
日清食品の創業者安藤百福。
チキンラーメン。カップヌードル。
の生みの親です。
そんな偉業の大逆転人生とは?
何度、大失敗しても、
「転んだらただでは起きるな!!」
(引用instagram)
事業家安藤百福の始まり

安藤百福という人はお父さんお母さんを早くに亡くし、台湾で繊維業者を営むおじいさんに引き取られ育ちました。
この人は根っからの事業家なんですね。
安藤は根っからの事業家でして、22才の時、まずメリヤスで会社を興します。
たちまち大成功を収めまして、蚕糸事業にも手を出し、やっぱりすぐに軌道に乗り出します。
疎開先でも

ところが時代は戦争の色が次第に濃くなってまいります。
1941年12月にはアメリカとの戦端も開かれまして、安藤は家族といっしょに兵庫県相生に疎開します。
ところが、安藤。
ちょうど時代は燃料不足。
安藤は疎開先の裏山をそっくり買い取りまして、炭焼きの企業を造ろうと取り図ります。
「何か人の役に立つことはないか。そう思って周辺を見渡すと事業のヒントはいくらでも見つかった」
と、安藤は言います。
このぬかりない奉公精神と、商売気質が後の大成功の秘訣なのでしょうか。
降りかかる大ピンチ
航空会社の下請けで軍用機のエンジンの部品などを知人と共同経営していたようです。
そんなある時、社員がこんなことを耳打ちいたします。
「どうも(取りあつかっている部品の)数が合いません。だれか横流ししている人物がいるようです」
これはたいへんにまずいことです。
なにせ軍の資材です。
憲兵隊に行ってください

とりあえず地元の警察に相談に行きますが、
「うちの管轄じゃないから憲兵隊に行って」
といわれます。
泣く子も黙る憲兵隊。
今でいうと秘密警察です。
安藤は仕方なく言われるままに足を運びます。が。
その窓口で、
「ちょっと待って」
とだけ伝えられると、その後いつまで経っても相手にしてもらえず、返してもくれません。
すると、いきなり取調室にしょっ引かれてゆきます。
そしていきなり、
「お前はけしからんやつだ」
と、こうです。
相手の伍長殿の言い分です。
「お前自分が横流ししておいて、誰かに罪をなすり付けようとしているだろう」
安藤はとにかく必死に抗弁します。
が、どうしたことかまったく聞き入れてもらえません。
事情を説明すればわかってもらえる、
真実はやがて明らかになる、
ととにかく信じぬこうとおもっていたようです。
が。
極限での欲求

「よく考えておけ」
と放り込まれたのは留置場です。
見ず知らずの男たちのたむろする部屋にたたきこまれ、足すら満足に伸ばせません。
一番困ったのは食事といいます。
入れ物から食事から水まで“不潔”。
そして、与えられるのは粗末なものばかり。
それでも人間というのは“食”を求めるのですね。
いや、追い込まれれば追い込まれるほど人間は原始的欲求に貪欲となってゆくのですね。
囚人たちはそんな「食べる気もおこらない」残飯を奪い合い、むさぼりあいます。
留置場の地獄
こうして安藤は取調室に何度も何度も引っ張り出されます。
そして目の前に付きつけられる調書にはこう記されてあります。
「私がやりました」。
取調官はくどいように何度もこうせまります。
「判を押せ」
安藤はやがて“食”を放棄します。
「わざわざ健康な体で拷問をされて死んでしまうくらいなら、食べれずに病気になった方がマシだ」
そうした安藤の食べ残しを、ほかの囚人たちがいつものように奪い合い、むさぼりあいます。
私の場合若いころ何度か絶食の経験がありますが、脳も神経もおかしくなります。
なんか植物みたいになった気がしました。
胃袋がカラカラになるせいでしょう。
吐き気にさいなまれる人がいるようですが、安藤の場合は下痢になりました。
もうダメか、と思った時、ある囚人がこう言いました。
「俺は明日シャバに出られる。なにか助けになることはないか」
安藤は弱りきった口から
「俺には〇〇という陸軍将校の知り合いがいる。その人にこのことを伝えてくれ」
不思議なものです。
その次の日には〇〇が留置所に現れると、安藤は無事「出所」することとなったのです。
結局、その後、横流しをしていたのは共同経営者だったということが判明いたします。
この人と取り調べの人間は親類だったようです。
つながっていたんですね。
……。
戦後の食糧難
1945年8月15日終戦。
日本全国、都市はどこでもがれきに埋もれ、人々は今日・明日を何とか食いつなぎました。
1年が経っても、国鉄大阪駅から難波駅を家族たちと持てるだけの荷物を持って歩けば、あちらもこちらもやせ細り、うつろな目をして、飢え、死んでゆく人々が……。
泉大津に移った安藤らはそこでうち捨てられた古い建物から鉄板をひっぱりだし、そこに自己流で海水を焼いて製塩を始めました。
また、1947年には名古屋に自動車や鉄道の工員たちを育成する学校を立ち上げました。
奨学金を与えて、仕事がなくあぶれていた若者らに技術を身に着けさせようと志したようです。
そんな折、ラーメンというものが安藤の瞳に焼き付くのですね。
冬の凍てついた寒空の下、阪急梅田駅の裏手で人々が屋台に寄り添い、体を温めあっているのですね。
カエルで自宅を破壊?

