学校の初等教育で教わる島原の乱(島原・天草一揆))といえば、
◇幕府によるキリシタン弾圧による反発
◇当時の地元藩政府によるあまりに苛烈な統治によって地元民が一斉に蜂起した
◇一揆軍の大将は十六歳の青年天草四郎
◇一揆軍は思いのほかに善戦した
など。
どれも本当のことなのですが。
でも、より詳しく調べてみると、
「今まで教わってきたことは本当に表層的なことばかりだ」
「どうも現実はやっぱりもっと生々しそうだ」
と思えてきました。
ある予言
1614年、伴天連(※)追放令を受け、マカオに追放されることになった南蛮船教師ママコス、本名マルコス・フェラロが残した予言がこちらです。
(※)ばてれん。カトリック宣教師のこと。
「当年より五五の数をもって、二十五年に当たり、天下に若人一人出生すべし、その稚子、習わずして諸学を極め、天のしるし顕わるべき時なり、野山に白旗立て、諸人の頭に十字(くるす)を立て、東西に雲焼けることあるべし、野も山も、草も木も焼失すべきよし」
島原の乱に至るまで
島原
島原半島はもともとキリスト教の影響が色濃い土地柄です。
地元の大名有馬晴信は積極的にキリスト教を擁護。
しかし、その子直純の代になると一転してキリシタンへの迫害にかじを切ります。
直純は幼いころから駿府で徳川家康の側近として仕えておりました。
その影響はあるのでしょう。
彼はかなり苛烈な弾圧を行いましたが、島原ではなおも根強く信仰は残ります。
そして、そこに新たに入部してきたのが松倉重政です。
(出典wikipedia松倉重政)
松倉重政はもと大和五條の領主でした。
そのころは領内の商業を活性化し、名君としてかなりしたわれておりました。
重政は島原に入部してくると、その地勢に大いに着目したはずです。
島原は雲仙普賢岳があるように火山灰質で土地はあまり肥えておりません。
そのかわり、海、そしてキリシタンやバテレン、南蛮人などの人脈を生かし、南蛮貿易が栄えておりました。
しかし、時代は徳川の禁教へと次第にむかいます。
重政は当初この政策を見て見ぬふり。
領内のキリシタンやバテレンらを温存します。
彼らが大事な商圏を握っているのですから。
そうして表向きの石高(4万石)にしてはかなり立派な城を築き上げます。
島原城です。
(引用instagram)
こうしてしばらくは何とかこともなく藩政は推移していったのですが、突然重政はまったく違う方向へと変換いたします。
幕府の圧力が厳しくなってきたのでしょうか。
それまでかくまっていた伴天連を処刑し、領内のキリシタンへのかなり過酷な弾圧を始めるのです。
それでいて幕府には江戸城の改修を申し出るなどの「点数稼ぎ」にも余念がありません。
しかし、藩政はすでにたのみの「南蛮貿易」はかなり制限され(まだしばらくは密貿易を続けております)、財政に火の車です。
ただでさえ、大がかりな“箱もの(島原城)”まで造っているのに。
そこに来て重政は幕府に
「ルソン征伐」
をけしかけます。
ルソンはフィリピンの首都。
アジアカトリックの根拠地であり、スペインが統治しております。
これを国家事業にして、自分が先導役をつとめようというのです。
あたりまえですが、その分の膨大な軍艦や武器弾薬を用意しなければなりません。
重政はこれに前のめり、藩財政を壊滅的な状況へと追い込むのです。
あまりに危険な一発逆転の賭けでした。
が、その談合を長崎の奉行竹中采女のもとでおこなった直後、領内の小浜温泉で療養を行っている際、突如ぽっくりと亡くなります。
こうして残された藩政は嫡男の勝家に受け継がれますが、有効な手立てを打てぬまま、領民への過剰な取り立て、キリシタンへの弑逆的な拷問へと転化されてゆくのです。
天草
