「勝者は歴史を書き、敗者は文学を残す」といわれます。
その点、種田山頭火というのは誠に味わい深いです。
本人に現実社会で生きる才能はあまりにとぼしいです(※)。
(※)同時代、同じ不定形俳句で後世に名を成した尾崎放哉という人物がおります。彼もやっぱり現実社会に生きる才能が著しく欠落しております。
負けるべくして負け続ける、本当によくもまあこれだけ、というみじめったらしい人生ですが、その文学的な味わいは深まる一方です。
そんな山頭火の一生を、彼の名句を織り交ぜながら手短に紹介してまいります。
種田山頭火の生い立ち
明治15年(1882年)、山口県防府市。
地元では「大種田」と呼ばれ、10町(約1000㎡)もある駅までの距離をいっさい他人の土地をまたがずに行くことができたほどの大地主の長男として生まれます。
そんな種田山頭火の人生最初の暗い影が差したのは山頭火9歳のころ、母ふさの入水自殺です。
ふさがなぜ自殺を図ったのか、いまだにはっきりとした理由はわかっておりません。
ただ、山頭火が慌てた大人たちの取り巻く井戸に近づこうとすると、
「猫が落ちた。あっちへ行け」
と追い払われました。
その後、山頭火は東京の東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学しますが中退。
故郷に帰ってもどうも収まり悪く、酒や文学に没頭します。
父親には「身持ちをよくするため」と結婚を強制され、山頭火は「家庭は砂漠だ」と素直に感想を漏らしております。
「海は濁りて ひたひた我れに 迫りたれ」
「大きな蝶を殺したれ 真夜中」
ほどなくして、以前より傾いていた家業が破綻。
山頭火は妻子を連れて九州熊本へ落ちてゆきました。
没落に次ぐ没落
熊本では古本屋『雅楽多書房』を起こし、それだけでは妻子を食べさせていけないので額縁絵や絵葉書、プロマイド、と品を並べていった。
行商に出るなど、山頭火なりの生活への意志が垣間見られます。
しかし、そんな矢先に家に弟が転がり込んできました。
弟は早いうちから種田の家を出ていかなければならない運命にありましたが、父親の不義理で養家にいられなくなり、兄をたよったものでしょう。
しかし、山頭火はこの弟に何をしてやれるでもなく、やがて弟の縊死骸が岩国市で発見されることとなりました。
「暑さきはまる 土に喰ひいる わが影ぞ」
それから3年後、突如山頭火は妻子を熊本に残し、東京へと失踪します。
妻サキノとはほどなく離縁。
職を転々としている矢先、関東大震災がおそいます。
山頭火は東京から逃れるように、友人から恵んでもらった金で熊本に帰り、元妻子のいるかつての店を訪ねました。
なんとか同居生活を再開しますが、山頭火は間もなく泥酔した挙句、疾走する路面電車の前に仁王立ちし、危うく事なきを得ました。
山頭火の身柄は近くの禅寺に引き取られ、ここから山頭火のあてのない行乞の人生が始まります。
これはまだ山頭火の若いうちに書いた文章です。
「僕に不治の宿痾あり、煙霞癖也、人はよく感冒にかかる、この如く僕はよく飛びあるく、僕に一大野心あり、僕は世界を—–少なくとも日本を飛び歩きたし、風の吹く如く、水の流るる如く、雲のゆく如く飛び歩きたし、而して種々の境を眺め、種々の人に会ひ、種々の酒を飲みたし、不幸にして僕の境遇は僕をして僕の思ふ如く飛び歩かしめず」
(『爐開』より。種田山頭火)
行乞の俳人
結局山頭火のような個性にはこういった生活感のない暮らしに落ち着くべくして落ち着いてゆくのでしょう。
なんのしがらみもなくただ足に任せる。
そして、自然の中を歩み、見ず知らずの人から人の横をすりぬけてゆく。
彼には句があります。
「あるけばかつこう いそげばかつこう」
「うしろすがたの しぐれてゆくか」
「どうしようもないわたしが あるいている」
「生まれた家は あとかたもない ほうたる」
「酔うて こほろぎと寝ていたよ」
「まっすぐな道で さびしい」
少し小銭をためては酒に換え、またカルモチンをたらふく飲みこんでは自殺を図ったこともありました。
やがて、老いゆく果てに「先生、死ぬときくらいはぽっくり死にたいものだ」と、その年のうちに脳溢血で死亡。
享年58才。
「ほろほろほろびゆく わたくしの秋」
「濁れる水の 流れつつ 澄む」
その死後、彼の訪れた旅先々で彼は愛され、その顕彰運動が起こっています。
(同時期、自由律俳句で活躍した尾崎放哉についての記事はこちら)