
今の中国には55の少数民族が暮らしている、と言われます。
割合とすれば合わせて全中国人口の8パーセントほど。
で、例のごとく、このお隣の大国の内情というものはあまりつぶさにまで私たちに伝わってきません。
マスコミさんもその辺りはよくよくわかっているはずなんですが……
逆に、アメリカでは最近になって急に妙なほどに騒がれるようになったとか。
……
私は20年ほど前に3度中国を訪れたことがありまして、その節にはいろいろな各地を巡ることができました。
まあ、はっきり言って純粋無欠の旅游、のはずだったのですが、やはりそれでも現地の生々しいものはいろいろと伝わってくるようです。
わざわざこうした性格のサイトを運営しているのですから、この際その体験談と考察をとても粗雑ながら、簡単にまとめさせていただきます。
こちらです。
中国における3つの地域の少数民族問題について。私の体験談と考察。
西北、特にウイグル人

96年真夏のことでした。
私は当時敦煌までは行きました。
で、そのまま何事もなく日本に帰還したのですが。
ただ、私は上海から柳園(敦煌の最寄り駅)までの列車内である日本の方と偶然知り合いまして、彼がそのままさらに奥、つまり新疆ウイグル自治区の各地にまで足を延ばしたのです。
で、私は帰国後に彼と出会う機会がありまして、おたがいにあのころの旅談をいくつか交えもしました。
で、その時に彼の口の端からついて出てきたのは、
「(現地に入る)直前に暴動があったみたいで、行く先々の街のはずれでウイグル人などの死骸を見た」
そういえば、またほかの日本人の旅友もこういうことを語っておりました。
「北京の公共バスの中で、公共バスに自爆テロを働いたウイグル人の悲惨な死体の写真をそのまま広告にして貼っているのを見た」
この広告は明らかに自爆テロ抑制を狙ったものです。
ちなみに、ウイグル人というのはトルコ系で、この新疆地域ではここ数百年の最大マジョリティ民族です。
最近は漢族の入植が著しくなり、その割合にだいぶ変化が起きてきておりますが。
彼らは主にイスラム教を信奉し、ウイグル語という独自の言語を今も日常に使用しております。
なので、私が訪れたころ、トルファン・ハミ・ピチャンといった新疆東部の町々では漢・ウイグル両語の看板が併記されているのを割と日常的に見ました。
彼らは顔だちも漢族とは全然違います。
私的にはわりとヨーロッパっぽい印象。
体つきもそちらに近いです。
そして、伝統的な服装も、舞踊も、音楽も、食も、生計も、やはり「ならでは」なものを持っております。
で、現地の漢族とウイグル人の関係です。
私もまた折があって、トルファンまでは行ったことがあるのですが、漢族とウイグル人の経済格差はなかなか、という印象です。
まず、基本的に、行く町々で、漢民族の住む新市街とウイグル人の住む旧市街に分かれておりました。
物質的に豊かそうなのは割と近代的な建物の立ち並ぶ新市街です。
これに対し、旧市街では古い建物が入り組んだようになっており、昔ながらの生業(農業や職人など)をなさっている人が多いな、という感じでした。
また、明らかにうらぶれがちな子供たちと遭遇するのはウイグル人の方でした。
観光地では「くれ」「くれ」といろいろ掌を差し出されましたし、生後3か月ほどでタバコを吸う赤ん坊にも出くわしました。
まあ下世話かもしれませんが、リアルに言ってしまうと(※)、まるっきりむせずに、めちゃめちゃうまそうに吸ってました。
(※)「気分が悪くなる」「彼らをバカにしているのか」「喫煙を勧めているのか」「かわいそう」「空気を読め」という人もいるかもしれません。でも、それが現実でした。
あれは、すでにおっさんの顔ですね。
これに比べると、中国全土の漢民族は確かに幼い乞食も少なくはなかったですが、みんなあまりせっつかないのですね。
一様に最低限の公衆マナーのようなものを堅持している印象。
その辺の“差”に、私は“闇の深さ”を感じました。
ちなみにこれは後程語りますが、チベットでもそうでした。
後、「中国人とウイグル人がうまく溶け込んでいるな」という印象は確かにかなり薄かったです。
彼らはいつも大概別々だったように記憶しております。
そもそもカシュガルには班超(※)の像を祭る記念公園が最近大々的にオープンしております。
(※)後漢時代、漢帝の命を帯び、この地域に数十年転戦して並々ならぬ武功を上げた漢人将軍
班超は現地にいればだれにでもわかる「漢族による西域支配の象徴のような存在」。
歴史って本当にこんなのの繰り返しですよね……
ただ、例外として、列車の中でとても優しそうな漢族女性の教師の方々と行動を共にしていたある西方系の少数民族の男の子(※)は漢語をかなり流暢に話し、また、恩師の方々ともひとかたならぬ絆で結ばれているようでした。
(※)申し訳ありませんが、彼がウイグル族かどうかは思えておりません。ただ、新疆にはウイグル以外にもカザフ、キルギス、モンゴル、回、などたくさんの少数民族が暮らしております。また、混血の方もたくさんいらっしゃるはずです。
チベット