安藤は思いつくと、なんでも没頭して行動に移さないと気が済まないのですね。
布団に横になっている時に、どこからとなくウシガエルの野太い鳴き声が聞こえてまいります。
すると、早速若い衆をたたき起こし、つかまえにゆくのです。
いったいどういう手順を踏んだのかは知りませんが、圧力釜が爆発し、自宅を大いに破壊してしまったようです。
奥さんの仁子(まさこ)さんにはすっかりしぼりこまれたようですよ。
GHQによる逮捕

そんな折、安藤らの製塩所の近くから木によじ登ってこちらをうかがっている警官の姿が目に入ります。
なんなのだろうと1948年クリスマスの晩。
パーティが終わると、会場から出ようとすると、いきなり2人の男に体をおさえられ、横付けされていたジープに押し込められるのですね。
何のことやらと思えば、つきつけられた罪名は
「脱税」
動いたのはGHQです。
納得のいかない安藤は弁護団を組織します。
巣鴨プリズンでの暮らしは案外“ゆるかった”ようですね。
食事はちゃんと出るし、重労働をさせられることは一度もありません。
安藤はここでマージャンも覚えたようです。
こうして2年後、釈放されます。
経営破綻

安藤の挫折はまだまだ続きます。
プリズンに入っている間に製塩所も自宅も立ち退かざるを得ない状況になっております。
すると、今度は
「ある信用組合の理事長になってほしい」
とたのまれます。
まあこのあたりはさすがです。
安藤は金融をいじってきたことはなかったので最初渋っていたのですが、結局なだめすかされるように引き受けてしまいます。
するとです。
この信用金庫の経営が傾きます。
安藤はずぶの素人なので現場をほぼ任せたままにしておいたのですが、
なかなかルーズな運営状況だったようです。
こうして、にっちもさっちもいかず破綻。
銀行はこちらの調子のいい時はドンドン貸し付けてくれるけれど、
風向きが変わると……、
という経験をしてしまったらしく、安藤はその後の経営に「無借金主義」へと肩入れしてゆくようになります。
挫折時の安藤の名言

さて1956年、任された信用組合は破綻です。
まだGHQにつかまった時はそれなりに話を通してくれた人もおりましたが、今回はまわりがすっかり静かになりました。
浮き沈みの多い事業家の苦悩と申しますか。
古今東西「金の切れ目は縁の切れ目」。
本来、お金というものは
「人間の人間による人間のための」
ツール。
人間以外の自然にはただの金属の塊か紙切れですが、人間はそれを富となす知恵をもっているのです。
ので、広く人と交わろうとすると、お金はまったく便利なものです。
しかし、それがなくなってしまうと、なんとも。
「失ったものは財産だけではないか。その分だけ経験が血や肉となって身に付いた」
この時の安藤の言とつたわります。
家族総出で新商品開発

戦後10年あまり。
人々の暮らしはみるみると豊かになっていっております。
この時の安藤には部下もお金もありません。
しかたなく一人で新商品開発に打ち込みます。
安藤の作りたいのは「ラーメン」です。
それもお湯さえあればすぐに食べられる。
この新商品開発に安藤が託した目標が下の5つです。
- おいしくて飽きない味
- 家の台所にいつでもおいておける保存の効くもの
- 簡単に調理できるように
- 値段は安く
- 安全で衛生的なものに
開発には家族も総出で手伝ったようですね。
子どもたちも奥さんも。
そういえば今家族でひとつ屋根の下同じ仕事に打ち込んでいる姿というものはほとんど見かけなくなりました。
安藤百福の妻

安藤から
「ラーメンの仕事をやるぞ」
と言われて、
奥さんの仁子(まさこ)さんは、
「どうせやるなら日本一のラーメン屋さんになってください」
と答えたそうです。
仁子さんがチキンラーメンの段ボール箱を手ずからさげて、持ち帰っていると、道中知り合いに会いました。
「お宅の旦那さんはなにをやってらっしゃるんですか」
と問われたので、
「ラーメン屋さんです」
と答えると、
「あら、ラーメン屋ですか」
とあっけにとられた表情。
仁子さんはカチンと来たようですが、
「主人は将来必ずビール会社のように大きくなるといっておりますよ。ビールのように税金がかかりませんから」
ついでに手にしていた段ボール箱をひとつその方にあげてしまったようです。
その後、安藤の会社は名前を『日清食品』にあらため、
ついに爆発的ヒットを生み出すことになります。
最後に
今や即席ラーメンやカップラーメンは世界の文化となりました。
90年代後半、私が貧乏学生だった時代(今も貧乏ですが)、友人が
「アメリカの一番の発明はコーラ。日本はカップラーメンだな」
と言っていたのを思い出しました。
ちょうどそのころ、中国に旅行した折も現地の人たちが当たり前のようにすすっておりました。
最近の欧米系の洋画でもそういうシーンは何の違和感もないですもんね。
安藤百福は100才近い長寿をまっとうし、2007年に亡くなりました。
参考文献
安藤百福の珠玉名言集はこちら