巨大な敵に徹底抵抗!歴史上における不屈の闘志のリーダー7選

歴史
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とんでもないビッグパワーが前に立ちはだかることがあります。

言うことやることいろいろ承服しかねるのですが、敵とするには巨大すぎます。

そんな時、あなたならどうしますか。

歴史には圧倒的強敵に対し、どれだけ負けても、どれだけ苦しんでも、挑み続ける“不屈の闘志”のリーダーたちがたくさんおります。

その恐るべき信念、執念のほど、を少し垣間見てみましょう。

歴史上における不屈の闘志のリーダー7選

ウィリアム・ウォレス

出典wikipedia

中世スコットランド救国の英雄。

時は13世紀末、イングランド王エドワード1世はスコットランドへの野心をむき出しにします。

スコットランドの自分の思い通りに動くよう取り計らい、さらにいうことを聞かなければ強大な武力にモノを言わせます。

結局、スコットランドはエドワード1世に併合されることとなってしまうのですが、当然黙ってはいない人々が現れます。

そのリーダー格がウィリアム・ウォレス

元々バラバラ気味だったスコットランドにおける反イングランド反抗分子たちをうまくとりまとめ、その運動はいよいよ大きくなってゆきます。

1297年には“スターリング・ブリッジの戦い”でイングランド軍と会戦。

スコットランド軍は圧倒的な兵力のイングランド軍を見事撃破しました。

これに対し、イングランド王エドワード1世はついに本腰を上げます。

エドワード1世みずから率いるイングランド軍とウィリアム・ウォレスのスコットランド軍は1298年エディンバラにもほど近いフォルカークの野で激突。

スコットランド勢は味方貴族による裏切りがあり、善戦むなしく敗れ去ります。

ウィリアム・ウォレスはその後、ひそかに逃亡・潜伏生活を続けますが、そこでも味方の裏切りに会い、イングランド側に差し出され、残虐刑によって処刑されました。

エドワード1世によって再征服されたスコットランドですが、エドワード1世の死後、スコットランドは“バノックバーンの戦い”でイングランドに圧勝。

スコットランドの独立は取り戻され、いまだにその誇りはスコットランド人たちの魂に息づき続けております。

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鄭成功

出典wikipedia

反清復明の闘士。

明人倭寇頭目の鄭芝龍と日本人武士の娘田川マツの子です。

鄭成功は7才まで生まれた平戸で過ごしますが、やがて父の故郷福建に移ります。

時は漢人系王朝の没落期。

首都北京を落とされ、北の遊牧騎馬民族女真族のの勢いに飲みこまれるばかりの情勢です。

そんなさなか鄭成功は父の手引きで明の皇帝隆武帝との拝謁がかないます。

そして、隆武帝は鄭父子を引き連れ、清に対し乾坤一擲(けんこんいってき)の北伐を開始。

しかし、結果は惨敗。

隆武帝はあえなく殺害されます。

ついに、父鄭芝龍は、復明闘争をあきらめることを成功に打ち明け、しかし、成功はこれを断固拒否。

成功は涙ながらに父と別れ、なおもレジスタンス活動をしぶとく続けてゆきます。

やがて、鄭成功はオランダ人の占領する台湾に兵を送り、オランダを追い出します。