チベットも根は非常に深そうでした。
例のごとく、経済格差はかなりでした。
やっぱり町は新市街と旧市街に二分の傾向。
民族の融合もあまり見受けられませんでした。
で、こちらも乞食の必死さが違いました。
一度手の平を出すと引っ込めず、当該の私だけでなく、私の寄っていた飲食店の店員にまでやけくそ気味に怒鳴り散らす中年男性。
どこからとなく子供が私の腿にタックルしてきた、と思うと、ズボンに縋り付いたまま断固として離れず、どこからとなく私らにシレッと近づいてきて意味深の笑顔満々に掌を差し出してくる彼の母親と思しき中年女性。
それとチベットの区都ラサにある大きな橋という橋の両袂には当たり前に人民解放軍の兵士が大きな長銃の口を天へと向けて抱え、ピクリとも動かず起立しておりました。
そういえば、あれからチベットのラサにも新疆のカシュガルにも長距離列車が通るようになりましたが、中国を知る人にはそれが「鎮圧列車」なのは暗黙の了解でした。
反乱が起こると、即駆け付けられるのですね。
そもそも胡錦濤元国家主席自体がチベット長官時代にこちらをうまく粛清統治できたことによってあそこまで上り詰めたぐらいなので。
私の場合、当地に関してまたひとつ衝撃だったのは帰国してからです。
私はK市にあるチベタンカフェにたまたまふらりと立ち寄ることが1度ありまして。
その時、店を一人で切り盛りしていたのはちょっとふくよかな感じの中年のチベット女性でした。
で、その薄暗い部屋内の椅子に座り、注文を待っていると、薄暗い闇の奥から私の目にいろんな活字が飛び込んでくるのです。
いずれもそのころのチベットに関するものです。
誠、不甲斐なくて申し訳ありませんが、私はそこに書かれた内容のつぶさにまでは記憶にありません。
ただ、その時の私の感情を動かした鮮烈のみは今もしっかりと残っております。
文化と人権の蹂躙……。
異論あるものは容赦なく次々ぶち込まれ、あるいは、かなり峻厳な“教育”が行われていたようです。
チベットについては“焼身自殺”のことが日本でもよく知られておりますが、あれと同じようなにおいでした。
ただ、こちらもあれからだいぶ経ちました。
現状はどうなっているのでしょう。
雲南・広西

ベトナム・ラオス・ミャンマーと接する辺りもまたたくさんの少数民族が暮らしてらっしゃいます。
こちらは苗・タイ・チワン・ナシ・トン・ペーなど。
上2つの地域に比べれば、漢族とかなり融和的に見えました。
そもそも見た目が似ておりますし、漢語を大概流暢に話します。
ただ「そうあまいものではないな」と思ったエピソードが一つ。
私はその時、世界的景勝地の桂林を訪れておりました。
泊まったロッジは家族経営。
30代ぐらいの漢族の旦那さんが経営主。
たまたま彼の美人の奥さんが一人になっている時に、私は彼女と中国語による筆談を試みました。
が、彼女はすぐに首を横に振って帳面とペンを突き返してきます。
「おかしいな」
と私が思うと、彼女はいつもの流暢な英語で
「私は少数民族だ。中国には中国語を読み書きできない人間がいるのだ」
と、何か得体のしれない面差しで私をじっと見つめ返してきました。
その表情の色は何というのでしょう。
まあ、確かに、彼女も年ごろなので
「言い寄ろうなんて。見当違いを起こさないでね」
というのも含んでいたかもしれません。
私にそういうつもりはさらさらないつもりでしたが。
それに、彼女は日々のお仕事も休みなく、とても大変そうでしたし、赤ん坊を一人連れ、また、お舅さんとも姑さんとも一緒に仕事しております。
そういった生活の疲れは大いにあったはずです。
ただ、私にはあの表情とセリフはそれらだけでは到底割り切れないのですね。
悲しみ、あきらめ、強さ、も確かに見えました。
そして、それは私が日本で暮らしてきた分には経験したことのない何かがものすごく深いところから当然のように沁み出してきているのを感じました。
私はここに“民族”を垣間見たような気がしたのですがいかがでしょう。