韓非子。
中国の戦国時代を代表する諸子百家の一人です。
あの「矛盾」の話を説いた人として有名です。
性情は徹底的に合理主義。
ところが、その奥底にうかがえるのは彼の逃れがたいコンプレックスでした。
非リア充男子の必死の生きざまと、ちょっと皮肉な末路とは……?
韓非子の人となり
韓非子は戦国七雄のどこの人だったのかはその名前にちゃんと書いております。
そうです。
「韓」の国です。
『キングダム』ファンにはおなじみの通り、大国秦のおとなりにあるいつ滅ぼされてもおかしくない小国です。
実は、韓非子には吃音癖がありました。
あまり世間馴れしなかったのでしょう。
“人間性悪説”の荀子の弟子となり、その重度の人間不信は独特な昇華をみせます。
(荀子に関する記事はこちら)
人と付き合うなら、徹底的に合理的に。
人を裁くにも、徹底的に合理的に。
そもそも韓非子が生きたのは戦国末期の乱世。
おあつらえ向きの時代のはずではありました。
が、韓非子の言うところを当の韓の王様はちっともまともに受け取ってはくれません(※)。
(※)このころ、韓で宰相を務めていたのは張平。漢の高祖となる劉邦の参謀“張良”の父です。張良がイケメンだったので、張平もそんな感じだったかもしれません。また、張良は法家とちがって“無為自然”の道家信者でも有名。韓非子とはどこか対照的で興味深いです。また、当時の韓の国風も彷彿とされます。
韓非子なりに「くっそ!」と思ったのでしょう。
自身、口で説明するのがどうしても苦手なので、文章に磨きをかけ、ついにはみずからの思想を一つの大作にまとめ上げます。
後世に『韓非子』と呼びならわされるものです。
すると、それを人知れず読み、大絶賛する超大物外国人が現れました。
誰あろう秦王嬴政。
後の始皇帝です。
さて、そんな始皇帝すら絶賛したという韓非子の思想、というかボヤキ?を見てやってください。
韓非子流「極・処世術」です。
(※↓文意は“原典のまんま”を心がけております)
韓非子流処世術
●説得の難しさは自分の知識不足で相手を説得できないことではない
●しゃべりが下手だから思うように相手に伝えられない、ということでもない
●気おくれがして、思う存分に説明できない、ということでもない
☆相手が何を望んでいるかをくみとってやることだ
●相手が名声を欲しがっているのなら利益で釣るような話はするな
☆ザコだと思われる
●相手が利益を欲しがっているのなら名声で釣るような話はするな
☆おつむが足りないんじゃないの、と思われる
●おしゃべりでだれかの秘密を漏らしてはならない
●クライアントに誤りがあるなら暴き立てるんじゃない
●「自説が正しい」と自己満足して「お前まちがってるじゃん」みたいに追い込むな
●ましてそのへ理屈が正しければ正しいほど気を付けろ
☆その身が危うくなるぞ
☆自分の理屈通りになっても大事にはされない
☆クライアントが勝手に“そのままスルー”したにもかかわらず、やっぱり結果が悪かったりしても、「こいつ、妬んで俺の邪魔しやがったな」と思われる
☆見ざる、言わざる、聞かざる、だ
●クライアントの嫌がることは無理やりさせるな
●クライアントのやめられないことを無理にやめさせようとするな
☆何度でも言う。その身が危ないぞ。
●よくできたヤツのことを噂話に誉めれば、暗に文句を言っていると思われる
●出来の悪いヤツのことを噂話にけなせば、自分を売り込んでいると思われる
●クライアントのお気に入り人間を誉めれば、媚びて取り入ろうとしていると思われる
●クライアントの嫌いな人間について語れば、自分の嫌い具合に探りを入れていると思われる
●あんまりシンプルに説明すると、言葉足らずのおバカだと思われる
●あんまり事細かく詰め込んで話すと、わかりづらいと思われる
●慎ましくしゃべれば、臆病者で、本気でしゃべらないヤツだと思われる
●広い視野に立ってしゃべれば、田舎上がり世間知らずの生意気なヤツだと思われる
☆よくよくおさえておけ。これが相手説得の難しさの要点だ。
☆そして、相手のプライドポイントを褒め上げ、コンプレックス地雷には絶対に触れるな
●相手がうまくいっていると思っている時には、余計な水を差してやるな
●相手と同じミスをしているヤツの話があったら「特に問題ないことです」とサラッと受け入れてやれ
☆そして、これでだんだん相手が自分のことを信用するようになったら、お前のやりたいところはガバガバスルーだ
☆いいか。これが説得というものの極意だ!
