たまたま昨日以下の書籍と出会い、また日中戦争に直に従軍した私の亡き祖父の語っていたことを思いだし、指を動かすことにいたしました。
参考文献)
『私も戦争に行った』(著・山内久/岩波ジュニア新書)
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『私は「蟻の兵隊」だった~中国に残された日本兵~』(著・奥村和一、酒井誠/岩波ジュニア新書)
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単刀直入に申して、この戦争は「人間」そのものを表している、そう思いました。
まあ歴史の事象みんなそうなのですが。
敵とか味方とかそういうのじゃないんです。
いや、それもふくめて「人間」なんです。
しょせん、私は従軍したわけでもなんでもありません。
が、とかく気になってしまいました。
わが祖父従軍
うちの祖父は日中戦争のかなり初期から従軍しております。
別段、戦争に乗り気だったわけではありません。
「赤紙」が来たから、ただそれだけです。
よく力説していたのは
「一度来たらもうどこにも逃げ場はない」
ということです。
うちの祖父は中国での戦線のことをとても嫌っておりましたが、とても愛してもおりました。
おかしな話ですが、同じ血を受け継ぐ者として感じずにおれないのです。
そもそも、うちの祖父が私に戦争のことをよく語るようになったのは私が学生時代、中国を一人旅し、帰ってきてからです。
そもそもあのころ日本の一般では、生の中国のことなんてほとんど知られておりませんでしたし、戦争のこともかなり忘れられかけつつありました。
例えば、それまでの私の場合なら、原爆や空襲の体験談はたくさん聞かせていただきましたが、実際に向こうで戦った人の体験談を聞く機会にめぐりあうことはほぼありませんでした。
あの時の祖父は祖父なりに、久方ぶりに沸々と“思い返しこみあげるもの”があり、また、ほんの少しでも“通じ合える何か”を感じとったのでしょう。
ちなみに、この祖父は、2度も応召され、死にかけたこともたびたび。
そりゃ悲惨な目にはかなり遭っているようです。
そして、“それらの話”をまさにありありと悲惨気に語ります。
ただ一方で、わかるんですよ。
ああ、この人の青春だったんだな、て。
だって、うちの祖父が他の話であんなに“生き生き”と語っているのを見たことありませんから。
いいことだって悪いことだって全部、そして、いつも、ですよ。
そんな“貴重な青春”にあって、“現地”とあんな関係でいなければならなかったのはどんなものだったのか、とちょっと複雑な思いがします。
物資の窮乏
著作の山内さん、奥村さん、両氏も日中戦争に従軍なされております。
お二方はともに山西方面。
それに比べるとわが祖父は華中。
いわゆる長沙とか襄樊とかいわれるあの辺です。
山西に比べるとかなり物資の窮乏が著しいですね。
うちの祖父は言っておりました。
「補給のあったのは初めの方だけ。後は現地調達」
したり顔でこうも語っておりました。
「あっちのもんはようわかったもんや。向こうから先にもてなしに来おる。そうしたら荒らされんで済むからな」
私にとって中国の旅先で現地の人々に散々お世話になった直後のことです。
奥村さんの著作ですら日本軍による略奪・放火・強姦が生々しく書かれているのに、じゃあうちの祖父の部隊はどうなるんだ。
どうも華中・華南方面に従軍された方からはおおむね“そういった”話をよく耳にします。
無論、足りないのは食料や寝床だけではありません。
武器です。
うちの祖父が言うには、
「こっちが銃でポーンと撃つと、十倍から百倍になって返ってきおる。あっちは機関銃でダダダダダ…や」
いわゆる援蒋ルートが機能していたのでしょうか。
とかく
「勝てる道理があらへん」
祖父が太平洋戦争開戦を知った時には、
「大本営のやつらは現場のことを何も知りおらへん思た」
と語っておりました。
上官と初年兵
それに比べると、山内さん、奥村さんはかなり終盤戦から帯同したこともあってかなり“純粋に”参戦されていたようです(※)。
(※)性格の違いもあるでしょうが。うちの祖父は私と同じで、世の中を鼻から斜に見る傾向が強いです。要はひねくれものです。
しかし、そのせいで余計やり方に違和感を感じるようになられたようです(※)。
(※)うちの祖父も違和感は感じるのですが、例によって私と同じで“普通”とずれています。
印象的だったのは初年兵としての暮らしです。
とにかく殴られる。
よく聞く話なのですが、古兵のやり方が何とも陰惨なんですね。
そして、生々しいんです。
例えば、初年兵らのものをわざと隠し盗りするんです。
で、かねての用意通りに、
「あらゆるものはみんな天皇陛下からいただいたもの。それを無くすとは何たること」
となるんです。
そこで困り果てた初年兵らにそっと
「おい、これじゃないか」
と“見つけてやる”んです。
すると、みんな恩義を感じる。
