
20世紀前半、中華大陸。
イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本、中華民国、……。
石原莞爾、孫文、袁世凱、蒋介石、溥儀、張作霖、張学良……。
あまりに多くの夢と野心が交錯したその独特に妖しげな風潮で知られております。
そして、ここからほんのちょっと西方に目を移せば、今“西北”と呼ばれる地域、つまり、甘粛や新疆の一帯は中華圏本土に勝る権力の空白状態。
そこには私たちに余り知られていない“さらなる動乱”が進行しておりました。
馬仲英を知っているでしょうか。
まさにこの時代この地域に降ってわいたように現れ、広い砂漠の大地をまたたくまに飲み込みんでいった男。
その真夏の陽炎のような生涯とは。
馬仲英登場

馬仲英
今の蘭州付近を根拠に張った回族(※)系の軍閥があります。
(※)漢族的な身体特徴を持つイスラム民族の総称
馬家軍と言います。
ちなみにこの馬とはイスラムの開祖アブラハムを意味します。
馬仲英は馬家軍の指導者クラスの一族として生誕。
時すでに清末の動乱です。
馬仲英はまだ10代の若いうちからそんな野心あい乱れる中に馬家軍のうら若い将校としてその身を投じてゆきます。
やがて、馬仲英は中国国民党軍の将帥馮玉祥に反旗。
失敗して河西に逃れます。
昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵、一族同士であっても油断がならず、オセロのように白黒があっという間に入れ替わる。
それが当時の政争の習いです(馮玉祥ですら間もなく南京政府を裏切ります)。
馬仲英にあっても今後何度と知れぬ裏切りのうちのひとつ。
こうして馬の姿は荒野の彼方に忽然と消えます。
若き馬仲英の将兵に対する圧倒的カリスマぶり
馬仲英は中華民国の軍事学校にどこからとなく姿を現すと、さも当然のように教練にはげみ、また閥を築いて戦乱を興します。
そして、また敗れると、どこへともなくいなくなり、やがて、思いもよらぬところで徒党を糾合し立ち上がります。
馬仲英は将兵らへのカリスマは圧倒的です。
馬仲英は厳しい軍旅にあって、自分を自軍の一兵卒とすら分け隔てしません。
同じ食事をともに食べ、ともに語りあい、余暇にはともにサッカーを楽しみ、行軍にあっては同じように重い荷駄を背負い、そして前線ではだれよりも勇気をもって戦います。
それでいて軍律を破った人間にはそれがだれであっても一切の容赦なく、画像にある通りの非常に甘いマスクで“まるで眉一つ動かさずに”処断。
ちなみに馬仲英はこのころ、こんなことをうそぶいていたといわれます。
「今、中華の大陸を列強らが食い合う間隙をついて、私は西方を制し、いずれは世界をも席巻するだろう」
馬仲英ついに大躍進の時、そして……

金樹仁
やがて、新疆では金樹仁が政権を握ります。
ただ、この金樹仁という男。
史上においてかなり評判の悪い男でして、いつ何をおいても自らの保身を宗とし、大局なくただいたずらに酷税を発し、また、現地のイスラム教徒を虐げ、おかげで省内の腐敗と圧制はいよいよと蔓延するばかり。
そんな状況にあって突如新疆東部から挙がったのが馬仲英の旗です。
新疆中の金樹仁政権への不満分子がこれに続々と呼応し、政府に対して反乱の火の手を上げます。
これに対し、省都烏魯木斉(ウルムチ)政府はその求心力のなさからクーデターが相次ぎ、みずから混沌。
もはやこのまま烏魯木斉は馬仲英の手に落ちるか、に見えました。
が、そこに思いがけないまた1人の男が現れます。

盛世才
盛世才。
日本にも留学経験のあるこの大変に有能な軍人は好機をとらえてたちまち新疆政府を掌握。
また、馬仲英の軍もたびたび撃破。
ついに馬仲英もあきらめてソ連へと亡命、その空軍に加入しますが、彼は突如飛行機事故でその生涯を終わらせます。
享年は26才。
生前、彼は「漢族にあらざる者による西方世界樹立」を口にしていたとか。
今となってはその真実のほどは不明です。
まとめ

スヴェン・ヘディン
ちょうど馬仲英の新疆進撃の折、当地にはスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンが居合わせておりました。
ヘディンは馬仲英軍によってその遥かな旅路をたびたび妨害され、一時はその命すら危ぶまれたほどです。
そのヘディンは馬仲英のことをこう評しております。
「もし彼に忍耐が備わっているなら、本当に世界を席巻できたかもしれない」
なお、もし馬仲英のことをもっと詳しく知りたいなら、このヘディンのものした旅行記に克明です。
さにしてもかの地は、われわれ日本人には想像を絶するほどの“民族争覇”の歴史を繰り返しております。
(※)昨今でも中国西方における、民族や宗教での抗争はなみなみならぬものがあるようです。20年ほど前に私はこの辺りを2度廻ることがありまして、思いがけぬ体験もいくらかしました。その体験談と考察をこちらの記事にまとめます。