貧しい身分から国の最高権力者に!
日本ならば豊臣秀吉が有名です。
中国では明朝の太祖朱元璋が食うや食わずの貧農から一代で皇帝にまで成り上がりました。
世界史をひもとくと、大出世話にもちょっと奇妙なものもありまして。
なんと、キュウリ売りから王様にまでのし上がった人がおります。
それはどこの国での話かといいますと……。
クメール王朝。
今のカンボジアのあたりを中心に栄えていた国です。
はてさて、いったいどんないきさつだったのでしょうか。
クメール王朝とは
今のカンボジアあたりで文献上最初に確認される国は扶南国です。
その後、真臘と呼ばれる国が扶南を滅ぼし、やがてクメール王朝と呼ばれるようになってゆきます。
クメール王朝は農業国家です。
地図を見ていただけるとわかるのですが、内陸に首都(今のアンコールワットのあたり)を置いております。
商業国家ならアンコールより少し南にあるトンレサップ湖やメコン川などのすぐ近くに首都を置くはずです。
クメール王朝は貯水池や運河・水路を充実させ、灌漑農業地を開き、栄えてゆきました。
伝統を打ち破った王
クメール王朝で有名な王様と言えばクメール王朝全盛期を築き上げたジャヤバルマン7世。
あるいは後のアンコール・トムの基盤となるヤショダラプラへと遷都した「獅子の男」ヤショバルマン1世や、アンコールワットを建造したスールヤバルマン2世が挙げられるでしょうか。
しかし、こちらの記事で紹介するのは、……大幅にマニアックなトロサック・パアエム王様です。
ひょっとすると、彼の話をカンボジアですれば、あちらの人も「へえ」と感心してくれるかもしれません。
トロサック・パアエム王の在位は1323~40年。
Wikipediaでは1336~40年となっております。
この方にはひとつまず大変な特徴があります。
クメール王朝との王様と言えば“バルマン”。
まだ真臘と呼ばれた時代からするとトロサック・パアエム王当時のクメール王朝は独立以来、すでに700年以上もの大変長い歴史を誇っているのですが、いつ知れず見える王様の名の後ろには必ず“バルマン”が付く、という伝統があったのです。
トロサック・パアエム王はそんな長い“バルマン”の伝統を破りました。
トロサック・パアエムが王様になったいきさつ
トロサック・パアエムが王様になったいきさつは文献で見るかぎり、何とも不可思議です。
あるところにチェイという強い戦士がおりました。
チェイは戦争に負けたので、お百姓になり、畑にキュウリを栽培するようになりました。
すると、チェイの作るキュウリは「たいそうあまくておいしい」と評判になります。
だからみんなチェイのことをこう呼ぶようになりました。
トロサック・パアエム。
“あまいキュウリ”のおじさんという意味です。
そして、チェイは王様にキュウリを献上し、王様にもいつもいつも喜んで食べてもらえていたのです。
そんなある夏の夜のこと。
王様は、
「ああ、“あまいキュウリ”おじさんのキュウリが食べたいな」
と二人の家来を引き連れ、畑に入ってゆきました。
たまたまそれを「泥棒だ」と思ったチェイ。
チェイは「えい!」と矛を投げつけると王様に命中してしまい、王様は亡くなってしまったのです。
こまったのは朝廷の人たち。
「王様がいない!」
なら、ヤツを!と強引に王様に就けられたのが“トロサック・パアエム”というお話です。
どうせ「誰かの都合で暗殺だろう」と邪推してしまうのは私がひねくれているからなのでしょうか。
ちなみにクメール王朝の王位は血統というものをあまり大事にしません。
王様が亡くなったら、当たり前のように新王位を武力で奪い合ったり、協議して決めたりしております。
その後のクメール王朝
クメール王朝は次第におとなりタイのアユタヤ朝やベトナムに押されるようになってゆきます。
農地開拓も飽和状態となり、国力は停滞。
1431年には首都アンコールがアユタヤ朝の侵攻により陥落。
残念ながら、以後は国威も文化も目立たなくなります。