「よそはもっとメチャクチャだぞ。うちの隊に来てよかったな」
と、吹きこんだりもします。
にしても、「上官は天皇陛下のようなもの」という統治システム。
ほかの歴史や現実を見ても思うのですが、こういった“シンプル”な組織というのはある意味ものすごい強さを発揮します。
戦後の日本って明治から敗戦までの精神史をそのまま追体験しているような気がしつつ。
戦争とは
山内さんの場合は「慣れていった」と書いてらっしゃいました。
そして、衝撃的を受けたのは古兵らの言う「肝試し」というネーミングです。
いわゆる“戦士としての総仕上げ”です。
捕虜の中国人をしばりつけ、後はご想像の通りです。
“刺突”というやつです。
山内さんは「この辺りから“違和感”を覚えるようになった」と書いてらっしゃいました。
奥田さんは「人間はこんなに簡単に死ぬことを知った」と。
一方で思い起こされるのは祖父の言葉です。
私が祖父の野蛮話に顰蹙していたところ、
「やらなこっちがやられる」
「ほんまの殺し合いや」
うちの祖父の性格
うちの祖父はどんな鬼悪党かと思われるかもしれませんが、国内なら一度でもいきなりよそ様の宅に上がり込んで飯炊きをさせるようなタイプではありません。
部下にハラスメントを好んでやるようなタイプでもありません(こちらは現地でもあまりやってなさそうです)。
そりゃ、聖人でないことも確かですが。
普通にしておけば人並み以上におとなしかったです。
周りから何もされなければ何もしない、そういうタイプ。
私の感慨を正直に吐露すると、
「うちの祖父ですらああなるんだから、そりゃあんなこともこんなこともリアルだろうな……」
よくよく考えてください。
長銃やら日本刀やらサーベルやら手榴弾やらもつ、いつも食う物もなくお腹を空かせ、しかも、今日明日の命をも知れぬ10~30才ぐらいの野郎どもが、ものすごい群れを成してそこにやってきて何をするか、ということです。
後程語る澄田らい四郎元中将ですら、「あの戦は序盤から補給が途絶え、士気はすこぶる低かった」という内容を手記に記しているのです。
そういえば、こちらも大事なことなので記しておきます(※)。
(※)うちの祖父は晩年、「あの戦争についての生体験を世間にさらしたい」という思いが少なからずあったように感じられます
南京大虐殺ですが、うちの祖父ははっきり言ってその入城時の一兵卒です。
が、祖父は開口一番声を大にして言っておりました。
「あんなもんうそっぱちや!」
祖父いわく、
「わしらが入る時、ちょっとは抵抗があるもんかと思ったけど、なんのことあらへん」
まともな抵抗らしい抵抗はなかったようです。
もちろん、そこはあくまで大軍の中の一兵卒の体験であり、軍全体のことまで把握なんて到底できるはずがありませんので、よろしくお願いいたします。
ただ一方で思ったのは「そりゃ、南京では噂ほどのことはやってないのかもしれないけれど」
結局、「南京大虐殺があった」という肯定派の意見も否定派の意見も、両方本当であり嘘と思うのですが。
奥村さんの終戦から捕虜となるまで
奥村さんは日中戦争の後、国共内戦や共産党による捕虜生活を長く経験されております。
“終戦”になっても、居留民の引き上げを守らねばならず、しかも“事情”により、山西軍傘下として居残り参戦せねばならなくなります。
(出典wikipedia閻錫山)
山西軍とは閻錫山という軍閥の長率いる国民党よりの独立勢力です。
もともと山西では山西軍は奥に引っ込み、日本軍と八路軍(共産党)がやりあうところの漁夫の利をねらう形となっておりました。
そこで日本軍が引き上げることとなり、「ならば」と手を打ったのですね。
(出典wikipedia澄田らい四郎)
一方の日本側も司令官澄田らい四郎中将は連合国側からA級戦犯に指名されている、という状況でした。
澄田氏は閻錫山の総顧問となり、太原では“かなりの生活”を送っていたようです。
実際、帰国後は国会で
「自分は作戦指導はしたが、指揮はいっぺんもおこなったことがない」
と証言しました。
そして、太原攻防戦(※)の2カ月前には帰国しております。
(※)1948年10月~1949年4月、残留日本軍を含む山西軍と中国共産党軍の戦い。中国共産党軍の勝利に終わる。
下っ端の“アリの兵隊”たちはなおもその“よくわからない他国の内戦”に“よくわからない都合で”その肉弾をもって参戦させられているのに。
ちなみに、澄田らい四郎氏は帰ることにした時の心情を、
「閻錫山の罠にはめられそうになった」
「危うきかな」
と手記には記しているようです。
奥村さんは晋中作戦(※)中、敵弾を受けます。
(※)太原攻防戦における作戦の一つ
負傷した奥村さんを背負って逃げてくれたのは山西軍の中国兵です。
しかし、途中で気の毒になり、中国兵に自分たちを置いて逃げさせます。
こうして奥村さんは中国共産党の捕虜となります。
中国での“教育”
奥村さんは野戦病院へ。
この時、顎をやられ、神経がむき出しになり、歯が全部失っていることに気づき、スイカ汁を飲むだけで大変な痛みをこらえた、と書かれております。
