日本史上の兵家必争の地を地図で俯瞰してそうなる理由をスパッと解こう!

歴史
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古来より“天・地・人”という言葉があります。

その中でもここで取り上げるのは兵家必争の“地”

つまり、軍事的要衝です。

たとえば、なぜかいつも天下分け目になる、あるいは、負けた人が流れてくる、などの因縁めいた土地が日本史にはいくつもあります。

ただ、そういった個性豊かな要衝も地図でザッと見ればなぜそうなるのかがスパッとわかります。

関ケ原墨俣瀬田川吉野大山崎の5個所を俯瞰してみましょう。

日本史における代表的な5つの要衝

関ケ原

関ケ原と言えば1600年の「関が原合戦」があまりに有名です。

しかし、かの地はそれより900年ほどむかしにもうひとつの天下分け目がありました。

672年「壬申の乱」です。

吉野から宇陀(奈良県東北部)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県南部)とまわってきた来た大海人皇子の軍が当時「不破の関」と呼ばれていた関ケ原近辺で大友皇子の軍と激突。

見事、大海人軍が勝利して近江(滋賀県)になだれ込み、その後の両陣営の明暗をくっきりと分けました。

では、地図を見てみましょう。

美濃方面から近江に入るにはこの関ケ原から急激に道が細くなっております。

ここに少数でも精鋭を置いておけば、まさに不破。

石田三成はさすがにその辺りは押さえておりましたから、ここの山の手に味方の諸陣を配置し、「徳川方を袋のネズミにしてやろう」という万全の手はずだった、のですが。

松尾山の小早川秀秋は徳川方に寝返り、南宮山の毛利秀元や安国寺恵瓊などは動くことができず、結果として完敗することになりました。

近江側の有利を陣取っている方が両大戦で連敗しているのは歴史の皮肉。

地の利をもってしても天(勢い)には逆らえなかった、ということでしょうか。

墨俣

(今は往古と流れが幾分変わっております)

墨俣と言えば豊臣秀吉の築いた一夜城で知られております。

もちろん物語的脚色は大きいのでしょうが、少なくともあの頃、尾張織田と美濃斎藤間におけるかなりの軍事要衝であったことはまちがいありません。

尾張へと入る木曽川・長良川・揖斐川という3大河川がすぐ近々に並流しております。

水路のウルトラ要衝。

両者ここをおさえられれば攻守に優位を占めるのは明らかです。

墨俣が歴史的にスポットライトを浴びたのはなにも戦国だけの話ではありません。

時は源平合戦の盛り。

尾張三河に独自勢力を築こうとした源行家平家の軍勢とここで戦います。

この時墨俣をおさえていたのは平家方。

将は平維盛(たいらのこれもり)平重衡(たいらのしげひら)です。

源行家は平家方に奇襲を企てますが、すぐに見破られ惨敗。

結局この戦でも墨俣をおさえていた方が勝ちました。

瀬田川

瀬田川は琵琶湖から流れ出るたったひとつの河川です。

そして古来、急流と知られる天然の要害でもあります。

ここが合戦の舞台となったのはまず“壬申の乱”の時。

「不破関の戦い」に勝利した大海人皇子の軍は勢いに乗って大津京へと突き進みます。

しかし、それを目前にして大友皇子軍は瀬田橋の橋板を取り外してしまい、足止めした敵陣へと大量の矢を射こんできます。

が、すでに時の利を得た大海人皇子側はこれを突破し、ついに大津京へと乱入。

勝利を確定させました。

その後、ここは源平合戦でも二度重要な戦地となります。

一度目は〇木曽義仲vs平家●

二度目は〇源義経vs木曽義仲●

両合戦ともに“壬申の乱”の時と同じく京・大津方面に守る側が敗れております。

もうここまで攻め込まれている時点で京・大津方の形勢不利はあからさますぎる、ということでしょうか。

そしてさらに時は戦国。

「本能寺の変」に成功し、一躍天下人におどり出た明智光秀が、京から安土城方面へと攻め込みます。

この時、明智の軍を瀬田川で足止めしたのが地元瀬田城主山岡景隆

山岡景隆は明智光秀からの誘降要請をたちどころに峻拒すると、その意思表明とばかりに瀬田橋を焼き捨てます。

おかげで明智軍は橋の復旧に手間取りました。

が、その後、明智軍は安土城へ急行し、難なく攻略を果たすことができました。

(明智光秀について詳しくはこちらの記事で)