天草は肥前唐津藩寺沢家の飛び地となっております。
こちらも米作にはあまり向いていませんが、海がありますので、捕鯨などでまかなっておりました。
また、天草も島原と同じでまだ戦国の世からキリシタンの根付いた土壌があります。
寺沢家の場合は民情にわりと達し、政治にも明るかった初代藩主広高が亡くなったのは大きかったと思われます。
当時天草に代官として赴任していたのは三宅藤兵衛。
明智光秀の郎党の一人で細川家を頼って生き延びていた人です。
しかし、ガラシャ夫人(※)が亡くなった後、藤兵衛は当家を出奔。
(※)明智光秀の娘。細川忠興の夫。キリシタンを信仰し、最後は「関ケ原の戦い」の影響から大坂城下で自害して果てる。
寺沢家に見込まれやがて出世してゆきます。
寺沢家は実は明智ゆかりの人が多いのですね。
こちらも寺沢で家老まで出世した安田国継(※)がおりますし、広高の正室は明智氏とつながりの深い「妻木氏」からめとっております。
(※)元明智家臣
そして、余談ですが、この後熊本に入部し、乱に幕府方として出陣するのはあの細川家。
その当主細川忠利の母親はガラシャ夫人です。
さらに、乱後天草に入部し復興に着手するのが山崎家治。
「本能寺の変」光秀方に加担した近江の大名衆の一角山崎片家の子孫です。
意外な縁がこの乱をひとつの結び目として集まるのです。
さて、藤兵衛は寺沢の当主広高が亡くなり、子の堅高の代になると、ついに見せしめ的な「キリシタン弾圧」にふみきります。
藤兵衛自体、ガラシャ夫人を慕っていたのでしょう。
元キリシタンだったのですが、その後「転んで」しまっていたのですね。
寺沢でやっていくにはやはりそうすべきと踏んだのでしょうか。
何とも皮肉なものですが。
島原・天草における天災とさらなる苛政
そして、間もなく島原にも天草にもあまりに過酷な事態がおそうことになります。
それは“天災”です。
毎年のように立て続けに、洪水や干ばつ。
もはや領内は地獄絵図です。
しかし、藩政の過酷さはかわりません。
むしろ、特に島原ではえげつなさが加速していっております。
村の牛なんかも容赦なく税として引っ立ててゆきますからね。
どうやって耕せばいいんだ。
後先のことをちっとも考えてくれません(藩も自暴自棄になっていたようです。特に島原藩は。いつ破綻してもおかしくない状況だったので彼らも苦しかったでしょうが)。
その分反乱を恐れてでしょう。
庄屋の娘などを人質に取ります。
予言
そんな時、いつ知れず人づてから人づてへささやかれるようになったのが例の不思議な予言です。
「当年より五五の数をもって、二十五年に当たり、天下に若人一人出生すべし、その稚子、習わずして諸学を極め、天のしるし顕わるべき時なり、野山に白旗立て、諸人の頭に十字(くるす)を立て、東西に雲焼けることあるべし、野も山も、草も木も焼失すべきよし」
ちょうどそんなころ、このあたりには元武士だったけれど、いろんな戦乱のあおりを受けて“崩れて”しまった人たちがたくさんおりました。
このあたりは加藤家・小西家・有馬家、いろんなゆかりの人たちがいます
そういった人たちがいつ知れず「奇跡の少年」として祭り上げていたのが天草四郎です。
四郎は益田甚兵衛という元小西家臣の子です。
甚兵衛は関ケ原敗戦による小西家解体の跡、貿易商として売り出すのですが、四郎はそれについて長崎にもいたことがあるのですね。
そして、四郎はとても利発で、男前。
髪は少し赤かったようです。
不思議なもんです。
もう50や60や過ぎた老人の元武士たちが一人の白面の少年に群がって。
そして、あやしげな手品の興行などを四郎にさせたりもしたようです。
そうです。
彼らは島原や天草の人脈を地下から洗って、つなげてゆくのです。
