江戸時代初期、一気に苛烈化するキリシタン弾圧にあって果敢に立ち向かい、最後まで不屈を貫いた人々がおります。
今の時代、ともすれば十把一絡げにされてしまう彼らですが、やはり、それぞれが“一人の人”。
この記事ではそんな中から特に有名とされる人たちをピックアップしました。
個性も様々、立場も様々、想いも様々。
そして、彼らを見ていると、やはりどことなく「島原の乱」への流れが読み取れる感慨がします。
江戸初期キリシタン弾圧に果敢に戦った人々紹介
南蛮人宣教師ママコス
1613年徳川幕府は全国にキリスト教禁教令を発布しました。
これにともない、長崎から追放されることになったのが南蛮人宣教師ママコス、本名マルコス・フェラロです。
彼が歴史でスポットライトを浴びるのはその予言です。
「当年より五五の数をもって、二十五年に当たり、天下に若人一人出生すべし、その稚子、習わずして諸学を極め、天のしるし顕わるべき時なり、野山に白旗立て、諸人の頭に十字(くるす)を立て、東西に雲焼けることあるべし、野も山も、草も木も焼失すべきよし」
なんとおそるべきことにちょうどこの時より25年後の1638年「島原の乱」が勃発します。
イタリア人宣教師ナバルロ
本名ピエトロ・パウロ・ナバルロ。
彼は天正(1573~93年)のころからずっと日本に居続けております。
彼が島原藩に“入った”のが1621年。
藩主松倉重政による藩内禁教策はまだだいぶ緩かったですが、少し厳しくなり始めておりました。
ナバルロは海路で加津佐に入り、小浜、八羅尾から原城方面へと新たな布教とすでに信者たちを引き締めに旅します。
しかし、運悪く夜に行き交った藩士にバレてしまい、そのまま身柄を島原へと送られました。
藩主松倉重政はナバルロとじかに話に応じます。
すると、重政はナバルロの説法にいたく興味を魅かれた様子です。
重政はナバルロに、
「なぜ神はだれでも助けようとしないのか。正しい者と悪い者を天国(ぱらいぞ)と煉獄(いんへるの)に分けようとするのだ」
と問いました。
ナバルロはこれに、
「じゃあ、殿は政治でどうなさいます」
と聞き返され、重政は
「まったく先生のおっしゃる通りだ」
と感心しました。
こうしてナバルロは無罪放免。
そもそも重政は領内のキリシタン弾圧にあまり乗り気でありませんでした。
というのも島原藩の経済は大きくキリシタンやバテレンたちが牛耳る“貿易”によって成り立っていたからです。
彼らを無為に刺激するのはリスクがありました。
しかし、重政は幕府に「キリシタン弾圧をもっとまじめにやれ」とせまられ、やり方を百八十度転換します。
その最初の餌食(えじき)となったのがナバルロ神父でした。
1625年ナバルロは突然島原藩内で捕まり、ただちに火あぶりに処されてしまいます。
後藤宗印
貿易都市長崎の町年寄、つまり長崎の町人の代表格の一人であり、長崎政府との橋渡し役を務めていた人物です。
もともとはブルネイやシャム(タイ)など手広く朱印船貿易を商っておりました。
一方で後藤宗印はキリシタン活動にもとっても旺盛(おうせい)。
『どちりなきりしたん』や『ひですの経』といったいわゆる日本人向けの教義書をヨーロッパから入ってきた活版印刷で出版し、広めて回ったりしておりました。
ただ、幕府からの圧力は強まります。
後藤宗印はこれに抗議し、長崎市民の権利を投げ捨てました。
後藤宗印の身柄は江戸へと送られます。
宗印は何らかの理由で間もなく死亡。
長崎奉行所からは宗印の「転宗」が市民に知らされ、宗印の遺体は長崎の禅寺「晧台寺」に葬られることとなりました。
ミカエル中島
1628年、島原藩の弾圧によって「地獄責め(雲仙地獄の熱湯を体にかける、さらには身体ごと沈める、という刑罰)」で殉教しました。
彼の死の間際の予言が後にとても重要なキーフレーズとなってきます。
「凡夫未来を知らず。只我を罪に行う。近くは十二年遠くは二十年の後、天野四郎と申す者生ずべし。その時に日本国人間は言うに及ばず鳥獣草木まで残らずおのずからこの宗旨に成るべし。これさんたまりやの生まれ変わりなり。その時こそ思い知るだろう」
(江戸時代、キリシタンへの過酷な拷問・刑罰の数々についてはこちら)
中浦ジュリアン
天正遣欧使節の4人の少年の一人です。
はるかヨーロッパまで渡り、ローマ教皇とも謁見しました。
帰国後重要なことは、中浦ジュリアンは島原口之津を拠点に宣教師を続けております。
小倉で捕まり、長崎で刑死。
最期の言葉は
「私はヨーロッパにおもむいた中浦ジュリアン神父です」
永原ケイアン
滋賀県野洲市永原出身。
永原ケイアンは豊臣秀吉による禁制下、天草にあるイエズス会修練院に学びます。
この時、同窓として知り合ったのがヨーロッパから帰ってきていた中原ジュリアン。
しかし、その後徳川時代となり、政府からキリシタンへの圧力はますます高まります。
こうして、ケイアンはほかのキリシタンやバテレンらとともにマカオに追放。
マカオでは日本人はかなり厄介者あつかいされます。
ある屋敷にみんな押し込められ、敷地からいっさい外に出ることが許されません。
地元南蛮人管区長らによる指導もかなりいいかげん。
日本人の多くの仲間たちがすっかりおかしくなってしまいます。
ケイアンはこの苦しみを8年耐え、ひそかに日本に戻ってきました。
そして、島原口之津に入り、かつての同窓中浦ジュリアンとともに布教に努めます。
しかし、ケイアンもやがて捕まり長崎に送られ、刑場の露と消えます。
刑吏に
「心残りはあるか」
と問われ、
「将軍様を神の教えに導けなかったことです」
答えたのが彼の最後の言葉です。
金鍔次兵衛(きんつばじひょうえ)
神出鬼没の金鍔次兵衛。
彼の生まれは大村です。
キリシタン武士の子に生まれ、
やがて、幕府の禁教にあってマカオに追放されました。
永原ケイアンはその時の同僚です。
次兵衛はいったん日本に帰国しますが、今度はフィリピンに渡航。
1627年という日本でキリシタン弾圧がかなり徹底されていた時期に日本に再帰国します。
次兵衛は何と大胆にも長崎奉行所の馬丁になります。
この時、次兵衛が金の鍔した刀を脇にさしていたのが“金鍔”の由来です。
大胆ですね。
そうしながら水面下で布教やキリシタン・ネットワークのつなぎ止めに尽力しておりました。
しかし、奉行所にバレてしまいます。
すると、次兵衛はどこへとも姿をくらまします。
次兵衛は山の洞窟へと潜伏しておりました。
これを知った長崎奉行は佐賀藩・大村藩・唐津藩と共同でかなり多くの人員を使い、「完全囲い込み作戦」をおこないます。
が、それでも捕まりません。
次兵衛はいったいどこに消えたのやら。
なんとその後、ウソか誠か、次兵衛は江戸で徳川家光の小姓たちにキリスト教を広めていたとすら言われます。
次兵衛はやがて捕まり、殉教します。
彼が亡くなるころ、島原ではあの兵乱の真最中となっておりました。