
現地の人々がいろんな問題を切実に抱え、例のごとくそこに内外の諸勢力がそれぞれの思惑をもって、事態をさらにややこしくしていく。
実に中世ヨーロッパらしくもあり、また、どこまでも人間社会に起こりがちな、シェークスピア的歴史群像であります。
シチリアの晩鐘事件。
神を祝う鐘の音が鳴る時、歴史はついに大きく動き始めました。
シチリアの地理と“シチリアの晩鐘”までの歴史
シチリアは地中海のど真ん中。
ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸に開けた水上のターミナル。
軍事においても経済においても超重要スポットです。
なので古来、ギリシャ、カルタゴ、ローマ、イスラム、など、いろんな国々が「シチリアをわがものにしよう!」と激しく奪い合います。
そういった長い歴史を積み重ねていくうちに、シチリアには自然といろんな宗教や民族が入り混じる、とっても国際色豊かな文化が育まれてゆきます。
やがて、1194年からは神聖ローマ皇帝を代々受け継いでいたホーエンシュタウフェン家がシチリアの新たな支配者になります。

フリードリヒ2世
1198年にはそのフリードリヒ2世がシチリア王に即位。
彼は世の中の常識にとらわれないとても合理的な考え方で、時代を切り開き、「王座上初の近代人」とまで呼び讃えられました。
ただその一方で、教皇勢力との出口の見えない消耗戦を続け、せっかくの国力を疲弊させたのも事実です。
シチリア王シャルル・ダンジューの評判

シャルル・ダンジュー
フリードリヒ2世の孫コンラーディンの時代になると、シチリアにはよそからの新たな勢力が入ってきて我が物顔にふるまいます。
フランス・ルイ6世の弟シャルル・ダンジューです。
しかし、コンラーディンには野心があります。
シャルル・ダンジューのシチリアでの評判はあまりよくありません。
コンラーディンの野望

コンラーディン
コンラーディンはそこでシチリア島民に
「俺、シャルル・ダンジューをやっつけるために立ち上がるから、君たちは反乱を起こしてよ」
と話を取り付けます。
そして、コンラーディンは本当に立ち上がりイタリアに向けて快進撃。
シャルル・ダンジューはこれをむかえうちます。
激戦の末に勝ったのはシャルル・ダンジュー。
コンラーディンは捕まり、処刑されてしまいました。
シャルル・ダンジューによるシチリア統治
さて、大変なのはコンラーディンだけではありません。
シチリアです。
シャルル・ダンジューは現地で略奪し、鎮圧。
そして、当地での権力をいよいよ固めることになり、島内における“改革”を本格化してゆきます。
しかし、地元シチリア人にとったら
●法律や行政制度が複雑でややこしい
●フランス人ばかりを大事にする
さらに、
●税金が高い
秦の始皇帝とかぶるポイントがやたら多いような気がします。
シャルル・ダンジューもやっぱりとても有能で、急激な中央集権を目指しておりました。
そして、シャルル・ダンジューはかなりの野心家です。
イタリア半島の政治には積極介入し、地中海東岸には軍事的ちょっかいをちょくちょくかけます。
すると、困ったのがビザンツ帝国です。
シャルル・ダンジューによる完全なる“野心の的”(※)となっております。
(※)シャルル・ダンジューはローマ教皇と組んで帝国への圧迫を企てておりました

ミカエル8世
ビザンツ帝国の皇帝ミカエル8世は、「あのシャルル・ダンジューをなんとかせねば」と策を練ります。
そこで、ミカエル8世がポケットから出した、とっておきの秘密道具はなんと……
“お金”です。
このころのビザンツ帝国は軍事はだいぶ苦しくなってきておりましたが、経済力は結構なものでした。

ペドロ3世
スペイン東部にあるアラゴン王国の王様ペドロ3世の奥さんはシチリアのあのレジェンド“フリードリヒ2世”の孫娘です。
彼らに“そういう因縁”を焚きつけついでに、あの秘密道具ザックザクの“お金”をしっかり見せつけられればもう……。
ミカエル8世はもちろんシチリアの反シャルル・ダンジュー派にも
「ねえ、アラゴンさんといっしょにやったら」
……
“シチリアの晩鐘事件”起こる

1282年3月30日はイースターの翌日、シチリアの首都パレルモはお祭り気分に沸き立っております。
そこへ酔っぱらったフランスの役人たちがシチリア人娘たちになれなれしくせまろうとします。
しかも、その中の一人のシチリア娘が嫌がっているのにむりやりからみつこうとするものだから、それを見た彼女の夫が憤激します。
そのならず者をナイフで刺し殺し、これをきっかけにシチリア人たちはフランス人たちを手当たり次第におそいはじめます。
相手が女でも子供でも関係ありません。
ちょうどこのころ、みんなが待ちに待ったはずのイースター夕べの祈りを告げる鐘の音が鳴り響いております。
暴動はシチリア島全土に広がり、4000人ものフランス系住民が死亡、シャルル・ダンジューの留守を守るはずの艦隊もことごとく燃えて海の藻屑となってしまいました。
アラゴン軍上陸

シャルル・ダンジューは最初、シチリアでの暴動の深刻さを聞き、驚いて反撃に出ます。
ところが、そこに邪魔に入ったのがアラゴン王国です。
アラゴン王ペドロ3世は、
「わが妻は正当なシチリアの王位を継ぐ者である」
と宣言し、軍を派遣してシチリアに上陸。
シャルル・ダンジューはこれを知ると、シチリアから引き上げてゆきました。
その後

シチリアの権利をめぐってシャルル・ダンジューとペドロ3世による泥仕合は続きます。
一時は両国選抜勇士たちによる“決闘”に決着がゆだねられることとなりました。
しかし、その約束の日をむかえても
「決闘場所に俺は行ったのに、あいつは来やがらなかった。腰抜けだ。俺の勝ちだ」
と、おたがいに主張。
出口はまったく見えません。
ほどなくペドロ3世もシャルル・ダンジューもあいついで亡くなります。
そしてぐだぐだのうちに、シチリアにおけるアラゴン王家支配は続いてゆきます。
まとめ
①当時、シチリアではフランス王族のシャルル・ダンジューが元居たホーエンシュタウフェン家を力づくで追い払い、領権を確保していた、という経緯がある
②シャルル・ダンジューのシチリア支配は当時のシチリア領民にとても評判が悪かった
③シャルル・ダンジューの野望に脅威を感じたビザンツ帝国の謀略家ミカエル8世が裏でシャルル・ダンジュー包囲網を築き上げていた
④1282年イースターの晩鐘の折、フランス兵による現地人娘への狼藉が発火点となり、シチリア晩鐘事件が起こった