そして、台湾を拠点として、なおも清には対抗。

鄭成功は今も台湾の国民的英雄です。

山中鹿之助

出典wikipedia

在世当時のみならず、江戸時代・戦前戦中を通じ「忠義の鑑」として圧倒的カリスマを誇りました。

今もその類まれな男っぷりに大変な根強い人気があります。

山中鹿之助はかつて山陰に覇を誇った尼子の旧臣。

しかし、中国地方に新たに台頭する毛利氏によって次第に押され、尼子氏はついに領国を失います。

しかし、山中鹿之助はあきらめません。

尼子氏の一族である勝久を見つけ出すと主君に立て、ほか各地にいる旧尼子ゆかりの者たちを集め、尼子氏再興を目指します。

その後、山名氏や織田氏などをたより、何度も何度も徒党を組んで中国地方へ進撃。

その都度、勢力圏を瞬く間に広げ、毛利勢を苦しめ、恐れられます。

一度は毛利両川の一角、生涯不敗の名将吉川元春によって捕まるも、「下痢」といつわり、何度も厠(かわや)通いをし、毛利側の監視が緩んだすきに脱走した、という逸話が。

その後も鹿之助の尼子一党はまた勢力を取り戻し、果敢に毛利との再激闘に身を投じてゆきます。

しかし、播磨(はりま。兵庫県西南部)上月城に大軍でもって囲い込まれ、ついに落城、再び捕縛。

そして、毛利側の刺客によって襲われ、その不撓不屈の生涯に幕を下ろすことと相成りました。

ただし、尼子再興軍はこれで全く解体されたわけではありません。

その後、一員の亀井茲矩が尼子残党の多くを糾合して豊臣秀吉配下として活躍。

その家系は因幡鹿野藩主→石見津和野藩主として明治維新を迎えております。

また、あの江戸時代の豪商として、今も名家として名高い鴻池は山中鹿之助の末裔を名乗っております。

ミトリダテス6世

出典wikipedia

小アジア黒海に面したポントス王国の君主です。

ミトリダテス6世12才の時、父王がなくなり、王位を継ぐことになります。

しかし、権力を掌握したい母らによってミトリダテス6世は監禁。

その後、なんとか逃げ出して荒野に過ごした後、捲土重来母にクーデーターを起こし、政権をもぎ取ります。

その後、知勇に秀でたミトリダテス6世は周辺諸国を次々と破り、強勢化。

ところが、そこに「待った」をかけたのが西側の超大国ローマ帝国です。

ミトリダテス6世はこれに対し、自領のローマ人たちを大量殺害(アジアの晩祷)。

ローマ帝国は当然これに怒り、ポントス王国との戦にふみきります。

激しい攻防はまさに一進一退。

両国でくりかえされる“ミトリダテス戦争”は合計3次にもわたり、一時の休戦をはさみながら期間はのべ約17年(※)

(※)その最終局面におけるローマ側の指揮官は第1次三頭政治の一頭を占めるポンペイウスです。

ローマ帝国をさんざんに苦しめたミトリダテス6世ですが、ついにおいこまれ自殺を試みます。

ところが、ミトリダテス6世、身の上が身の上なので毒殺を恐れてふだんから少しずつ毒を混ぜて食事を摂り、毒へのかなり強固な耐性ができあがってしまっていたのです。

下手に敵に捕まって毒で生殺しを食らってはかなわない、と部下に自分を殺させました。

なお生前、毒への研究に怠りなかったミトリダテス6世が製造にかかわった解毒剤“ミトリダティウム”はその後改良されて世界中に広がり、ペスト流行の時は特効薬として使用されました。

