徳川四天王家のルーツは?江戸時代をどのように送った?幕末をどう迎えた?

歴史
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井伊直正、本田忠勝、酒井忠次、榊原康政の徳川四天王家は

●それぞれどんなルーツなのか?

●家康後、どのような歴史をたどったのか?

気になりませんか。

徳川四天王四家のルーツ

井伊家

井伊家は藤原北家の末裔を称しております。

中世には遠江井伊谷の豪族として盤踞し、駿河の強豪今川氏の傘下に入っていきました。

本多家

本多家は藤原北家の末裔を称しております。

三河松平氏の古くからの譜代衆です。

酒井家

酒井家は清和源氏新田の末裔を称しております。

三河松平氏に古くからの譜代衆です。

榊原家

榊原家は清和源氏仁木の末裔を称しております。

もともと榊原氏は松平氏の陪臣(又家来)でしたが、康政が家康に小姓として抜擢され、道が開けました。

関ケ原合戦後における徳川四天王家の石高

井伊家:近江佐和山18万石

本多家:伊勢桑名10万石

酒井家:上野高崎5万石

榊原家:上野館林10万石

井伊直政は「赤備え」の武だけでなく、外交など文の方にも大活躍しました。

しかも、近江佐和山は西国を一手に抑える要衝。

家康が直政の功績をいかに買っていたかがわかります。

それにしても、酒井忠次は家康の若いころから宿老として支え続けてきた勲功一番なのに……。

忠次はこの不当に対して家康に抗議しますが、

「お前も子らがかわいいのか」

と家康に嫌味を言われた、とか……。

その原因とされるのがこの事件。

かつて、家康には信康という嫡男がおりました。

しかし、信康は織田信長に謀反の疑いをかけられ、その弁護の使者として立ったのが忠次。

でも、忠次はなぜか信康の弁護をちゃんとしなかったのですね。

そのせいもあって、信康は切腹。

つまり、忠次は家康によって蒸し返されてしまったのです。

江戸時代の徳川四天王家

井伊家

井伊直弼

2代直孝:秀忠政権幕閣として活躍し近江彦根30万石(実質35万石)に。

4代7代直興:家宣・家継時代、大老に就任します。

12代直幸:田沼時代、大老に就任します。

15代直弼:大老になる。安政の大獄をおこない、桜田門外の変で暗殺されます。20万石に減封。

本多家

2代忠政:大坂の陣で活躍。播磨姫路15万石に加増。

4代政勝:大和郡山に転封。

6代忠国:陸奥福島→播磨姫路に転封。

7代忠孝:越後村上に転封。

8代忠良:藩主死後急養子のため三河刈谷10万石に減封。下総古河藩に転封。吉宗時代、老中に就任します。

9代忠敞:石見浜田に転封。

11代忠粛:三河岡崎に転封。

12代忠典:相次ぐ転封で財政難におちいります。

酒井家

2代家継:大坂の陣後、越後高田10万石に加増。

3代忠勝:出羽庄内13万8千石に加増。

9代忠徳:藩政改革。領内の豪商本間家の力を借りるなどし、9万両の借金から黒字化へ。藩校致道館を創設します。

榊原家

3代忠次:陸奥白河14万石→播磨姫路15万石に加増。

5代政倫:越後村上に転封。

6代政邦:播磨姫路に転封。

8代政岑:吉宗時代に贅沢三昧。懲罰的に越後高田に転封。

概観

各家いろいろありましたが、なんだかんだ言ってみんな10万石以上を常にキープ。

さすがに、徳川四天王家の格式。

とても安定しております。

ここが崩れると徳川幕府の威信にも関わりますし。

幕末の徳川四天王家

井伊家

天誅組鎮圧、池田屋事件、禁門の変に活躍。

第2次長州征伐で芸州口の先鋒を命じられる。旧式軍装のため惨敗。

鳥羽伏見の戦いから新政府軍に属します。

小山の戦いで大鳥圭介らの旧幕府軍に敗れました。

本多家

戊辰戦争では新政府側に恭順しました。

酒井家

江戸薩摩藩邸焼き討ち事件の主力として活躍。

奥羽越列藩同盟でも会津藩に次ぐ主力

諸藩が降伏する中、最新式の潤沢な装備でもっとも新政府軍を苦しめ、最後に降伏しました。

西郷隆盛による温情ある戦後処置は有名。

榊原家

第2次長州征伐で芸州口の先鋒を命じられます。旧式軍装のため惨敗。

戊辰戦争でははじめ態度をはっきりさせないまま。新政府軍がせまるとたちまち新政府側への旗幟鮮明に。長岡・会津藩討伐の先鋒を命じられます。

概観

かつて、徳川家の4つの支柱も幕末まともに幕府方として戦いきったのは酒井家だけ。

幕府方の命運を象徴しております。

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