その後は農場や炭鉱、監獄などを転々とさせられます。
炭鉱では石炭をたんまり詰めたかごを背負いながら、45°以上の摩耗した傾斜を四つん這いになって上りました。
自分がそこで転ぶと後ろまでやられてしまいます。
こんな過酷な労働なのに食べ物は少しジャガイモの入った燕麦の蒸かしと漬物と塩汁だけ。
しかも、監獄はとてもここでは表現の出来ない壮絶な場所。
ノミがあまりに大量発生しており、「ノミに食い殺される」とすら思ったそうです。
また、奥村さんは収容側に対しては相当に反抗的で、よく“指導対象”としてマークをされた、とのことです。
1950年ストックホルムで発表された核廃絶の署名にも「臭村」と記しました。
ただ、こういった態度は同じ日本人捕虜の間でも軋轢を生じさせるのです。
奥村さんともう一人は反抗組だったのですが、残りの8人ほどは責めてきます。
奥村さんたちだって「逃げてるのはお前らだろ」となります。
そんなこんなで以後もいろいろありながら、奥村さんがようやく日本に帰国するのは1954年9月のことです。
帰国後の奥村さん
ようやく舞鶴港まで引き上げてきた奥村さん。
しかし、大変なのはそれで終わりではありません。
まずは新日本政府による彼らへの対応です。
あちらでの“上官からの説得”に応じて日本軍の残留にやむなく応じたのに「現地除隊」あつかいなんです。
あそこまで無理して命までかけあんなつらい思いをいっぱいしたというのに。
そこで、新政府は彼らをみんな里に帰らせます。
つまり、分断するのです。
しかも時代が時代です。
里に帰れば「中共(中国)帰り」としてマークされることになるのです。
故郷中条に帰った次の日から公安が家に上がり込んで
「中共での話が聞きたい」
と、こうです。
折詰なんかまで持ってきてせがみます。
奥村さんが洗濯屋に服を出した時のこと、奥村さんははあちらからの帰りにたくさんの毛沢東バッジをもらっており、それを服にしまったままで洗濯屋に出してしまいました。
そして洗濯屋に行くと「そんなものはありませんでした」ということになっております。
奥村さんは疑惑でいっぱいになりました。
もう中条では仕事もできそうにはありません。
なので東京に出て日雇いをやります。
しかし、ここでもうまくいきません。
中国での“教育”の影響で“がんばりすぎて”しまうんです。
すると、
「おまえにはやらせない。もっといいかげんにやれ」
となるのです。
この頃は本当に「この野郎」「この野郎」ということばかりだった、と記されております。
奥村さんは中国にいた時は社会主義は全体主義っぽくてついていけない、と思っておりました。
しかし、なんだか実際帰国してみると、日本はなんだかおかしいことになってるな、と感じたとのこと。
そして、あんなでも生かしてくれた中国のことを少しでも悪く言うやつは許さん、という風にすらなったといいます。
奥村さんは出征前早稲田二部商学部に通っておりました。
とにかく現状では手に職を就けられません。
ということで、奥村さんは“通いなおし”をすることにしました。
その後は業界新聞の中国貿易編集部などを経て、日中国交回復に際しておこなわれた「中国展」などに携わられるようになります。
また、政府による「現地除隊あつかい」に対しては長く厳しい裁判闘争をなされております。
最後に
山内さんは終戦間もなく帰国することが叶いました。
帰る際の敵も味方もない中国の普通の民衆の屈託のなさやパワーには圧倒された、というようなことを書かれておりました。
私も20年ほど前中国にたびたび訪れて、まことに恐れながら少しわかるような気がするのは、中国人のおおらかさ、ですね。
私も現地で相当救われました。
さにしても、この世の書物にもネットの情報にも完全な真実などというものはありません。
なので、誠に恐れ多いことですが、今回紹介させていただいた書籍に関しても、何から何まで真実である、とまでは断定はしきれておりません。
ただ、ならなぜ敢えて載せるか、というとそれを差っ引いても「書いた方がいいな」と思ったからです。
最近国家間などでもめることがよくあります。
しかし、あれを見てよく思うのはおたがいに「あれが正しい」「間違っている」「お前らのせいだ」というばかりで実際にそこで何が行われていたか、いまどうなっているのか、のリアルがだいぶごっそりと抜け落ちているような気がしてなりません。
ここで挙げた戦争でもAグループvsBグループの戦いで、ひとくくりにできるようなものでは到底ないことがより鮮明となってまいりました。
そうくくりたい人はくくりたいだけで、結局そこにあるのはどこまでも生々しい人間群像のようです。
島原の乱や戊辰戦争などを見てもやはりそう感じます。
なお、山内さんはこの著作で
「人間は戦争が好きな生き物なのだ。(p190)」
と断じていらっしゃいます。
一応記しておきますが、この方は私のようなひねくれとは違います。
「人間を信じたい」という痛切な思いを感じさせてくださる方です。