
五代目古今亭志ん生という人がかつやくしたのは昭和という時代です。
今ふりかえると、なんともなつかしい、そして、「あのころはよかったな」というのがふとこみあげてくるものがあります。
なぜでしょう。
古今亭志ん生というとても個性的な人がらと一生からその理由を垣間見てみましょう。

古今亭志ん生(5代目)
古今亭志ん生の生い立ち
古今亭志ん生の生まれは1890年。
まだ明治と呼ばれていた時代です。
本名は美濃部孝蔵(みのべこうぞう)。
お父さんは警察官。
わりとまずしいくらしでした。
志ん生というのはなかなかの悪ガキ。
悪さをして小学校をやめさせられてしまいます。
今ではありえませんが、「学校に来ちゃダメ」ということです。
古今亭志ん生、落語との出会い
何をやっても不器用で、何をやってもがまんが続かず、仕事に就いてはやめ、また、就いてはやめ、をくりかえします。
ばくちやお酒で生活はムチャクチャ。
お父さんにはあきれられて、「絶交」されてしまいました。
こんなわけで古今亭志ん生は両親や兄弟の亡くなる時にも立ち会えておりません。
ただ、そんな志ん生が見出した「これだけは!」というひとつの仕事があります。
それが“落語”です。
ちっちゃいころから、お父さんに落語を見せに行ってもらいに行っておりました。
もちろん、“落語”の世界にだって厳しいルールはあります。
しんぼうもいっぱいしなければなりません。
しかし、いったんお客さんの前に出れば、そこはもう自分だけの一人舞台です。
口と扇子一本があれば、もうそこは自分で存分にその世界を広げてゆけます。
お客さんにそっぽを向かれたら、お仕事もなくなるみじめさをあじわう、たいへんに厳しい世界ですが、志ん生はこの世界にせいいっぱい精進してゆきます。
落語でもなかなか芽が出ない

しかし、古今亭志ん生は“落語”の世界でもなかなか成功しません。
あいそが悪くて、周りにうまく合わせられないとっつきづらいキャラクターで落語仲間たちからはあきらかに浮いておりました。
しかも、何かにつけてものすごいルーズ。
着ているものはいつもよれよれのボロ。
お客の前でみっともないたらありゃしない。
仲間内から「死神」なんて呼ばれておりました。
そして、先輩からのお使いのお金もばくちに使ってすってしまいます。
とにかく、「ばくち・酒・ムダづかい」。
志ん生は結婚もしておりましたが、家族にとっても大変なんてもんではありませんでした。
ナメクジ長屋

志ん生はこんな性格ですので、貸家もお金がはらえなくなってすぐ夜逃げ。
ひっこしをくりかえしております。
そして、あるアパートの大家さんがこんな話を持ちかけます。
「おたくら家族は特別にタダで住んでいいよ」
古今亭志ん生は「そんなら」とばかりにそちらのアパートにごやっかいになりますが、これが大変。
実はこのアパートもともと湿地をうめたてたところだったのですね。
だもんで、蚊(か)やナメクジがハンパでないくらい発生するのです。

電気なんてつけていられません。
大群でおしよせてきますから。
蚊帳(かや。蚊よけのバリアみたいなもの)がなかったらごはんも食べれないし、寝ることもできません。
息をしただけで鼻に入ってきます。

ナメクジは10cmとかいう特大がそこらじゅうにヌラヌラです。
大きすぎて塩もききません。
つねってもはたいてもまるでムダ。
エサの上をナメクジがはった毒(どく)のせいでネコも体の具合が悪くなってしまいました。
志ん生は「ナメクジより強い生き物はない」と言っております。
きっちりネタになっているのですから、後になって見るとなかなかけっこうな買い物になったのかもしれません。
志ん生という人は本当に落語以外のことは何をやってもさっぱりな人です。
志ん生の落語だけではとてもやってけない、ということで、奥さんが外にお仕事に出ることになりました。
すると志ん生、家でおるすばんです。
が、本当になんにもできません。
家事ダメ、子守ダメ。
奥さんは「これじゃ話にならない」ということで仕方なく外での仕事をやめ、元の内職にいそしむことにしました。
ただ、志ん生のすごいところは“落語”のけいこだけはものすごく一生けん命。
家でもただひたすら、けいこ、けいこ、けいこ、です。
志ん生はまだ売れない時代、大変くやしいめにもいっぱいあわされておりました。
「売れない落語家には用がない」
とか、いくら一生けんめいやっても、どれだけ落語ではそんじょそこいらには負けない、と思っていても、ただ売れないばかりにいろんなところからボロカスなあつかいです。
しかし、志ん生はこの点の努力にだけは絶対に曲げない人でした。
満州での苦労

