矛盾とは?作者韓非子が本当に伝えたかった意味についても紹介

思想・処世術
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「矛盾」ということわざはとても有名ですが、その真意まではあまり知られておりません

作者韓非子はいったい何を伝えたかったのか。

“中国のマキャベッリ”と呼ばれるほどの現実主義者の「組織論」について見ていきましょう。

 

さて、では「矛盾」について少しずつ掘り下げてみましょう

 

まずは、ごく基礎的なところから復習です。

 

「矛盾」のエピソード

あるところに、商売人が売り物の矛(ほこ)をかかげ、このように客を呼びこんでおりました。

「さあさあみなさん。ここにある矛は天下一。どこのどんな盾でもつらぬいてしまいますよ!」

商売人は次に売り物の盾(たて)をかかげ、このように客を呼びこみました。

「さあさあみなさん。ここにある盾は天下一。どこのどんな矛をもはじいてみせますよ!」

 

そこにある人間が通りかかりこう言いました。

「じゃあ、その矛でその盾を突くとどうなるんだい?」

 

商売人は何も答えることができませんでした。

 

「矛盾」の意味

このように「矛盾」というのは“つじつまの合わないこと”を言います。

 

たとえばあなたがたまたま仕事で一度遅刻をしたとします。

そこに普段よく遅刻をする上司があなたに、

「遅刻をするな!」

と怒ってきたとするとどうでしょう。

Aという理屈とまったく逆のBという理屈がごちゃ混ぜになってしまった状態のことを「矛盾」といいます。

 

「矛盾」を説いた韓非子について

さて次に、矛盾が伝えたかった真意です。

 

まず「矛盾」とはいったい、いつ、どこの、だれが、言いだしたか、というと冒頭でも述べた韓非子です。

彼が生きたのは中国戦国時代末期(紀元前3世紀。日本なら弥生時代の始まったころ)。

500年以上も続いた群雄割拠の時代もいよいよ終局へ。

生き残った戦国の七雄(斉・秦・趙・韓・魏・燕・楚)の中から秦が一強の体裁を強め、もう全国制覇の足音はすぐそこまで迫っております。

そんな中にあって韓非子は七雄中最弱と呼ばれた韓の国の公子として生を受けました。

 

当時の風潮は百家争鳴。

●仁(人への思いやり)や礼儀を説く“儒家”

●無為自然(自然の成すがままに任せる)を説く“道家”

●戦争でのかけひきを説く“兵家”

など、さまざまな学問が興り、諸国はこぞってそんな識者らを迎え入れ、この激しい生存競争を生き抜くべく切磋琢磨していたのです。

そんな諸子百家にあって、次第に台頭してきたのが

●法律による統治の大事さを説く“法家”

「ルール」「マニュアル」を徹底させて、個人を、組織を、国家を、合理的に強化しよう、という一学派です。

韓非子はこれに属します。

(韓非子は実はかなりのコンプレックスの持ち主でした。そんな彼が残した痛々しくもとても合理的な処世術マニュアルはこちら

 

韓非子が「矛盾」で説きたかった真意

“勢”と“賢”

韓非子は自身の書いた本「韓非子」でこのように説きます。

韓「政治に必要なことはなんだろう?ある人は言う」

〇「それは“勢”だ」

韓「つまり世の中の運命だと言う。だが、またある人は言う」

●「それは“賢”だ」

韓「つまり賢さだと言う。私の場合はこう思うのだが。

たしかに“勢”は大事だ。

しかし、“勢”だけで世の中がうまくいったなんて聞いたことがない。

そして、“賢”も確かに大事だ。

しかし、“賢”だけではその“賢”がなくなったらどうしようもない。」

 

韓非子はここであの例えを出します。

韓「“賢”は矛だ。

“勢”は盾だ。

“賢”は“勢”で止められるものではない(本当の賢さは権力などが弾圧しても消し去ることは不可能です)。

“勢”は“賢”で止められるものではない権力などはどんな賢さでも封じこめようとすることができます)。

つまり、この二つは絶対に並び立たない」

 

そこで韓非子は“勢”にも“賢”にもたよらない、新たな方法を提案します。

“法”

韓「むかし堯・舜という二人の賢い皇帝がいた。

むかし桀・紂という二人の暴君がいた。

しかし、考えてもみろ。世の中にこんな素晴らしい皇帝や暴君は滅多に現れない。

つまり、ほとんどの皇帝(上司と考えればわかりやすいです)はその間の“普通”だ。

じゃあ、どうすればいいか。

“普通”の人間でも世の中を治めていけるようなシステムを造ればいい。

なら“法(ルール)”だろ。

“法”に善悪を預けるんだ。

そのとおりに組織を運営すれば安定してよい組織を保っていられる。

堯・舜のような偉大なカリスマが出てくるまで何年・何十年と待っている必要はない。

桀・紂のような暴君が出てきてもある程度おさえこめる。」

 

日常生活への応用

ただ、韓非子のここで言いたかったことは、必ずしも「国家」や「組織」といった単位に収まるものではないでしょう。

 

個人においてなら、こう解釈はできないでしょうか。

「勢い」は、普段の仕事などでも意味は変わりません。

「賢」は、その人の能力です。

優れているのなら問題ないのでしょうが、そんな天稟に恵まれていない例えば私のような人物ではどうすればいいのでしょうか。

 

そこで、よくあるのが「マニュアル」。

たとえば、このアフィリエイトでも「定石」というのがいくつかありまして、凡人でもそれをしっかりマスターして、きっちり打っていけば、それなりの成果が出る、はずなのです……(あれ、私は?)

 

これは経営でも営業でもバイトでもスポーツでも芸術でもみんな同じだと思います。

 

「自信がないなら、しっかりと基礎を徹底しろ」

というごく当たり前の原則論であります。

 

より大きな法へ、組織へ

そうなのです。

もともとこの世の法(ルール)というものはもっと素朴なものでした。

家族→集落→国家。

さらにその国家がどんどん大きく複雑になってゆく、すると、それを統制する大きく複雑な法が必要になってくるのが自然です。

 

そもそも、この春秋戦国の5百年というのは中国史における大きな過渡期でした。

ただでさえ、時代が複雑になってゆくだけでなく、時代は戦乱、より合理的な統治が実現できなければたちまち淘汰されてゆきます。

そのため、鄭の公子産、秦の商鞅、韓の申不害、などと“法”を前面に出し、国家を強勢へと導くブレーンが続々と登場し、また、しっかりとした結果を残してゆきます。

公子産と鄭の国についての記事はこちら

 

法のその後

戦国末期において、法治による強大国としてよくしられるのが秦です。

商鞅の改革以来忽ち七雄の中でも群を抜く勢力にまで成長。

何せ、かなり徹底した信賞必罰が浸透しておりますから、臣・将・国民・兵士の必死さが他国とは違うのです。

 

秦は中華統一後、その方針を全国に大々的に発布。

ただそのやり方に性急が過ぎたのと、暴政ともいえるほど無茶な民力の酷使があいまって反乱が瞬く間に燎原の火のように燃え広がり、秦は滅亡。

ただその手法自体は漢がきっちり引き継ぎ、以後歴代の中国王朝もまたこれに習うようになります。

 

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