幕末の至誠の偉傑山岡鉄舟とは?名言・名エピソードとともに

思想・処世術
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山岡鉄舟という偉傑がおります。

禅を究め、至誠をつくし、幕末・維新という激動の時代にあって泰然自若。

新撰組草創期の幹部。

江戸城無血開城の立役者。

維新後にはかつての政敵西郷隆盛に立っての願いで天皇近侍の重職を務め、歴任しました。

数々の名言・エピソードとともにそのまぶしさにふれてみましょう。

 

山岡鉄舟の生い立ち

江戸旗本小野朝右衛門の四男として生まれました。

鉄舟の父は武芸を重んじ、母も“剣聖”塚原卜伝の子孫です。

こうして鉄舟は幼いころから剣にうちこみ、また書を学び、成長してゆきます。

 

修身二十訓

ここに鉄舟満13才の時に自分に課した二十条の修身訓を紹介します。

一、嘘を言うべからず候(うそを言ってはならない)

二 、君の御恩は忘るべからず候(主君の恩は忘れてはならない)

三、父母の御恩は忘るべからず候

四、師の御恩は忘るべからず候

五、人の御恩は忘るべからず候

六、神仏ならびに長者を粗末にすべからず候

七、幼者をあなどるべからず候

八、己れに心よからざることは、他人に求むべからず候

九、腹を立つるは、道にあらず候

十、何事も不幸を喜ぶべからず候

十一、力の及ぶ限りは、善き方につくすべく候

十二、他をかえりみずして、自分のよきことばかりすべからず候

十三、食するたびに、稼穡(種まきと収穫、農業)の艱難を思うべし、すべて草木土石にても、粗末にすべからず候

十四、ことさらに着物を飾り、あるいはうわべをつくろう者は、心に濁りあるものと心得べく候

十五、礼儀を乱るべからず候

十六、何時何人に接するも、客人に接するように心得うべく候

十七、己の知らざることは、何人にても習うべく候

十八、名利のために、学問技芸すべからず候

十九、人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、あるいは笑うべからず候

二十、己れの善行を誇り顔に人に知らしむべからず、すべて我が心に恥ざるに務むべく候

 

浪士組取締役に

鉄舟は満20才で幕府の講武所(幕末期、強まる外圧に対抗するために幕府が造った武芸訓練機関)の剣術世話役に任命されます。

この人は平均身長155cmという江戸時代に188cmというものすごい長身です。

それだけで強さもうなづけるというものです。

 

そんな鉄舟は翌年清河八郎ら15名と尊王攘夷をモットーとする「虎尾会」を結成。

そして、その5年後には幕府によって浪士組が組織され、鉄舟はその取締役に任命されます。

 

しかし、この清河八郎、新撰組ファンにはおなじみだと思いますが、曲者なんですね。

「幕府のため」

と表向きではいいながら、大変な尊王攘夷思想の持ち主なんです。

幕府に警戒され、清河は暗殺。

鉄舟も謹慎となります。

 

江戸城無血開城

そんな山岡鉄舟が大々的に歴史の表舞台に出る時がやってきます。

江戸城無血開城です。

 

当時、幕府軍は「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ、「朝敵」の汚名をかぶり、西から攻めてくる新政府側に敗勢一方でした。

大坂から逃げ帰ってきた徳川慶喜を前に、抗戦か、恭順か、意見が述べられますが、すでに戦意のない慶喜は恭順の意見を採ります。

こうして、新政府側の西郷に恭順を示す使者を送らねばならないという話になります。

しかし、行く先は血気にはやる新政府軍の真っただ中。

そこで、あの西郷と渡り合わなければならないのですから、それ相応の人材でなければなりません。

そこで白羽の矢が立ったのが山岡鉄舟。

 

鉄舟は静岡にいた満々たる敵陣の真っただ中を

「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎(鉄舟)まかりとおる」

と大音声でつっきり、無事、参謀の西郷と対面し、勝からの手紙を渡します。

これに対し、西郷は、

一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

の5ヶ条を示したところ、鉄舟は最後の1ヶ条だけ拒否。

西郷が「これは朝命である」とすごみました。

すると、鉄舟は、

「もし島津侯(久光)が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはなんとする」

と反論いたしました。

これには西郷も心を動かされ、慶喜の身の安全を保障し、のちの「江戸城無血開城」の端緒を造ったといわれます。

 

西郷は鉄舟のことを、

「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」

と称賛しております。

 

かつての政敵西郷の願い

維新後、鉄舟は旧幕臣の救済事業として牧の原の茶栽培を助言しております。

さらに、廃藩置県後は地方の重職を転々と歴任。

そんな折、かつての政敵西郷隆盛から依頼を受けます。

「明治天皇の侍従になってほしい」

鉄舟はその依頼通り、10年間誠心誠意に務めあげました。

 

山岡鉄舟の死にざま

山岡鉄舟の圧巻はその死にざまです。

鉄舟は胃がんを患っており、死期もせまったとさとると、白い死に装束に着替え、右手に扇子をたずさえ、結跏趺坐をしながら、周りの人たちにはニコニコと微笑み、そのまま息絶えました。

 

山岡鉄舟名言集

鉄舟の名言をすでにいくつか紹介しましたが、まだまだそれは一部です。

ここにそのほかのものをいくつか列挙しました。

 

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」

「道は千載不滅だよ。いかなる大敵でも、道には勝てぬ。」

「自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える。」

「人のこの世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。」

「諸行無常のならいにて、因果は車の輪のごとく、密接不離のものである。」

「腹痛や 苦しき中に 明けがらす(辞世の句)」

 

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