古今亭志ん生という人は本当におくびょうだったようです。
戦争中なんて東京の町はどこも空襲(くうしゅう)におびえておりました。
そんな時、満州(中国東北部)からお仕事の話がまいこみます。
満州には空襲がありません。
大好きなお酒もわりと手に入りやすいので、家族も「行っといで」。
この家族はわりとおおらかで、志ん生のキャラをよく飲みこみ、結構好きなようにさせております。
でないと、やってられないでしょう。
志ん生はこうして家族を戦争中の日本において満州に一人旅立ちます。
ところが、間もなく終戦。
満州ではソ連軍が攻め込んできてもう大変。
おおぜいの現地の日本人がワッといっせいに日本に帰ろうとしますから、帰国の船をつかまえるのに一苦労。
もう明日の命も知れません。
よっぽど自暴自棄(じぼうじき)になった志ん生は自殺を図ります。
ウィスキーを5本一気に丸のみ。

どんなムチャクチャな自殺の方法だと思いますが、このへんも志ん生らしいですね。
結局、死ぬことはなく、「どうせ生きてるんならもっとゆっくり飲みゃよかった」なんていうオチまでつけております。
古今亭志ん生、ブレイクする!
古今亭志ん生は無事日本に帰ると、ようやく運が向いてきます(※)。
(※)古今亭志ん生はこのころすでに55才です
というのも、志ん生が帰ってきたことがニュースで取り上げられ、話題に。

しかも、時代はラジオにスポットライトが当たり始めたころ。
ラジオなら声だけですから、かつて「死神」なんていわれたみっともない身なりだって“見えません”。
だから、志ん生のみがきぬいた達者な話術がたちまち人気を呼んでゆきます。
しかも、戦中の生きるか死ぬかの経験をいくつもくぐりぬけてきて芸に“すごみ”がでてきました。
人間どん底とも思えるピンチというのはあとあとになって思いがけない財産になるものです。
ただ、志ん生は後にこう言っておりますよ。
「貧乏なあのころの方がよかった」
あのナメクジ長屋に住んでいた時も、“みんなが貧乏”な分、みんながなにくれとなく助け合うのですね。
あそこの子どもが病気になったのなら、薬をわけあう、家族じゃないけれどだれかが看病する、足りない食べ物を分け合ったり、なにくれとなく相談に乗りあったり、……。
志ん生の言っていることの半分は照れなのかもしれません。
でも、たぶん残りの半分くらいは……。
落語のとちゅうに居眠り

古今亭志ん生の自由気まぐれは売れるようになっても相変わらずです。
志ん生は前の日の夜からお酒を飲んだりしてちゃんとねむらず、そのままお仕事に出て、なんと自分がお客の前で落語をやっている最中に居眠りしてしまいました。
その時にはお客さんからは「そのまま寝かしてやれよ」なんて声が上がったりしたようです。
今の時代、こんなことをやったらタダではすまされないでしょう。
まあ、みんなに許してもらえるのが志ん生というひとがらでもあるんですが。
このように、志ん生の落語というのは見ていて独特の“あぶなっかしさ”があります。
どんなトラブルが起こっても不思議ではないし、アドリブでどんな好きな方に話を持っていくかわかりません。
そんなハラハラドキドキ。
でいて、実は志ん生。
いや、あれだけけいこに情熱をかたむけていただけあります。
「あのあぶなっかしさもけっこう精密に計算されてつくしている」
なんていわれております。
このあたりが「昭和最大の落語家」といわれるゆえんですね。
古今亭志ん生が亡くなったのは1973年。
83才。
もうだいぶ戦後復興がなされ、世の中は高度経済成長なんて言われた時代。
やっとまともに売れだしたのが50代なかばころから。
信じられないくらい遅咲き(おそざき)の芸人さんですが、そんな長い下積みの中でこその温かみや苦しさをいっぱい知っているからついにいたった深い味わい。
これからの世、志ん生という人はどういった風にあつかわれてゆくんでしょうか。
まとめ
①古今亭志ん生の青少年時代はかなり無茶苦茶だった
②古今亭志ん生は“落語”だけはどんなにつらくてもやめず、とても一生懸命向き合った
③古今亭志ん生は好きな落語で長年芽が出ず、他に生活能力もないので、一家ともにものすごく貧乏だった
④古今亭志ん生は55才を過ぎて、ようやく落語で売れだした
⑤古今亭志ん生はならではの自由奔放、かつ、とても洗練された話芸で「昭和最大の落語家」と呼ばれるまでになった
古今亭志ん生についての本
こちらの記事は、これらなどの本を参考にしております。