人々に「犬」と呼ばれた男がおります。
「大樽」とともに生活し、その中で眠り、気ままにその住居は移動しました。
「金銭への愛はあらゆる災いの母である」
として、乞食にもみたぬという生活を信条といたしました。
「第二のソクラテス」
「狂ったソクラテス」
として、人々の嘲笑と尊敬を集めた沈みゆくギリシャ文明に現れた“無物の賢人”ディオゲネスを追ってまいりましょう。
↑引用wikipedia(ディオゲネス)
犬儒派のディオゲネス、若いころの深刻な挫折
犬儒派という言葉をご存じでしょうか。
俗世的な欲望を極限までそぎ落とし、自足した動じない心をもって生きる。
哲学者であるのに、余計な理屈は考えない。
この人はアナトリアの黒海沿岸岬の港町“シノペ(現在のスィノップ)”に両替商の子として生まれ育ったといいます。
なんでも、若いころ父子ともども“贋金づくり”の罪に手を染め、国外追放の目に遭ったとか。
そんなディオゲネスはソクラテスの弟子のひとりである“清貧のアンティステネス”のありようを見初め、弟子入りを懇願いたしました。
しかし、アンティステネスは厳格な人でやたらと新たに弟子を取ろうとはいたしません。
それでもディオゲネスは
「どんな堅い杖であろうと自分を追い出すことはできないだろう」
と言って自分の頭を差し出したといわれます。
こうしてアンティステネスはあきらめ、ディオゲネスの意を受け入れたといわれます。
その後、ディオゲネスの「俗欲を持たない」ことの徹底ぶりはどんどんエスカレートしてまいります。
「結局、人間には俗欲がいる」と言う人はおりますが、私の好みとしては「ないはないに越したことはない」ように思えます。
そりゃ俗欲があった方が文明的・社会的生活を行うには不可欠です。
でも、「だから世の中こうなってるような」「私ら文明人にとってはそれでいいけど、ほかから見ればどうなの」などと私は思ってしまいます。
俗欲を徹底的にそぎ落とす!名言・名エピソード連発
ディオゲネスはネズミが寝床を求めることもなく、暗闇も恐れず、また美味なるものも欲しがりもしないのを見て、自分の境遇を処する術を見出した、といわれます。
「金銭への災いはあらゆる欲望の母」
こうしてどこにでも寝泊まりするようになり、しまいにはこわれた”大樽”とともに暮らすようになったと伝わります。
ある日、子どもが水を手ですくっているのを見て、
「私は子どもにも劣る」
として自分のコップを投げ捨てたとか。
今度は、また子どもがお皿を割ってしまい、替わりに平たいパンの真ん中にへこみをつけてスープをすすっているさまをみとめて、椀を投げ捨てた、
といわれます。
ある時は、かののちの”世界帝国の王”アレクサンドロス大王がそのうわさを聞き付け、彼のもとに足を運んでまいりました。
アレクサンドロスが
「汝の欲するものを何でもやろう」
と持ち掛けると、ディオゲネスは
「あなたがそこに立たれると影になる。ちょいとどいてくださいな」
とだけ答えたとか。
アレクサンドロスは
「もし、私がアレクサンドロスでないならば、ディオゲネスになりたかった」
と感想を漏らしたとか。
ディオゲネスの行状はどこまで本当かわかりませんが、ちょうどあのイソップと同じように
理知に富んだ多くの物語がこの人にはつきまといます。
ある人が身を清めているのを見て
「身を清めても、人生の誤りを清めることはできない」
と吐き捨てた。
とか、
「白昼ランプを照らして、”人間”を捜している」
とうそぶいて、あちこち歩いて回った、
とか、
「おーい人間よ」
と呼びかけると大勢の人が集まってきて、
「私が呼んだのは人間であってクズではない」
とか、
夢見でくよくよしている人を見て、
「目覚めている時の行いには少しも注意しないのに、眠っている時の幻について大騒ぎするのか」
オリンピックを見て、
「人々は競技だと目の色変えて競い合うが、立派な行いについて本気で競い合うものなどほとんどいない」
音楽家には
「琴の調律は合わせるのに、自分の魂は不調和のままだ」
天文学者には
「自分の足元を見ようとしない」
弁論家には
「正義は説くけど、少しも実行しようとしない」
川でキャベツを洗っているところを、
「俺はいい人に仕えているからそんなものを川で洗わなくても済むんだ」
と皮肉られると、
「気の毒なことだな。こっちでキャベツを洗ってみろよ。くだらないご機嫌取りをしなくて済むようになるぞ」
「お前はどこの人だ」
と問われると、
「太陽の下の人だ」
など、
その逸話には事欠きません。
奴隷となったディオゲネス?
やがて、ディオゲネスは船に乗り込んでアイギナ島に向かったところ運悪く海賊に襲われ、奴隷として売り飛ばされてしまいます。
ディオゲネスは問われました。
「お前は何ができるんだ」
ディオゲネスは答えます。
「人を支配することだ」
そして、ひときわ立派な身なりの男をみとめると、指をさし、
「あの男だ。あの男は主人を必要としている。あの男に売れ」
と言ったようです。
この男、コリントスのクセニアデス。
ディオゲネスはクセニアデスに、
「たとえ自分は奴隷として買われたのだとしても自分の指図には従ってもらわねばならぬ、それはちょうど医者や航海士が奴隷であってもその指図にはしたがわねばならないのと同様だ」
といきなりふっかけますが、クセニアデスもさるもので、
「当家に福の神がやってきた」
として、彼に息子たちの教育を任せ、家の切り盛りを任せてしまいます。
読み書き、算術、乗馬、レスリング、弓術、石投げ、槍投げ、あくまで”競技”ではなく、”強靭な心身を鍛え上げる”のを本分とし、詩句や散文を覚えさせ、たんに”知識”としてよりも”記憶にとどまる”ようにいたしました。
身の回りのことは自分で始末できるように。
粗食をいとわぬ質実剛健とさせて、家主の期待に応えていったようです。
やがて、ディオゲネスはその家も去り、かなりの老齢になったころ、犬に足をかまれたとか、タコの毒にあたったとか、で、ついにその命を落としてしまった、と言われます。
何がディオゲネスをここまで突き動かしたのでしょう。
ディオゲネスはある時
「お前若いころカネでずいぶんなことをやったらしいな」
と言われ、
「お前は俺にはなれない」