彼らをなめたらいけません。
なにせ、加藤や小西や有馬などでバリバリにやっていた人たちです。
それぞれにすごい一芸があったりするのですよ。
剣や鉄砲は言わずもがなです。
(実はかなりの手練れがかなり参戦していた。島原の乱に加担した人々のスキルについての記事はこちら)
医術・戦術・スパイ……、そんな人たちが口々に煽り立てるのですよ。
神の子天草四郎を押し立て、
「当年より五五の数をもって、二十五年に当たり、天下に若人一人出生すべし、その稚子、習わずして諸学を極め、天のしるし顕わるべき時なり、野山に白旗立て、諸人の頭に十字(くるす)を立て、東西に雲焼けることあるべし、野も山も、草も木も焼失すべきよし」
そして、その日が来るのです。
島原の乱勃発
本当は“予定の日”は談合で取り決められておりました。
が、領民はもう待てませんでした。
どこからか。
それも島原のいろんな場所から話が残されております。
同時発生なのでしょうか。
藩のやりざまにあんまり腹を立てた人々。
そして、神の怒りを恐れる民たちは蜂起します。
ここで忘れてほしくないのは、学校では
「かわいそうなキリシタン」
という風に教えられます。
でもやはり、戦争はそんなに単純ではありません。
確かに、藩の圧政はあまりにひどいものです。
が、この時代、カトリックの他宗教への攻撃というものはものすごいものがありました。
強引に寺に押し入り、仏像やお経などを焼き捨てる、たまたま頭をそり上げていただけの旅人を「仏僧だ」と言って馬の上に縛り上げ、さらし者にして処刑したりしております。
キリシタンたちは武器を持ち、いまだ改宗せぬものらを攻撃します。
そして、そうでないものらも対抗します。
島原ではおもに藩側、非キリシタン側の北目と反藩側、キリシタン側の南目に分かれ壮絶な抗争は発展してゆきます。
一方天草では対岸が本当の予定より早まって決起したことを受け、いち早く呼応します。
天草の代官三宅藤兵衛は鎮圧に向かいますが、一揆勢の鉄砲集中砲火を浴びて壮絶な最期。
なおも勢いに乗じた一揆勢は本渡城に唐津藩勢を追い詰めますが、藩側はここで一揆勢をからくも撃退します。
一揆勢はいったん散り散りとなりました。
が、島原の一揆勢と合流すると、原城へとこもります。
ここで乱は新たな局面へと移ります。
原城籠城戦開始
幕府は九州での異変の方を受け、諸大名に出陣を要請します。
当事者である島原藩松倉家、唐津藩寺沢家、さらには佐賀藩鍋島家、熊本藩細川家がまず先兵として向かいます。
しかし、一揆方とてさるものです。
まるで連携の取れない諸藩連合の攻撃をあざわらうように軽くあしらい、甚大な被害を与えます。
そりゃそうですよ。
一揆方は百姓が多く混ざってますが、それを統制しているのは実戦を知る戦の元プロたちです。
時流の都合でそれぞれに長らく静かに暮らしていたけれど。
武器弾薬も豊富です。
どさくさまぎれに藩の武器庫などから大量に奪い取っておりますし。
この時の幕府方の総指揮官が板倉重昌。
徳川家光から大命を授かりながら、まるで抜くことのできぬふがいない戦いぶり。
にもかかわらず各藩は自分たちの都合で勝手な動きばかり。
正直、特に目立つのが「葉隠れ」で有名な佐賀藩です。
彼らはすぐに抜け駆けしてしまいます。
そして、ほかの藩が負けてはならじとつり出されるのです。
作戦はまったく台無しです。
重昌さん。
間もなく後方から“知恵出づ”こと松平伊豆守信綱が本軍を率いてせまっていると聞き、焦ってしまったのでしょう。
元旦に総攻撃をかけるのですね。
キリシタン側はあざ笑っておりますよ。
おれたちゃキリシタンにとっちゃ「クリスマス」は祝日でも「元旦」なんざなんの祝日でもない。何を勘違いしてるんだ?
