文永の役とは。わかりやすく解説。

歴史
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そのとてもつもない力で世界を席巻したモンゴル帝国

その一派がついにわれらが日本に牙をむきました。

元寇です。

その第一幕文永の役とは。

なぜ、元(1271年~)は日本を攻めようとしたのでしょうか。

そして、実際に行われた戦闘とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

元が日本を攻めた理由

元の皇帝フビライが日本に大いに関心を持つきっかけと言われるのがモンゴル帝国における高麗人官吏趙彝によるフビライへの進言です。

「日本はわが国の隣国でありとても法律や制度が整い、良い政治が行われている立派な国です。漢のころから使者を中国へと遣わしております。高麗に先導させて、日本に使者を派遣し、通行すべきです」

豊富な特産品

元が日本に求めた特産品、その最有力候補にまず「金」が挙げられます。

たとえばあの時代、平泉の中尊寺金色堂が有名です。

マルコポーロの東方見聞録では少し大げさなぐらいにそのあたりが紹介されております。

硫黄

そして、「硫黄」に着目している説もあります。

日本は火山国家。

そのため、硫黄を豊富に産出します。

しかし、元ではかなりの貴重品。

元には火薬という当時の特殊兵器を使用しております。

そのために硫黄がなくてはなりません。

しかも、それが当時元のもっとも手近だった敵国南宋にわたっているということなのですから。

元が動き出すというのは、大いにあり得る説ですね。

対南宋構想

当時の元におけるもっとも手近で強大な征服構想国は南宋です。

南宋と日本の間に良好なパートナーシップが結ばれていることを元はすでに知っております。

元としては当然それを断っておきたいところです。

朝鮮半島情勢

まず、元寇への前段階としておさえておかなければならないのは当時の朝鮮半島情勢です。

高麗は1231年からモンゴルによる度重なる侵攻におびやかされておりました。

1259年には高麗がモンゴルに全面降伏。

しかし、なおもモンゴルへの抗戦をかかげるグループがあり、分派することとなります。

その大きな求心力となるのが三別抄

彼らは朝鮮半島を追われてなお、耽羅(済州島)でモンゴル軍に抵抗。

1271年には日本に応援要請を送りますが、黙殺され、1273年ついに鎮圧されました。

もしこの時、日本が三別抄に援軍を送り両軍共同、耽羅で元軍を迎え撃っていたとするならば、その後の歴史はどのように移り変わっていったのでしょうか。

また、三別抄の抵抗なくそのまま数年早く元寇が行われていたとするならば結果はどのようになっていたでしょう。

日元の外交交渉

モンゴル皇帝フビライハンは使者に国書を持たせ、高麗に日本への案内をさせようとします。

しかし、高麗はこれに乗り気ではありません。

なんとかはぐらかせようとします。

高麗とすれば、自分たちが対日本戦に履きつぶされるのが目に見えていたでしょう。

もともとモンゴルの高圧的に莫大な朝貢を求める態度、そして、高麗が江華島にこもって抵抗した時、水戦にてこずりさんざん攻めあぐねていたモンゴル人のありさま。

海を越えて日本に、なんてもう何をさせられるか……。

日本が「はい、そうですか」と応じるとは思えないし……。

結局、元寇では思いっきり履きつぶされるのですが。

高麗、つらいです……。

これに対し、鎌倉は執権を北条政村から得宗家嫡流の時宗へと迅速に代替わりを果たしております。

国内を一つにまとめ、国難に対処しようという腹積もりでしょう。

そんなところへモンゴルからの国書が日本に届きます。

この国書はそれまでの中国王朝に通例としてあった書式があまり守られておりません。

しかも、かなり恫喝的に映ります。

「だれが兵を使うなんて好きですか」

というのが結びから3つ目の文章です。

そして、結びは

「不宣」

です。

当時のモンゴル帝国の国書としてはわりと親密的な書式だったのですが、当時の日本にそれがわかったでしょうか……。

日本はこの国書をスルーします。

フビライはこれを受け、多くの兵員を集め、軍船を大量に建造し始めます。

一応、使者を通じた外交折衝はおこないますが、この変は当然ともいうべきとてもシビアな両面並行作戦。

モンゴル側からの使者は繰り返されますが、日本側はなんとか「お近づきにならないように」策を弄します。

しかし、どんどんプレッシャーは強まり、ついには露骨に武力を背景に恫喝するようになってきます。

そうこうしている間に元は三別抄を鎮圧し、南宋の要衝襄陽・樊城を落としてしまいます。

こうして、ゆとりのできた元はついに大遠征の兵を挙げることとなってしまいます。

日本の国防危機レベル向上

日本政府はここ数年で国防危機レベルを飛躍的に向上させてゆきます。

●異国警護番の設置

●鎮西への人員配置

●悪党鎮圧

●北条時宗の異母兄時輔の粛清

文永の役

1274年(文永11年)10月3日朝鮮半島南部の合浦からモンゴル・漢・高麗からの各人総計2万7000~4万の兵員、水夫を載せた700~900艙の軍船が出航します。

手始めとして対馬・壱岐と襲われ、住民ふくめておびただしい数の人々が殺害され、捕虜とされました。

元軍の当座の目標はあくまで西海への軍事・政治の要大宰府です。

19日の深夜から20日の朝にかけて、元軍は博多湾に上陸。

両軍最初の激戦地となったのが赤坂鳥飼

赤坂山は当時よりさかのぼること250年、「刀伊入寇」において守護拠点となり、近世に入っては福岡城が築かれることとなります。

ここでは両軍入り乱れての接近戦が繰り広げられますが、元軍はついにその日の占領をあきらめ、麁原山に引き返してゆきました。

なお、ここでかつては「神風」と呼ばれる台風が到来し、元軍の船団は一日のうちにすべて引き上げた、とされてきました。

しかし、この時期は旧暦でいう11月の末です。

台風が襲うということはまずありえません。

ただ、この時期旧暦10月20日の夜とまでは限定できませんが、なんらかの「大風」が起こったことは間違いありません。

日本側・高麗側双方の様々な資料からそれは記されております。

実際、なぜその日の合戦で麁原山に引き上げたのでしょう。

これだけの大船団、引き上げるだけでも容易ではございません。

それ相応の準備が必要です。

しかも、24日には大宰府で戦があった、という『関東評定伝』のような資料も残されております。

それにしてもなぜ元軍はああも早々と大陸への全軍撤退を決行したのでしょう。

考えられる理由はたくさんあります。

●ほとんどが被征服民による寄せ集めなので、意思統一に欠け、戦意が低かったから

●この季節あの海域は大陸からの風が強く吹き、とても荒れやすかったから

●左副都元帥劉復亨が流れ矢にあたり負傷してしまった(『高麗史』)から

こうしていったんは国難を切り抜けた日本ですが、フビライハンの野望がこれで終わるということはありませんでした。

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