
マスコミや教科書や俗説、一般論で語られるところは現実と乖離している場合が往々にしてあります。
20世紀世界史上における圧倒的カリスマ、チェ・ゲバラ。
その実態とはいったいどんなものだったのでしょう。
キューバ革命における彼自身の従軍日記(チェ・ゲバラ革命日記)からうかがい知れるものを紹介してまいります。
一般に知られるチェ・ゲバラとは。簡単に説明。
まず、チェ・ゲバラについて簡単な要点をこちらにまとめます。
チェ・ゲバラ。
本名エルネスト・ゲバラ。
チェというのはスペイン語で「やあ」や「おい」くらいの意味です。
親しみを込めて人々にそう呼ばれるようになりました。
チェ・ゲバラの生い立ち
チェ・ゲバラは1928年アルゼンチン・ロサリオの裕福な家庭に生まれました。
幼いころから体が弱く、重い喘息を患っております。
その後、チェ・ゲバラは医者を目指し、ブエノスアイレス大学医学部に進学いたしました。
チェ・ゲバラにとって大きな転機となったのはやはり23~24歳ごろにおこなった南米大旅行です。
オートバイに乗って生の世界を見て回り、そこで社会の様々な矛盾の中で苦境にあえいでいるたくさんの人々と接することになります(私は昔↓チェ・ゲバラのバイク旅行を描いたこちらの映画を観たことがあります。とてもわかりやすい良い映画だったと思います)。
やがて運命的に知り合ったのがメキシコに亡命していたカストロ兄弟。

チェ・ゲバラは彼らの革命活動へとのめりこんでゆきます。
カストロ兄弟らの祖国キューバはほかの多くの中南米諸国と変わらず大国アメリカによる植民地的搾取に苦しんでおります。
この横暴から解放するため彼らはひそかに祖国へと入ってゲリラ闘争でもって立ち向かうのです。
チェ・ゲバラは誠実な人柄と冷静な判断力などからゲリラの中で次第に頭角を表してゆきます。
そして、チェ・ゲバラやカストロ兄弟らのたくみな指導もあって圧倒的不利な戦線を次第に挽回。
ついにはアメリカによる様々な支援を得たキューバ・バティスタ政府を打倒し、革命を見事成立させてしまいます。

こうして、チェ・ゲバラは新たなキューバ建設に向けて意気揚々と歩み始めるのですが。
現実と理想の溝は埋まりません。
それどころかアメリカによる経済封鎖もあって、国家運営は次第に行き詰まりを見せ始めます。
チェ・ゲバラはあくまで素朴で共存的で独立したまさに理想の国造りを目指しています。
しかし、現実主義者のフィデル・カストロ(兄)はアメリカと敵対するソ連共産主義陣営への参加をくわだてます。
チェ・ゲバラはこれに異を唱え、ついに国家運営者としての地位を降りてしまいます。
そして、彼が向かったのは“依然大国の搾取に苦しむ諸外国”。
チェ・ゲバラは闘士として駆け付け、その革命運動に携わりました。
そして、1967年ボリビアの寒村にて捕虜となり、銃殺刑とされました。
享年39歳。
チェ・ゲバラが愛される理由

