北西九州に興り、日本を震撼(しんかん)させた島原の乱。
そのレジスタンス側のリーダーとして知られるのが天草四郎です。
島原の乱の時、わずか16才ごろ。
とても謎の多い人物ですが、彼に直接かかわる資料はわずかなりとも存在し、また彼を取り巻く環境もある程度まで判明しております。
当記事では、
1.四郎の家族
2.四郎と大変因縁深いとされる地
3.四郎の署名のなされた貴重な文書“四郎法度書”
4.四郎にまつわる伝説の数々
5.四郎が島原に籠城した時の生々しいエピソード
を紹介し、彼がどんな人物だったのか、その素顔に迫ってみます。
天草四郎の家族について
父・益田甚兵衛
益田甚兵衛好次(よしつぐ)は元小西行長の家臣です。
行長は豊臣秀吉子飼いの将の一人。
父親が薬売りだったことで知られております。
父子ともども熱心なキリシタンでした。
しかし、行長は関ケ原の戦いで敗北。
刑死し、小西家は取り潰し、益田甚兵衛も野に降ることになってしまいます。
その後、甚兵衛は商家として身を立てたようです。
やがては、大矢野の大庄屋渡辺家に長女の福(れじいな)を嫁に出しました。
甚兵衛はかつて小西行長に祐筆(※)として取り立てられたほどなので、なかなかの商才を発揮していたのかもしれません。
(※)武士の秘書役
「息子四郎は幼少期長崎で過ごした」という伝承も加味して勘案すると、九州にわりと手広い商圏を持っていた可能性もあります。
甚兵衛は「島原の乱」において、レジスタンス側の幕僚級(本丸大将)として重きをなしております。
そして、原城落城の日に死亡した、という伝承です。
渡辺小左衛門
四郎の姉福(れじいな)の夫です。
天草大矢野の大庄屋当主。
天草における乱の始まりは渡辺小左衛門が地元奉行所に「宣戦布告」を伝えてから、となっております。
その後ほどなく、小左衛門は乱における大任をもうひとつ任されることに。
それは宇土の江部にいる四郎の母や姉妹などの救出。
小左衛門は彼の妹婿瀬戸小兵衛らと連れ立って船で出立。
天草の対岸にある郡浦の庄屋の家に尋ねに入ると、そこでしこたまに接待され、気持ちよくなったところを全員しばり上げられてしまいました。
ばれた、というわけです。
そのまま、もろとも熊本藩の人質に。
これを受け、熊本藩側は天草のレジスタンス側に
「小左衛門と小兵衛はもともと天草の人間だからそちらに返す。そのかわり、益田甚兵衛と天草四郎はもともと熊本藩の人間だからこっちに返せ」
という交換条件を持ちかけました。
が、レジスタンス側は黙殺。
結果、小左衛門は乱終了後に処刑されることとなります。
瀬戸小兵衛
渡辺小左衛門の妹婿といわれます。
小左衛門とともにつかまり、熊本藩の人質となりました。
小兵衛は原城の戦いの折に、幕府側によって原城内に降伏をうながす使者として遣わされました。
しかし、原城内側はその申し出をことわります。
小兵衛もまた乱終了後、小左衛門ともども幕府側によって処刑されました。
母・まるた
まるたは洗礼名です。
まるたは娘の福(れじいな)や曼などとともに、宇土の江部にいたところを熊本藩に捕まり、人質とされました。
乱終結後、まるたは
「四郎は白鳥になり、遠い異国に飛び立った」
として息子四郎の死を信じようとしません。
しかし、幕府方によって首を見せられ、泣き崩れたといいます。
まるたも間もなく処刑されることとなりました。
姉・福(れじいな)
福は大矢野の大庄屋渡辺小左衛門の妻でもあります。
彼女もまた、乱終結後処刑されました。
妹・曼
彼女も乱終結後、処刑され、果てました。
天草四郎ゆかりの3つの土地
宇土市江部
宇土とはそもそも小西行長が肥後(今の熊本県)南部を治めていた頃の藩都です。
当然、行長に仕えていた頃の益田甚兵衛の家も当地に。
四郎の生誕地として有力です。
また、島原の乱勃発に当たっては、四郎の母や姉妹がここで熊本藩に捕らえられました。
長崎
天草四郎の幼少期については“長崎出身説”や“長崎遊学説”などがよく取り沙汰されますます。
そしてご存知の通り、当地は当時南蛮貿易における日本随一の拠点。
キリシタン文化もまだおおいに潜伏しております。