なぜ、韓非子が「中国のマキャベッリ(※)」と呼ばれるか分かったでしょうか。
(※)ルネッサンス期イタリア・フィレンツェにおける名政略家。代表著作は『君主論』。
いや、マキャベッリより“あざとい”ように感じます。
韓非子はこの後も歴史の事情までいっぱいひも解き、
「あんだけ正しいことを言っているヤツが、こんなにもひっでえ目にあって、まったくおんなじことをしてるヤツでも、うまく取り入れただけですんげえおいしい目にあっている」
☆わかるよな
と熱弁しております。
大いに納得できる面はありますが、彼の文章を読んでいるとどこか痛々しいです。
「歴史は勝者が語るものであり、文学は敗者が語るもの」という格言がありますが、これはその意味で“文学的要素”をかなり濃密に漂わせております(※)。
(※)はっきり言って私は、ちょっとやそっとの小説より、こっちの方が好きです。
しかも、“彼のかわいそう”はこれで終わりではありませんでした。
韓非子の最期
そのころ、おとなりのジャイアン大国秦では、
「韓って雑魚だから何とかやり過ごしてやっていたけれど、もうめんどっちくねえ。表向きだけ平身低頭する癖に、する裏切るし。こざかしすぎるんだよ。いっそ完全に併合しちまえば」
というすこぶる物騒な理論が沸き起こります。
で、なんとかそれをなだめるよう、秦への使者の大任に抜擢されたのが韓非子。
にしても、ふだん韓って韓非子を散々ないがしろにしてきていたのに。
さすがは戦国最強国秦が苦虫をつぶすほどのしたたかさは健在、まさに“融通無碍”。
一方、韓非子とすれば、ついにやってきた一世一代の晴れ舞台。
その肩に祖国の命運がかかっております。
一方秦では。
王嬴政が
「あの韓非先生がいらっしゃるのか!うちに欲しい……」
が。
当時、秦には李斯という宰相がおりました。
法家のスキルで秦を盛り立てた人です。
この李斯、実は韓非子とは兄弟弟子の関係でした。
李斯はもともとよその国の小役人でしたが、ネズミが便所で我が物顔にふるまう姿を見て、
「あ、人間は居場所だな。自分にあった場所さえ見つかれば、思う存分に生きることができる」
と悟り、秦に仕官してまたたく間に大出世した男です。
李斯はそもそもわかっておりました。
「こいつ(韓非子)有能すぎる。しかも俺とスキルがかぶりまくりだ。こいつが秦の国で頑張りだしたら俺の居場所はねえな」
そして、李斯は秦王嬴政に何か讒言したといわれます。
韓非子は韓の王族であることに変わらず、しかも、あの有能。
李斯の人物と来歴からして、まあ何でも吹き込みたいように吹き込めるでしょう。
しかも、受け取り手が性豺狼の嬴政ですからね。
(嬴政の幼少期についての私作小説片はこちらから)
こうして、嬴政は「……よきに計らえ」とばかりに韓非子を牢にぶち込ませ、韓非子はそこで毒を飲んで果てた、と言われます。
韓非子、あんな病的なまでに人間関係に気を配っていたのに……
ただ、彼が亡くなってから2000年以上、その思想は歴史の中で強く生きづいております。
追伸
この時代の中国では、似たようなタイプの現実主義的英傑が哀れな末路を遂げる場合が多いように思われます。
李斯・始皇帝・呉起(※1)・商鞅(※2)……
(※1)戦国期の名軍略家・政治家。しかし、彼の行った改革への恨みから、最後は同僚らによって殺害される。
(※2)秦に徹底した法治主義を持ち込み、忽ち強大国化させた名宰相。しかし、やはり改革の性急から募った人々の恨みによって殺された。
で、最後は、愚者とあなどられ一見博愛的ながらも、実はとことん現実的で人間不信の劉邦(※)に持っていかれるところが何とも時代の彩です。
(※)漢の創始者。創業まではへりくだって、抜群の人気を博し天下を取るが、その後は功労の元勲たちを次々追い落としていった。
(韓非子が残した名言『矛盾』の真意が知りたいならこちら)
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