アポロシ・ナワイ

南太平洋の真っただ中に浮かぶ群島国家フィジー

今は美しいサンゴ礁の海などの自然豊かな南国リゾート地としてよく知られております。

ここはかつてイギリスの植民地であり、その理不尽な支配に苦しんでおりました。

しかし、これに堂々異を唱えたある男がおります。

「フィジーで採れるバナナはこんなに安くない!」

イギリスの都合で安く買いたたかれていることに憤り、フィジーでフィジー人はじめての会社を興します。

アポロシ・ナワイのスローガンは

「フィジー人のためのフィジー」。

さらに、アポロシ・ナワイはポロネシアならではの宗教観にキリスト教を取り入れた独自の宗教運動を展開。

当然、イギリス政府はアポロシ・ナワイをがっつりマークし、しょっ引いて、島流しをくらわします。

しかし、何年何度島流しをされてもアポロシ・ナワイのフィジー人への影響力は絶大。

ついにフィジー総督はアポロシ・ナワイのことを恐れるあまり「太平洋のラスプーチン」とまで呼び捨てました。

アポロシ・ナワイは流刑先で死去。

享年76才です。

ジャラールッディーン

チンギス・ハンのモンゴル帝国に生涯反抗をし続けたホラズム王朝の王子です。

ホラズムはもと中央アジアに栄えたイスラム教大国です。

しかし、チンギス・ハンのモンゴル帝国と戦争し、あえなく敗れ、国王ムハンマドはカスピ海の小島まで逃れます。

そこで、ついに寿命が尽き、後を継いだのが連れ添っていた王子ジャラールッディーン

何せ、ジャラールッディーンの野心は筋金入りです。

負けてボロボロになっても、その都度勢力を盛り返し、忽ちそこいらじゅうに攻めこんで征服していきます。

そんなジャラールッディーンにとって最大の敵があのモンゴル帝国。

ジャラールッディーンの対モンゴル戦最大のハイライトは1221年“インダス河畔の戦い”です。

先年にモンゴルの大軍を破ったジャラールッディーン。

しかし、これによりついにモンゴル帝国の偉大なるドルジ、あのチンギス・ハンが自ら本軍を率いてジャラールッディーン討伐に向かいます。

ジャラールッディーンはこれを知って自軍の不利から退却を始めますが、モンゴル軍の追撃の速さはすさまじいものです。

ついにはインダス河畔で追いつかれ、モンゴルによる猛攻にさらされます。

またたくまにホラズム軍は壊滅。

ジャラールッディーンもわずかな手勢とともに断崖へと追いつめられます。

こうしてついにだれもが「もはやこれまでか」と思った時にジャラールッディーンは思わぬ行動に出ます。

なんと、自分の乗馬もろとも断崖から飛び降り、インダス川にザブン!

そして、そのまま川を渡り切ろうとします。

この様子を見たモンゴルの兵たちは追撃しようとしますが、チンギス・ハンはとどめます。

そして、ジャラールッディーンが渡り切るのを見届け、居並ぶ諸将らに

「武勇の模範とせよ」

と伝えます。

ただ、ジャラールッディーンと彼に従う士卒たちは非常に残酷で獰猛。

最後は恨みを買ったクルド人によって暗殺されるというあまりに呆気ない生涯の幕切れとなりました。

享年は32才ごろです。

(モンゴル帝国の英雄チンギスハーン、フビライハーンに徹底抗戦して苦しめた7人の英雄についてはこちらの記事で。もちろん、ジャラールッディーンも含まれます)

ジェロニモ

出典wikipedia

19世紀後半、アメリカメキシコと戦ったアパッチ族レジスタンスのリーダー。

アリゾナ、ニューメキシコ一帯で入植者とネイティブの間における“アパッチ戦争”が激しさを増すそのころ、アパッチ族は略奪を昔ながらの生業として励んで暮らしておりました。

そんな折、メキシコ配下の州政府から

「軍にお酒や毛皮やトウモロコシを支給してくれるなら仲よくしようぜ」

と和平協定が持たれます。

これにアパッチ族は応じますが、実は州政府による陰謀。

出てきたアパッチ族の野営をおそい、手当たり次第に殺戮しました。

これを目の当たりにしたジェロニモはもともと柔和だった性格から復讐の鬼へと変貌を遂げます。

以後、ジェロニモはアパッチ族の戦士として精神的よりどころとして、神出鬼没。

演説にあっては仲間たちの闘争心をたくみにかきたて、戦場にあっては銃弾の雨嵐の中でもナイフひとつで大胆に駆け抜けます。

アメリカ政府もメキシコ政府もこれにはほとほと手を焼き、何度も討伐に向かいますが、思うような成果を上げられません。

そこでアメリカ政府側は「話し合い」といつわってジェロニモをおびき出し、捕らえることに成功。

ところが、これで終わらないのがジェロニモです。

ジェロニモはいっしょに収容されたほかの仲間たちとともに立ち上がり、集団脱走に成功します。

それどころか、収容所へと大挙して取って返し、残った仲間たちまで解放してしまいました。

その後もしたたかに抵抗し、独立不羈の精神を貫くジェロニモとアパッチ族でしたが、1886年ついに降伏。

その後23年間、ジェロニモは捕虜として生き、1909年80才の生涯を閉じました。

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