四郎も“当地ならでは”の商売、国際色、キリシタンの素養などとふれあっていたのでしょうかね。
キリシタンを裏で支えた町年寄の後藤宗印に活版印刷されたキリスト教の教義書『どちりなきりしたん』や『ひですの経』を読み解いてもらっていたのでしょうか。
後に転びバテレンとなるクリストヴァン・フェレイラとも知り合いだったかもしれませんね。
天草四郎の存在に妙にしっくりくる町です。
天草大矢野
天草四郎のルーツ益田氏はもともとここの土豪だったといわれます。
そして、四郎の姉婿渡辺小左衛門はここの庄屋。
「島原の乱」における四郎決起もここから。
なので当然、四郎の乱が起こる寸前までの住所の可能性はとても高く、一方で四郎の生誕地として有力視されております。
そもそも、天草は戦国のころから修練院が立つほどキリシタンにゆかり深い土地柄。
そして、唐津藩によるキリシタン弾圧は決してそう甘いものではなく、租税の取り立ても苛烈でした。
四郎はそういった民情をつぶさに肌で感じながら思春期の心を醸成させていったのかもしれません。
四郎法度書
天草四郎という人物を知る上で大きな手掛かりとなりうるのがこの書物です。
無論、この書物の完成に青年武者天草四郎がどこまでたずさわったかは未知数。
ですが、その発行者として四郎の名が捺されているという事実。
そしてその大事の内容は、
●キリスト教の教えを一生懸命守りましょう。
●原城内におけるそれぞれの働きをしっかりまっとうしましょう。
●中には裏切る人もいますので、身の回りにはよく気を付けましょう。
など。
法令というよりは、城内にいる者としての心得をかなりシンプルにまとめあげたもの。
そして、特筆されるのはこの一文句です。
『ここに居る者は皆後生の友』
つまり、「原城内にいる私たちはみんな死後の世界では“友達”だから助け合いましょう」
と書いております。
当時としては世界的にもめずらしい“平等思想”。
もちろん、キリスト教の“神の下の平等”が色濃く反映されてはいる結果なのですが。
もし、この書物に四郎の思惑が多分に働いているとしたら、四郎の人間性というものがだいぶはっきり浮かび上がってきます。
私的に(このころの)四郎に感じる性格は以下の通りです。
●かなり純粋で熱心なキリスト教徒
●当時の一般の若者にしてはわりと教養がある
●思想がやや抽象的・教条的。組織の長としての実務能力はまだとぼしいか……
天草四郎のエピソード
世間の知る天草四郎とは“チーム天草四郎”?
天草四郎と言えば、数々の奇跡を起こしたというエピソードがあります。
たとえば、
●海を歩いて渡った
●四郎の持っていた卵が割れ、中からハトが出てきて「ずいそ、ずいそ、ずいそ」と鳴いた
●盲目の少女の目に手を触れると、彼女の目が見えるようになった
普通に考えてトリックです。
そもそも天草四郎とは一青年益田四郎。
今のアイドルと形態としてはとても良く似ていると感じます。
つまり、天草四郎というブランドは一人では成り立っていません。
「四郎様は海を歩いたよ」
「少女の目が治ったよ」
と宣伝する人たち(広報部)。
ハトの手品の仕込みなどをする人たち(総務部)。
四郎の活動における経済面の工面をする人たち(出資者・営業部・会計部)。
そして、ブランディングの統括者(企画部・プロデューサー)。
など。
周囲にはそれを成し遂げていくだけの人材は十分そろっておりました。
(島原の乱に一揆方として参戦した“手練れたち”についての紹介はこちらの記事)
原城籠城戦における天草四郎について
また、原城内の天草四郎について知られていることもあります。
原籠城戦末期、本丸で碁をたしなんでいる最中の四郎の左袖を敵方の大砲の玉がかすめた、ということがありました。
この時、周りにいた少年親衛隊や女官に被害が出ました。
「四郎様は神に護られている」と信じていたレジスタンス側の人々には相当な精神的ショックとなったでしょう。
天草四郎について気になる謎
天草四郎はもともとの洗礼名が“じえろにも(聖ヒエロニムス)”でした。
しかし、「島原の乱」の時には“ふらんしすこ(アッシジのフランシスコ)”に変わっております。
一体、これは何を意味するのでしょう。