
借金とりを返して青梅かぢつて居る
ひよいと呑んだ茶碗の茶が冷たかった
はちけそうな白いゆびで水蜜桃がむかれる




蛙蛙にとび乗る

やせたからだを窓に置き船の汽笛

尾崎放哉と同時期、自由律俳句で活躍した種田山頭火に関する記事はこちら

追伸

晩年の尾崎放哉は何かと「早く死にたい」と口にすることが多かったようです。

彼にとっては過酷なことだったでしょうが、そんな“晩年”である3年こそが名句を次々と生み出す原動力となりました。

行く先々でトラブルを起こし(特に酒がらみ)、それでも酒を一向にやめられず、自分勝手に妻を捨て、友人の借金を踏み倒し、皆から鼻つまみ扱いとされ、それでも時に居直り、あるいは恥も外聞もなく伝手から伝手を渡り歩き、でも、不思議とこの人は最後が近づくほど要らないものが抜け落ちてゆき、味わいが際立ってくるのです。

本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございます。

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