重昌ら幕府方がこんな初歩的な勘違いをしていたかは怪しいですが、結果また佐賀藩が抜け駆けし、全軍グダグダとなり、たまりかねた重昌は突撃し、鉄砲の餌食となりました。
「あら玉の としの始に 散花の 名のみ残らば 先がけとしれ」
辞世の句です。
幕府軍・方針を改める
一揆方はほとんど無傷なのに、幕府の命じた天下の諸藩連合が大変な死傷者を出した大惨敗。
これでは沽券にかかわります。
そこで“知恵出づ”。
「こりゃ、力攻めは愚だな。相手は予想以上に統率がとれ、武器弾薬も豊富だ。なら……」
と、兵糧攻めに切り替えます。
相手はなにせ3万も4万もの大軍です。
放っておけばすぐ尽きるでしょう。
さらに、“知恵出づ”はこんな奇策を考えます。
長崎に出入りしているオランダの船。
プロテスタントのオランダとカトリックのスペインは仲が悪いですからね。
オランダにスペインの国旗をつけさせて、海から原城に砲撃させるのです。
城方にどんな心理的効果があるものか。
一方城方は、スペインの援軍を期待していた節があります。
ところが、この砲撃。
「スペインは味方のはずじゃなかったのか!?」
当然、中にはヨーロッパに行ってスペインだけでなくオランダも渡り歩いた人間までおりましたから、それぐらいの小細工はすぐに気づいたでしょう。
しかし、あまりに多くいる城内の人間たちがどう思うかは別です。
まだまだです。
“知恵出づ”を筆頭としてやってきた本軍にはいろんな大名がおります。
その中にはかつての島原領主有馬直純も。
直純は城内に元有馬家でありながら、その移封に付き従わなかった者が城内で指導的役割にあることを知り、内々に連絡を取り合います。
その男の名を山田右衛門作といいます。
武士をやめてからは南蛮絵師をしておりました。
一揆軍の軍旗を手掛け、城内で一躍出世をしておりました。
(引用instgram)山田右衛門作の描いた陣中旗です
右衛門作はもう城はダメだ、と踏んでいたようです。
幕府方との内応の約束に応じました。
しかし、これが一揆方にバレてしまいます。
一揆方は武器弾薬も糧食も次第に尽きてゆきます。
それでも降伏することはありません。
中には無理やりキリシタンにならされている者もおりましたので、脱走は日増しにひどくなってゆきました。
が、日々海から海藻などを採り、どうにか食いつなぎ、やがて最後の決戦となります。
城内・天草四郎法度成る
一揆方天草四郎は
「自分は桜の咲くころ方々の手にかかり朝露となって消えゆくだろう」
と語っていたようです。
そんな四郎は城内にある法度を作ります。
法度というよりは乱における志しを告白したようなものです。
そこにこんなことを書いております。
「城内のものは後生の友である」
キリスト教では死後みな神のもとで裁かれますが、ここにいる者たちは死後の世界で友だというのです。
(天草四郎についてくわしくはこちらの記事)
原城陥落
実のところ、幕府方もかなり切迫したようです。
というのもこちらは12~20万ともいわれる大軍です。
兵糧が……
こうして、“知恵出づ”は決戦の日を定めます。
「この日にかける」
という思いはあったかもしれません。
日取りは寛永15年旧暦の2月28日です。
幕軍総がかりの前にすでに火薬とぼしく、飢えた一揆軍はなすすべもありません。
またたく間に陣所を崩され、もはや波に侵される砂の楼閣と同じです。
老若男女関係なく切り捨てられ、またキリシタンでなければ降伏を願い出る者も多くおりました。
そんな壮絶な落城の後、四郎の母に一つの首が送り届けられました。
彼女はそれまで四郎の死をかたくなに信じようとはしませんでしたが、その首を見てなすすべもなく泣き崩れたといいます。
島原の乱後
その後、ほとんど無人の荒野となってしまった島原半島の南目には各地からの移民が召募され、復興が始まりました。
天草ではやがて鈴木重成が代官に就き、領地を硬軟織り交ぜ、ねんごろに立て直してゆきます。
最後は天草の経済的窮状から年貢減免を幕府に訴え、自刃いたします。
日本にキリスト教の信仰が戻ってくるのはそれから200年の後。
今、島原天草を含む一帯は“潜伏キリシタンに関連する”として「世界遺産」に認定されております。