
日本中世における最大の国難“元寇”。
しかし、そのくわしいところはいまだにわからない、あるいは不可解な点があまりに多く見られます。
そもそも、元寇というものはここ長い間あまり検証しなおされておりません。
ぜひ、現状としてできる範囲で整理しなおし、見つめなおしたいところです。
今回はその第二陣弘安の役とは。
文永の役後
文永の役後、元からは二回使節が訪れております。
しかし、鎌倉はその二回とも使節を斬首。
一方で博多湾岸に石築地を張りめぐらせます。
そしてこのころ、日本は高麗への出征計画を発表します。
逆にこちらから打って出て相手方の出征拠点を制圧してしまえ、ということです。
しかし、結局はうやむやに。
一方で元も使節を送るのと並行して日本征伐の再軍備を整え、当座の宿敵であった南宋を滅ぼしもしております。
こうして、準備は万端となるのですね。
朝鮮半島からの東路軍、そして新たに征服したばかりの南宋勢力をも吸収した江南軍。
今回の遠征軍の規模は前回をはるかに凌駕するものとなっておりました。
空白の17日間
総勢40000からともいう大軍勢が朝鮮半島南部の合浦から出航したのは1281年(弘安4年)5月3日のことです。
そして通説では、5月21日に対馬を襲った、といわれております。
しかし、この点についてはさすがに疑問が残ります。
はっきり言って朝鮮海峡をへだてただけの合浦から対馬の間でなぜそんなに時間がかかったのか、かかったとして一体そこに何の意義があるのか、まったく見当がつきません。
ただでさえ、大量の人員、馬、を載せ、糧食だけでバカになりません。
しかも、当時の船では海難事故のリスクがあります。
現実としてこの出征中にそういった被害が起こっております。
ここに『高麗史』に載せられているある重要な地名の存在があります。
日本世界村大明浦です。
従来ここは対馬佐賀と解釈されることが主流でした。
しかし、ここに世界村とは志賀島ではなかったのか、という説があります。
つまり、対馬はとっくに制圧してしまい、さらに大宰府をにらんだ橋頭保へと前進している、というわけです。
そして、26日諸軍が壱岐島に向かった、という記述がやはり『高麗史』にあります。
これが21日対馬説の裏付けともなっていたのですが、全軍が壱岐島に向かったかはこれではわかりません。
あくまで諸軍ですからね。
ともかく、あの“空白の17日間”は今後の検証の大きな課題です。
弘安の役勃発~東路軍続々~
志賀島はいわゆる地形用語の陸繋島の典型です。
湾上に浮かんだ卵型の島。
長細い砂州一本“海の中道”を伝って九州本土へいたります。
文字通りの難攻不落。
大宰府をにらんだ絶好の要衝ですね。
従来の説でも6月6日には元軍がここをおさえております。
日本軍にここを死守するほどの余力はなかったでしょうか。
しかし、日本軍とて当然にここに食指を動かします。
夜襲などのゲリラ戦術でねばり強くしたたかにここに食らいつきます。
よく、元寇時の日本軍が一騎打ち戦術で戦ったように思われている節がありますが、それは誤りです。
彼らの戦い方の主流は志賀島争奪戦に見られるように、あくまで集団戦術です。
一方で元軍の別派は長門にも上陸いたします。
さらにこのころ対馬に宋船三百余隻が到着。
これは朝鮮半島からの増派部隊を意味するのでしょうか。
志賀島はどうなった?
その後の志賀島の領有に関しては諸説バラバラです。
●6月9日には元軍が全軍まとめて壱岐へ退避した
という説があれば
●元軍が死守した
とも言われます。
ともかく、ここで日本は積極策に打って出ます。
壱岐強襲
6月29日壱岐強襲。
日本軍はここで戦果を上げます。
壱岐島をどの程度占領できたのかわかりませんが、この意義は大きいです。
かりに志賀島に残存部隊が頑張っていたとするならば、後方からの支援が、という話になってきます。
志賀島で自力補給はほぼ不能です。
浜辺の魚介類ぐらいしかありません。
かりに志賀島に残存がいなくても大きな後退なのは言わずもがなです。
しかし、ここで両軍の流れが大きく変わる出来事が起こります。
中華大陸からの江南軍の到着です。
江南軍到着
現れたのは平戸。
そして、鷹島へと移動。
実数不明(どの資料も〇十万などと数字の誇張がはなはだしいです)ながら、大軍ではあったでしょう。
にしても、これはよくいわれますが、東路軍と江南軍の連携は本当に悪すぎます。
まあ実は、江南軍の司令官が6月に病気になってしまったんですが(この時の日本はつくづくついていますね)。
戦闘が始まってもう1カ月以上。
志賀島で激闘をやっていたころに後背をおびやかされでもしたら、かなりやっかいなことになっておりました。
日本軍はだいぶ助けてもらいました。
台風到来

7月27日鷹島沖で海戦がありました。
日本軍は日中から夜明けまで戦い、いったん引き上げます。
そして、7月末。
両軍の運命を決するあの天変が起こります。
あの時の嵐は相当だったようです。
『一代要記』には、
自上古第三度
つまり上古以来三本の指に入るほどの規模だったといいます。
また、ここで気になるのが元軍の船質の悪さです。
元はこの戦争を見込んで大量の船を急造しなければならなくなりました。
やはりその不足分を無理に補うためでしょうか。
先ごろ鷹島沖で見つかった沈没船は元寇時すでにかなり老朽化していたのでは、と指摘されております。
また、かなりの石を積載していたこともわかっております。
つまり“重し”ようです。
これらの条件が重なり、元船に相当の被害が出たのでしょう。
日本軍はその後も掃討戦をまっとうし、ついに元の兵影は日本から姿のいっさいを消しました。
弘安の役の後
その後も元から日本への使節は何度も到来。
そして、フビライハンは三度目の日本遠征計画をくわだてます。
が、結局果たされることなくフビライハンは亡くなります。
一方日本では御家人への恩賞が少なく、以前から進行していた幕府体制の矛盾がよりあらわになり、武士の窮乏化、幕府権威が助長されることになります。
またこの時から育まれた“神風思想”はやはり、祈禱を担当していた朝廷・寺社による喧伝の効果は大きいでしょう。
相当運がよかったのは間違いないのですが。