大山崎

大山崎は大阪から京都へと入る淀川沿いの谷間です。

やはりここも地図を見ていただければわかるように喉元(のどもと)のようにキュッとそこだけ狭まっております。

しかも、宇治川の南、いわゆる久御山の辺りは巨椋池(おぐらいけ)という広い湖沼地帯が広がっておりましたので、裏に回るのも困難です。

あくまで無理やり回るには鳥羽伏見方面から、もちろんこちらには宇治川(※)というもう一つ名高い天然の要害が待ち構えております。

(※)源平合戦では宇治川でたびたび激戦が行われております。●源頼政・以仁王vs平家〇、●木曽義仲vs源義経・源範頼○

であるからして、大山崎は「西から京へと乱入してくる敵勢を食い止めるにはここしかない」という最終防衛ラインです。

さて、大山崎が天下分け目になったのは二度あります。

ひとつは言わずと知れた1582年山崎の戦い

本能寺の変に成功し、その後着実に自分の地盤を固めていきつつあった明智光秀

このころ朝廷との折衝は目まぐるしく、相当の地位すらちらつかされていたかもしれません。

もう少し時間稼ぎができていれば、事態はまったくちがったものになっていた可能性があります。

しかし、豊臣秀吉による驚異的な“中国大返し”によって目算が完全に狂います。

豊臣方には織田信孝・丹羽長秀といった四国征伐軍団と中川清秀・高山右近などの摂津大名たちが味方に付きます。

単純な実数において明智方は半数以下。

劣勢は明らかです。

しかし、豊臣方は寄せ集めであり、いつ裏切りが起こるかわかりません。

さらに近畿には細川藤孝や筒井順慶など、明智と昵懇な大名も多く、彼らが味方すれば、形勢はたちまち変わりえます。

そこで、明智方は大山崎の天嶮をたのみ、徹底防戦の構え。

しかし、豊臣方の多勢に任せた波状攻撃についに崩れたち、後方へと潰走することとなってしまいました。

光秀は間もなくみずからの首城坂本への逃げ道、落ち武者狩りにあってあえなく命を落とした、と伝わります。

(山崎の戦いについて書いた私の小説についてはこちら

(明智光秀についてより詳しくはこちらの記事

そして、この地が今一度天下分け目としてよみがえるのが幕末。

幕末ファンならもうとくとご存知のはず。

いわゆる1868年鳥羽伏見の合戦

序戦に新政府方が勝ち、錦の御旗が新政府方に上がります。

旧幕府方はなおも大山崎の地の利を生かし、付近の八幡山から橋本にかけて必勝の陣を敷きます。

ところが、山崎砲台を陣取っていた津藩藤堂家が新政府方に寝返ります。

平地に展開する旧幕府側に側面砲射。

これにはたまらず、旧幕府方はさらに敗走。

大坂城に主将として籠っていた将軍徳川慶喜は開陽丸に乗って海上から遁走し、旧幕府の敗勢がかなりはっきりといたしました。

結局大山崎の両合戦にあっても天の勢いには地の利をもって防ぐこと能わず。

ちなみに、宇治川の源平合戦でもやっぱりそうです(※)。

(※)以仁王の乱の時は、すでに最終局面です。以仁王・源頼政はここに追い詰められておりました。また、木曽義仲も、院・源頼朝・平家、みんな敵に回して孤立しておりました。

吉野

戦地ではないのですが、「なぜかいつも」という不思議な地があります。

それが奈良県吉野

地図を見ればわかるように奈良盆地を北にして背後三方は圧倒的な大山岳地帯が広がっております。

そもそも吉野までくれば権力の手もなかなかとどきませんし、いざ攻められても大山岳地帯へと逃げ込めます。

そうすれば、もうやすやすとは捕まりません。

日本史ではまず神代から。

『古事記』『日本書紀』では初代天皇とされる神武天皇の東征にて。

久舎衛(くさえ)の坂で大和の強力な豪族長髄彦(ながすねひこ)にいったん敗れた神武軍は船で熊野まで回り、そこから山こもる紀伊山地を北上していきます(※)。

(※)なかなかの大難行です。神武方の並々ならぬ執念が垣間見れます。

そして、再戦。

今度は長髄彦の軍を打ち負かし、神武天皇は大和に政権を築き上げました。

また、大海人皇子も天智天皇に野心を疑われ、この吉野に逃げてきたことで知られております。

やがて天智天皇が崩御すると、大海人皇子はここから挙兵。

大津にいた天智天皇の嫡男大友皇子を打ち負かし、天下を取りました。

源義経も兄頼朝との権力抗争に敗れ、一時この吉野に逃げおおせておりました。

この地における源義経と彼の愛妾静御前との別れは能『船弁慶』などの創作の題材として描かれ続けております。

さらには大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)も父後醍醐天皇とともに反鎌倉幕府の兵を挙げ、吉野あたりの大山岳地域を転々としながら幕府方を撹乱します。

そして、父後醍醐天皇は「建武の新政」の後、足利尊氏と対立。

敗れて吉野に逃れ、ここに南朝を立ち上げました。

吉野の歴史はまだまだです。

幕末には尊王攘夷の志士“天誅組”が1863年五條の代官所を襲撃します。

一時はこのあたりを中心に同志を募り蠢動しますが、幕府方の大軍に攻められ、壊滅してしまいました。

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