なぜ、新政府は庄内藩に寛大な処置をとったのでしょうか。
奥羽越列藩同盟の中で特に精強で新政府軍を苦しめに苦しめ、最後まで戦い抜きながらなぜか旧領安堵(実際には紆余曲折あるのですが)。
よく知られているように会津藩なんて藩主容保が禁固刑とされ、藩領23万石を召し上げられ、斗南3万石への大減俸なのに……
例のごとく、西郷隆盛の美談で一刀両断されてる嫌いはあるけど。
う~~ん、結論から言うと、ものすごく“現実的な理由”だったように思えます。
奥羽越列藩同盟における庄内藩の戦いぶり
まず、庄内藩の稀有な戦いぶりについて、簡単に押さえなおしておきます。
そもそも戊辰戦争前夜に薩摩藩が旧幕府側を焚きつけるために江戸で暗躍。
辻切りや強盗・放火など。
それに対し、報復として江戸薩摩藩邸に焼き討ちをかけた中心格が庄内藩です。
その後、奥羽越列藩同盟が結ばれますが、そもそもその動機は会津藩と庄内藩の謝罪嘆願です。
こうしたわけで押し寄せてくる新政府軍と徹底的に戦うことが運命づけられていたわけです。
庄内藩の領内には日本一の大地主といわれる大豪商本間家(※)がおります。
(※)戦国ファンなら、佐渡の国人衆本間家を知っているのではないでしょうか。『花の慶次』にも出てきました。実はここの末裔です。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
と謳われるほど。
本間家によるかなり潤沢な資金バックアップで庄内藩はスナイドル銃などの最新式の武器を買い集めます。
新政府軍相手に連戦連勝を重ねますが、こちらもアームストロング砲でおなじみの最新鋭武装を施した佐賀藩が敵の戦線に加わり、膠着してゆきます。
そうしている間に、奥羽越列藩同盟の同朋藩は次々と新政府側に降伏。
会津藩すらもその軍門に下り、さしもの庄内藩も完全に孤軍とあいなりはて、ついに屈従することを決します。
この時の降伏条件に西郷隆盛が深くかかわり、藩主への処罰は蟄居のみ、藩士には帯刀を許すなどかなり寛大な処置をとったといわれております。
奥羽越列藩同盟各藩に対する処分比較
盛岡藩:20万石→13万石→70万両払うかわりに旧領復帰→借金返済不能→藩終了
長岡藩:14万2700石→2万4千石
磐城平藩:7万石→3万4千石→7万両と引き換えに旧領復帰
中村藩(早々に降伏):旧領安堵
仙台藩:実質100万石→28万石
二本松藩:10万石→5万石
三春藩(造反):旧領安堵
福島藩:3万石→2万8千石
上山藩:藩主強制隠居。旧領安堵。
山形藩:家老処刑。5万石→転封5万石
天童藩(もともと新政府側で参戦):2万石→1万8千石
米沢藩:藩主隠居。18万7千石→14万7千石
会津藩:23万石→3万石
庄内藩:20万石→12万石→30万両支払い→庄内復帰
小藩ではありますが、福島藩・上山藩・山形藩と終盤まで抗戦を示し続けながらも比較的穏便な処置を受けた諸藩の名はいくつか見られます。
比較的戦意が低かったとはいえ、米沢藩もまだ4万石の減俸で済んでおります。
ただ、庄内藩はこれらとはわけがちがいます。
やはりというべきか、きっちり処分は受けております。
20万石から12万石ですから会津藩ほどではありませんが、ほぼ半分に減俸。
これは相当にきつい処分です。
ただ、そのわりには庄内藩自体では西郷にいたく感謝すら寄せております。
まったく妙なものですが、ここにあまりに気になる存在がクローズアップされます。
現実的にここのおかげでしょう
本間家が新政府になんと10万両ものお金を納付しているのですね。
庄内藩は大名や家老・藩士・領民などからかき集め合計で(もちろん本間家の寄付もふくむ)約35万両を用意し、新政府に旧領復帰をきっちり確約させます。
一方、同じように金納でなんとか旧領安堵を目指した盛岡藩は返済不能で挫折しているのです。
本間家の存在はかなり大きいでしょう。
庄内藩は今風に言い換えれば企業城下町。
しかも、その企業が日本一クラスです。
そして、そこがほとんど肩代わりしてくれるんですから、そりゃ、ほかの人たちはさほどに痛みも感じないでしょう。
そもそもこのころの新政府と言えば大久保が自費で借金を建て替えに建て替えたおしたほど財政に火の車。
できたばかりで信用もあまりありませんし。
そりゃ、優しくもなるでしょうに、なんて……