
今、ある本を読んで思っているのですが、そこから沸々と湧き上がる感情は、
「どうも我々発達障碍者と言うのは狩猟採集民族に近いのではないか?」
ということです。
「農耕が生まれてから、政府、階級、格差などが生まれた(男女格差もそうです。ちなみに、居心地悪い人には最悪でしょうが、ある意味とことん女性に優しいとも言えます。終身雇用とか年功序列とか、ある意味男が一生涯を懸けて女子供の奴隷になると言っているようなシステムです。実際日本の価値観は世界的に見ても非常に女性的に見えます。「やたらブランドにこだわる」「普通の人が普段の外見に独特のシビアさ」「バブル女子全盛」「コギャル」「かわいい」・・ほかにこんな文化ありますか。実際、私転売もやってますが、美容と健康関係の食いつきは他と違います)
確かにその通りです。
何やらこの作者は農耕文化に好意的ではありません。
にしても、なぜこれほど今の日本で健常者と発達障碍者の折り合いが悪いのかと言うと、やはり農耕民と狩猟採集民の軋轢が根深いのかな、と(たとえば、狩猟採集社会では気が合わない人とはすぐに縁が切れます。農耕系はそうはいきません。だから農耕系では独自のコミュニケーション術が発達します。階級もありますし。狩猟系はそれよりは“どうやって獲物を確保できるか”の方が大事。しかも、どうせ肉はすぐ腐るので宵越しの金を持っても無意味ですから。そりゃ価値観が全然違います)。
やはり日本と言うのは世界にもなかなかない独自の強い純然性を持った農耕民族社会。
男性上位なのも確かにそうですね。
農耕社会では狩猟採集社会より力仕事が増えるんです。
だから、どうしても男性が社会的優位を占めやすくなるようですよ。
今はその残り香なのでしょう。
また、これは日本人の優しさでもありますが、狩猟採集を卑下する文化が特に江戸時代(そういえばこてこての階級社会でしたね)根深いものがありました。
そういえば、私は中国や韓国の人と気が合いやすいのですが、あちらはやはり狩猟採集の気質が強いのでしょうか。
そもそも日本でも海幸彦と山幸彦の神話があって、結局ケンカになって山幸彦(農耕系)が勝ってます。
弥生人が縄文人を追いやっていった歴史もあります。
ただ、そのわりに意外と凝り性で、世界的に類のないアスペルガー文化を醸成しているようにも見えます(縄文人の血なのでしょうか。あるいは、新興の渡来系?あるいは、居場所が乏しいから不思議な昇華をするしかないように追い込まれたのでしょうか。尾形光琳とか葛飾北斎、井原西鶴、松尾芭蕉、坂本龍馬、平賀源内、松浦武四郎・・こういった人たちはとっても狩猟採集系に見えます。ふわふわして、飾りっ気が乏しく、あっても非常に個性的、で、時にがっつり行きたがります。あるいは、都市というものが発達してきたのがおおきかったでしょうか)。
この本面白いので、機会があれば、もっとちゃんとまとめて報告しようか、と考えております。
追伸。
一昔前までは確かに私らのような人種に対する寛容性はまだあったのだろうと思います。
ただ、そうでない以上、弾き出された人間は“独自の進化”を遂げる必要性に嫌が応にも迫られます。
最近の日本社会は私たち発達障碍者にとって“最悪”と取られるし、一方で“最高”ともとらえられているようです。
どうせなら“これを天賦”として、とことんやってやるしかないかもしれませんね。
この本にも書いてますが、世の中にイノベーションを起こすのは非リア充です(ま、起こすだけ起こさせて、おいしいとこ持ってくのはいつもリア充側なんですけれどね。ただその分歴史に名を残すのはそりゃこっちばかりなのは当たり前でしょう。実際、今何を思って何をやっているかです。)。
実際、上で記した人たちの多くは子供を残していない、あるいは残してもあまり繁栄してません。
当たり前にそれ以外のことに命懸けになってます。
そして、彼らの作り出したものを現実的恩恵とできているのは圧倒的にリア充側の方です。
生き方が違うのです。
追追伸。
私はさもいつもいつもむさ苦しい人間のように思われるかもしれません。
でも、それなりにその逆サイドも知っております。
そう、変に凝るんですよ(また、発達障碍者は意外にモテル系の顔が多いです。私の場合全然大したことありませんが、やっぱりそうなんだろうな、と感じることはいくらかありました。おい、そんなのあたりまえだろ、と思っている人、こっちは案外にそう思っておりません。実際モテたい盛りの頃に人間扱いされてないのですから。それがたったあれだけのことで。整形はしてません。また、こちらは独特の謎めいた部分や、“押し”もあります)。
逆にその時に負った「なんだ、こいつら結局こういうのでここまで態度違うんだな」という気持ちです。
あの頃、ほかのアジアの国々ではあまり態度が変わらなかったのに(年頃の女の子でもそうでした)。
逆にむさくしてる方が居心地よいぐらいでしたよ(ゴーギャンみたいに“あっち”に行った方がいいのかもしれませんね。私らは)。