チェ・ゲバラのすごさは人々が“ただの理想論”として斬り捨ててしまう論理を、大真面目につきつめ、実践。
たぐいまれな知性と理性、そして大きく深い視野と命がけの熱く優しい心で、夢でなく現実に可能なのではないか、とすら思わせた恐るべき実行力。
その存在は“救世主的シンボル”として今も世界中の人々の心に生き続けております。
さて、ここまで述べてきたのがチェ・ゲバラの一般論です。
では、キューバ革命における自身の日記に書かれたチェ・ゲバラとはどんなものだったのか、どうもやはりちょっと違うように感じるところが結構ありました。
紹介してまいりましょう。
チェ・ゲバラ革命日記から垣間見るその実態とは
ものすごく淡々とした文体
まず、文体です。
すこぶる淡々です。
・○○と△△を食べた。
・◇◇で空爆があり、※※が軽い負傷をした。
・$$と@@をしょって歩かなければならなくなった。
などと、ほとんど必要なことを端的に書いているだけ。
ディテールや感情の起伏はほぼほぼ見られません。
まさに、医者がカルテを記しているような感じです。
ただ、本人がそれほどの文章下手だったのか、というと人への手紙にはとても長い文章で、しかも情熱もあふれんばかりに書き連ねていることで知られております。
なので、これはチェ・ゲバラのあくまで一面を示すもののようです。
独特の殺人感?
日記を読み始めてまず最初に「!」となった内容はこちらです。
通りかかった住民に、
「最悪な農園領主がいる」
と訴えられると、チェ・ゲバラ一味の間で彼を殺すという計画が唐突に、さも当たり前のように決定されておりました(戦場という特殊な環境を生き抜く、ということはさすがのゲバラをしてもやはりその精神構造を改変するものなのでしょうか。あるいは医師ならではの冷徹さでしょうか)。
書き方の問題もあるのかもしれませんが。
その後、フィデル・カストロがこの農場主の味方を装って彼らの情報を聞き出し、用済みとなると殺してしまいます。
そして、農場主一味は一網打尽です。
ただ、近隣の住民がこの結末に大喜びしていたことも記されております。
本当によっぽど嫌われていたんですね。
脱走兵のあつかい
チェ・ゲバラの脱走兵へのあつかいも印象的です。
「もう無理だ。ついていけない。」という者たちをそのまま逃がしてしまうんですね。
そんな無茶な、と思っていると案の定です。
敵へのたれこみ屋の害にだんだん苦しみ始めます。
すると、今度は殺してしまいます。
それも唐突な書き方をしているので「え?」という感じです。
そして、ほかの脱走をほのめかす者たちにその死体を見せつけております。
が、後に、
「あの殺しは妥当だったのかわからない」
とさりげなく述懐しております。
ゲリラ活動の大変さ
こんな淡々とした文章でも、その激務のすさまじさというのはにじみ出ております。
活動の最初のうちはチェ・ゲバラら開戦当初からの精鋭有志らに限られているのですが、だんだんと地元の志願兵が増えてきます。
すると、彼らが続々と脱落してゆくのです。
毎日日がなとても重い荷駄を負って、どことも知れない(おそらく密林や山河)を渡ってゆきます。
しかもそこは戦場です。
壮絶な体験をそこここでします。
心身の衝撃は生半可なものではないはずです。
特に新参は。
食
この日記に書かれていることのほとんどは戦闘とだれかとのやり取りと食事です。
滅多に感情を記さないチェ・ゲバラが、
名前は覚えていない黒人がプレゼントに焼いた豚を持ってきてくれた。完璧だった。
とシュールにジョーク。
軍隊活動とはどういうものかを思い知らされる気がします。
なお、この日記に記されたチェ・ゲバラの食事メニューを列記すると、
さとうきび(畑でおそらく勝手に拝借)、カニ(生獲り)、粉ミルク、イワシの缶詰(恐ろしくまずかったらしいです)、牛(当然解体もします)、チーズ、ドゥルセ・デ・レチェ、チョリーソ、豚、フリホール豆、コーヒー、ビール、マチョ(食用の齧歯類)、など。
方々で人々が寄付をしてくれるので、さほど飢餓に苦しんだ様子はないです。
よほど、当時の政府が嫌われていたんでしょう。
それと、やっぱりチェ・ゲバラらへの恐怖もあるでしょうか。
時折、丸一日絶食することもありました。
フィデル・カストロが何やら癇癪を起こした勢いで、フィデルが自主的に食事放棄したこともありました。
睡眠
ハンモック、泊めてもらった家でぎゅうぎゅう詰め、野宿など。
マスコミ
時折、宣伝工作として外部記者も帯同させております。
生きることの重要性
唐突に
私の中にかつて感じたことのない感覚が生まれたのがわかった。生きることの重要性だ。
と記されます。
そして、
そんなものは次の機会までに修正されなければならない。
と続きます。
幾人もの臆病者をあっさり臆病者と記し、おしゃべりな人間を信用せず、必要であれば殺し、ただただ機械的に革命に邁進するような、文体からはそういう印象を受けずにおれないのですが、この一文で“人間らしさ”が一気に染み出てくる心地がします。
まとめ
チェ・ゲバラとはいえ、内心だけに秘められたチェ・ゲバラは伝説とはまた違った一面があるのでは、と思わせられました。
そして、やはり戦争の壮絶さ。
人間の価値観が日常とはまるっきり変わってくることを思い知らされます。
(参考文献『チェ・ゲバラ革命日記』著・エルネスト・ゲバラ/訳・柳原孝敦/原書房)