中国史上最大の名君?清の康熙帝とは?

歴史
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中国の歴代皇帝で名君と言えばだれの名を思い浮かべますか。

前漢の徳政で名高い文帝。

あるいは漢朝復興を成し遂げた仁愛の光武帝。

やはり、唐に華やかな一時代を築き上げた太宗。

あるいは、革新政治で中華の基盤を成した秦の始皇帝。

たくさん名が挙げられますが、彼を外すわけにはいかないでしょう。

清の康熙帝(こうきてい)です。

世界史でよく習わされる清の名君3傑(※)の中でも実質では群を抜いている感です。

(※)康熙帝・雍正帝・乾隆帝

今回は康熙帝の事績を事細かく記したフランス人宣教師ブーヴェの『康熙帝伝』からうかがい知れる「へぇ、康熙帝とは、こんな人だったんだ」を紹介してゆきます。

 

できる人って本当にすごいな……。

そして、名君って正直、大変そうだな……。

 

康熙帝のなみはずれた名君ぶりを示す9つのエピソード

(出典wikipedia康熙帝)

①ルイ14世と比べられる

(出典wikipediaルイ14世)

ちょうどこのころフランスでは“太陽王”ルイ14世が統治しておりました。

『康熙帝伝』の作者ブーヴェはまずのっけに、「康熙帝は彼と性質が似ている」と評価しております。

確かに両者ともに歴史に名を刻んだ国の最高統治者であることに変わりはありません。

でも、「明らかに康熙帝の方が上」のような気がするのは私だけでしょうか。

②鮮烈なクーデター

1654年順治帝の3男として生まれながら、疱瘡にかかって城外に出され、ごく質素に厳格に育てあげられました。

1661年即位。

ですが、やがてオボイという元勲のもとに権限が集中してゆきます。

増長に増長を重ねるオボイ。

ついには、朝駕に皇帝にしか許されないはずの黄色い服をさも当然に着て参るほど。

(出典wikipediaオボイ)

これに対し、思春期に達した康熙帝はすっかり嫌気がさしたのか、モンゴル相撲にばかり打ち興じるように。

ある日、オボイはそんな“ダメダメ皇帝”を「ちょっと見てまいる」と押しかけてみると、康熙帝の玉座の裏には力士らが待機。

いきなり出てきてオボイをすっかり捕らえ、そのまま裁判にかけてしまいました。

“いい大人の元勲”が“まだひよっこ皇帝”によってまんまとおどらされてしまった、ということになります。

③一般人が康熙帝に直訴できる

康熙帝の行幸先で待ち構え、ひざまずいて直訴状を差し出します。

その時の康熙帝の人の見極め方に味があります。

恭しく待ち構えておればOK。

突然割って入ってきたりするとNG

なぜかと言うと、憤怒や憎悪にかられてでは理論に欠けている場合が多いから。

おそらく、そうすることによって、人々にこの習慣を倣わせ、皇帝の権威を保つ狙いもあるでしょう。

ちなみに、

「実際このやり方で、良からぬことが康熙帝にバレ、罰せられた役人を何人か知っている」

とブーヴェは記しております。

また、康熙帝はたびたび巡幸を行い、一般庶民と気さくに触れ合いました。

やはりそこで上役人の評判を聞き、いい者は引き立て、よくない者は失脚させました。

役人も「民に善政をほどこそう」という気になるというものです。

④三藩の乱

(出典wikipedia呉三桂)

三藩の乱

つまり、清の中華入りに功績のあった漢人武将呉三桂ら3名が中華大陸南方にある雲南、福建、広東に藩領を持っておりました。

しかし、清はその半独立の隠然たる勢力を警戒し、康熙帝は3藩の解散を命じます。

呉三桂はこれを不服として反乱。

この乱に呼応して、首都北京では漢人による反乱の企てが水面下で進んでおりましたが、康熙帝はたくみに収束させました。

しかし、次に残りの2藩が、さらに一部のモンゴル勢力までが蜂起。

康熙帝は迅速にまず北方にあるモンゴルを討ち平らげると、残る3藩も次第に圧迫され、乱は収束。

この抗争中、康熙帝は連日連夜の会議に臨み、命令を発し続けました。

⑤被災支援

大不作の折には租税を免除するだけでなく、たくさんの米や多額のお金を援助しました。

また、朝廷の建物の新築の仕事を被災者たちにあてがいました。

こういう時は離宮への行幸も自粛しました。

一歩も外出しないこともありました。

⑥質素倹約

 

食事が庶民レベル。

さらに、量も少ないです。

着るものもやっぱり質素です。

明代1日で使う分を1年間の宮廷費用としたといいます。

国家の無駄を徹底的に排除し、財政は大変に潤いました。

でも、ちゃんと使うところには使います。

公共の福祉などには惜しみなく。

⑦とってもインテリ

康熙帝は孔子の著書を大半暗記しています。

また、中国におけるほかの聖なる書物もやはり大半暗記しています。

歴史も周りが引用できないほど暗記しています。

歴史学者の誤りにも気づいてしまいます。

漢詩も弁舌も達者です。

康熙帝は西洋の学問にも興味津々です。

天文学・音楽・数学・幾何学・哲学・解剖学・薬学・神学……。

行幸先に測量器具を持って行って実際に山の高さなどを測ってみたりしています。

数学や天文の機器も催促。

かなりの学術好きだったようです。

⑧武備にも怠りなく

(出典wikipedia狩りをする康熙帝)

そもそも清王室は満州族

「騎馬民族の質実剛健を忘れてはいけない」

と、康熙帝は自身、狩りには熱心です。

もちろん最新軍事にもぬかりなく、西洋式の大砲や小砲、爆弾などを積極的に取り入れます。

⑨理性で行動

康熙帝の人がらはこの書で見るかぎりかなり温厚、自制心に富んでおります。

そんな康熙帝の人に裁決する時のひとつのテクニックがこれ。

裁決を先伸ばす

ものによったらその時、即決のものも必要でしょうが。

ただ、大事なこと、特に人当たりのもの、というのはうっかりすると取り返しがつきません。

康熙帝はじっくり時をかけて吟味。

できるだけ事実と決定を近づけるようにしています。

また、康熙帝はこんなことにも細心の気を配っております。

色に惑わされない

閨房は歴代王朝の悩みのため。

しかし、康熙帝は情欲についてもとても理性的なので、変に「美姫を献じられ」でもしたら、その者らをにらみ返すぐらいです。

康熙帝の失敗と怖さ

なんだか何をやっても完璧のようですが、やはり人間です。

ここに康熙帝政治でちょっと気になる事項を紹介します。

やむにやまれぬ不公平による苦い結末

康熙帝は

「軍人や役人の膨大な借金を国費でまかなってあげる」

という裁決をしたことがありました。

すると当然、不公平が生じます。

普段借金をしない軍人たちは怒り、なんと康熙帝を取り囲むほどの物騒にまで発展。

これに対し、康熙帝は首謀者1名を処刑、7名に百回の鞭打ちと3年間の首枷(くびかせ)を命じました。

文字の獄

清や満州族に対して反抗的な文章を検閲・処罰しました。

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