江戸時代キリシタン弾圧におけるあまりに過酷な拷問・刑罰の数々

歴史
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江戸時代のキリシタン弾圧。

いまだ前近代のその恐るべき拷問の数々がその残酷さを遺憾なくあらわした場と考えられます。

では、実際にどのような刑罰が行われたのか、見てまいりましょう。

 

キリシタン弾圧における残酷拷問・刑罰の数々

キリシタン大名の息子有馬晴純による苛刑

島原初代藩主有馬晴純の時代からすでにその刑罰は過酷でした。

有馬晴純といえばその父が敬虔なキリシタン大名有馬晴信として知られておりますが、直純本人若いころ駿府の徳川家康に出仕し、棄教します。

世はすでにキリシタンを国家の脅威とみなし、弾圧に大きく傾いております。

直純は元来信仰に濃密な伝統の本領において、大胆な弾圧を決行。

その時になされた刑罰、拷問が以下のようです。

・手足の指を切り落とす
・生きながら火あぶり

これでもなお、領内のキリシタン信仰はがんとして根強いものがあり続けました。

そして、有馬氏の転封によって後を襲った領主がだれあろう。

松倉重政です。

 

極東の吸血鬼父子松倉重政と勝家による苛刑

松倉重政ははじめからキリシタンに対して苛烈だったわけではございません。

むしろ、見て見ぬふり。

重政は藩の経済に貿易の重要性をかなり強く認識しておりましたから、暗に九州や”海外”との表裏において隠然たる力を持ったキリシタンやバテレンを邪険にするようなことは極力慎みました。

ところが、何があったのかは知りませんが(※)、その姿勢は突然豹変します。

(※)幕府による圧でしょう

泳がしていた伴天連ナバルロをにわかに逮捕し、火にくべてしまいます。

これを皮切りに藩内のキリシタン取り締まりは一気に本格化。

そんな過程で、新たに考案された拷問刑罰が“地獄責め”です。

 

島原藩は領内に活火山雲仙がありますから、あちこちに煮えたぎる鉄泉が湧き出ております。

キリシタンらにその灼熱湯をかぶせ、あるいはしずめてしまおうというのです。

 

さらに、“竹鋸切り”

道端にしばりつけ、その首に切り口を入れて、道行く人々に竹鋸で少しづつ引かせようというのです。

また、”炙り籠”といって、火であぶって衣を乾かすための籠の上で”強めに”あぶりだします。

 

重政の息子勝家の代には“蓑踊り(みのおどり)”。

背中に蓑を背負わせ、そこに火をつけると、人は踊り狂うようです。

 

さらに、“水牢”

妊婦を竹などで編んだ籠に閉じ込めたまま、寒中水につけさらしにし、母子ともども亡くなってしまい、これがこの村における「島原の乱」の完全なる発火点ともなったと伝わっております。

 

天草では

島原に比べればマシですが、こちらも正直きついです。

竹などで編んだ大きな籠の中に、たくさんの人々をぎゅうぎゅう詰めに入れたまま。

みんな座ることができず、糞尿も垂れ流しです。

 

また、こういった苛烈な刑罰は島原・天草だけではございません。

 

江戸では

江戸では品川沖に受刑者を逆さづりにしばりつけ、潮が満ちれば頭のあたりまでつかるように。

 

かかる刑罰の果ては、その顔の原型をとどめていないようです。

そばでは小舟を浮かべてすぐには死なないように監視し、続けること8日間。

その人はついに息絶えた、とされます。

 

長崎では

開港地であり、幕府の重要な天領でもある「長崎」には過酷な話をいくらも聞きます。

まず、“駿河問い”

駿河町奉行彦坂光正によって考案された刑罰です。

 

人を後ろ手にくくり上からつるして、さらに背中には大石を載せ、海老ぞりにします。

 

その真下には大樽いっぱいの水を張り、後ろ手の縄をきりきりとまわし、そのしぼりきったのを一気に放します。

すると、遠心力で体が……。

体中から脂(あぶら)がしぼり出され、口や鼻からは泡や血が吐き出され、壮絶な地獄絵図だったようです。

そして、もう一つ、“穴吊り”。

こちらを発案したのは長崎奉行となった今村伝四郎と曽我又左衛門(※)。

(※)この時の長崎奉行は2人制です

人を逆さづりに縛り、真下には穴を掘って中には汚物など。

すぐには死なぬように耳たぶやこめかみに穴をあけ、ただ問い続けるのです。

 

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