大坂ってものすごく江戸時代を象徴する都市な気がする~江戸時代大坂の歴史~

歴史
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なんだかんだ言って大坂は幕府第二の天領です。

確かに古来、

「東京への対抗意識が強い」

とよく言われますが、江戸時代というものをひもといてみると、幕府というものとものすごく密接。

むしろ、江戸時代を象徴するといってよい大坂の歴史をここにまとめてみました。

大坂の復興から栄華

ひょっとすると江戸以上に江戸時代を象徴していたのではないか?という大都市。

そもそも江戸時代の始まりとは大坂の豊臣政権をやっつけることから。

1600年の関ケ原があって。

1614年の冬の陣。

1615年の夏の陣。

そして、おびただしい戦災を受けたこの町を幕府は

「天領(幕府直轄地)」

として復興・発展させてゆくのです。

17世紀末~18世紀初頭の元禄文化。

まさにこうして立ち直った町人たちによって花開いた文化。

もう武ではなく文。

そして、商(金。金とは人間の一般社会そのものですので、実に“らしい”です)。

さらに人情(商の都は良くも悪くも伊達ではありません)。

近松門左衛門も井原西鶴もそういったチャンスを求め、求められ、ひろいあげられ。

堂島には世界初の公設の先物取引市場米相場会所。

中之島に蔵元を立てて財を成した淀屋は最盛期の財産が現在価値200兆円とも!!

つうか今のカナダとか韓国のGDPと同規模やん。

日本のGDPと比べても半分近くあんで。

まじなん、これ。

すごいってのはかねがね聞いてたけど。

もはや☆ヨタや*フトバンクどころかGAFAも〇リババも目じゃないやん。

屋敷にガラス張りの金魚プール天井造って下から観賞しとったとか。

あんまり贅沢(ぜいたく)すぎる、いうことで幕府から取り潰し(1705年)にあったらしいけど……。

すごいな幕府。

大名に借金がいっぱいあった(総額100兆円)から踏み倒したという説もあるけど。

あの頃ディフォルトは当たり前(大名貸しはやったらダメ!)。

なんで元禄バブルが丸つぶれなったかいろいろわかるような気もするな。

大塩平八郎の乱と幕府終焉

「天下の台所」

とはよくいったもの。

しかし、時代は次第にポスト元禄。

正徳の治、享保の改革、と政府の緊縮財政が続き、

商都の地位も次第に江戸へと奪われてゆきます。

やがて、田沼時代、寛政の改革、大御所時代。

もうこのころになれば拝金原理主義的な風潮が全国に蔓延しております。

幕閣を中心として大名も不正・汚職は当たり前。

もうかるためなら手段をえらばない豪商も目立ちます。

そこにきて天保の大飢饉。

洪水や冷害など、異例の天候不順が年々立て続けに起こり、5年間で全国の人口が125万人減ったという記録が残っておりますからね。

大坂でもひどい被害が出て毎日150~200人の餓死者が出たとか。

そこにきて老中水野忠邦の実弟である大坂の町奉行跡部良弼は江戸に向けて米を回す。

しかも、なんとかと京に米を買いに行こうとする人々の買い取りの規制量(五斗一升。約10リットル足らず)をもうけ、こえればようしゃなくしょっぴく。

元奉行所の一与力であった大塩は激怒します。

「豪商らの買い占めをやめさせろ(買い占めて値を吊り上げ、足元を見ようというとても困った商法が横行していたから)」

と言ったって、跡部は聞きやしません。

大塩が自分の膨大な蔵書をうりはらい、現在価値1億3千万円という大金を義援金として回すと、

跡部は

「この偽善者が!」

あつかいです。

なんなら大塩自身や同志たちの給料を抵当にあてて豪商から借金をし、困窮する人々に分け与えようとしますが、跡部は裏から手を回し、豪商に話を握りつぶさせてしまいました。

大塩は徹底的に清廉潔白で強直な人柄ですから、もう腹をくくってしまいます。

自分たちで戦闘訓練をほどこし、大砲などを買い入れ、近くの農村などに加勢をつのります。

が、寸前になってことがもれてしまうんですね。

ほんとうならまず真っ先に跡部を暗殺するねらいだったのですが、それは無理となって仕方なしに蜂起だけは決行いたします。

といっても相手は天領の政府軍。

勝てるはずがありません。

かねてより人でなしな行いの目立った豪商らの屋敷をねらって放火を行いますが、次々燃え移って大坂の町の多くを焼き尽くしてしまいました。

大塩はそれでもある懇意の商家にかくまわれ、一方で幕府への建議書を送り付け、そこには水野ら幕閣などの不正も暴露して翻意を促しましたが、途中であるふとときな飛脚に

「なんか金目のものは」

と中を勝手にあらためられ、その辺に打ち捨てられる始末(この手紙は今から30年ほど前に発見されました)。

大塩は幕府に居所をばれてふみこまれ、いまわの際に養子ともども火薬をうちつけ、爆死してしまいました。

しかし、騒ぎがこれで収まったわけではございません。

「大塩はまだ生きている」

「外国にわたり、黒船に乗ってやりかえしにやってくる」

と人々の口から口へまことしやかにささやかれます。

また、大塩の決起状は全国の寺子屋などで手習いに使われ、村の祭りでは大塩一党の仮装する者まで現れる始末。

それでも、幕府は何とか火消しをしようと、大塩の生前の不正をでっちあげたり(これをやって出世したのが鳥居耀蔵であり、取り立てたのが水野忠邦です)してみますがまるで効果は上がりません。

仕方がないので塩漬けにしていた大塩らの死体をはりつけにしますが、もう誰の死体かもわからないので、かえって混乱を広げてしまいました。

こうして幕府体制の衰退を世の中にまざまざとさらす結果となり、時代は容赦なく幕末へと突入。

最後は徳川慶喜が大坂を退去するという形で江戸時代は終焉するのです。

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