
知里幸恵(ちりゆきえ。1903年~1922年)。
明治の同化政策によって理不尽に廃頽(はいたい。すたれること)させられていたアイヌ文化。
自らがアイヌとして、そのすばらしさを再認識し、世に残し、目覚めさせようとした夭折(ようせつ。早くして亡くなること)の才女。
苛酷にあって光り輝いた生きざまを振り返ってまいりましょう。
アイヌの歴史

知里幸恵の人生に触れるにあたって、まず当時までのアイヌの歴史を踏まえておく必要があります。
では、ごく簡単にまいりましょう。
今のわれわれ和人は古来列島に先住していた“縄文人”と呼ばれる民族グループと、後に大陸から渡来してきた狭義の“弥生人”と呼ばれる民族グループがまざりあったその子孫だ、というのが定説となっております。
その中の縄文人のグループの中でも北方系、いわゆる“蝦夷(えみし)”と呼ばれていた人たちは、日本列島の中央部に興り、しだいに勢力を拡大した「大和王権」によって北へと押されてゆきます。
10世紀ごろから蝦夷はさらに北方に居住していたオホーツク人と融合、あるいは、排除、そういった過程が進む中で生活圏を北海道から樺太、千島列島と拡大してゆき、独自の文化を育んでゆきます。
彼らこそがアイヌ人、そして、その文化をアイヌ文化と言います。
その後も、和人による南からの圧迫は断続的に続き、近世に入ると、和商人による奴隷搾取のような状態が横行します。
さらに、明治に入ると、新政府は北方の強大国ロシアへの対抗の意味もあって北海道を当然のように統治下に置きます。
また、樺太・千島も同様に日本・ロシアの事実上支配下に。
日本領内では屯田の人々が続々と押し寄せ、アイヌの人々は彼らへの“同化”を余儀なくされます。
一方的に、かつ、大々的に土地は接収され、日本的な文化を強要され、露骨な差別にも濃密にさらされることとなります。
知里幸恵が生まれた明治36年のころには、若いアイヌは母言語を知らない、話せない、のがもはや当たり前、とすらなっておりました。
知里幸恵の生涯
知里幸恵の幼少期
知里幸恵は今の北海道幌別郡(今の登別市)の生まれ。
父高吉は地元のアイヌ名族の血を汲み、母ナミもさらにその母がシャーマン。
ただこの高吉はある時、誤って人を殺してしまい、被害者の遺族の暮らしも面倒を見るため(※)、かなり生活は苦しかったようです。
(※)高吉は自分から金額の工面を申し出たようです。誠実な人柄だったようです。
そのためもあって、高吉、ナミ夫婦はまだ6歳と幼い幸恵を旭川にいるナミの母金成マツ(アイヌ名、モナシノウク)のもとに預けることにします。
知里幸恵の学生時代
知里幸恵は学業に非常に優秀でした。
和語を生粋の和人より上手に使いこなし、しかも、アイヌ語にも非常に堪能。
何せ、同居していたモナシノウクはユーカラクル(ユーカラの謡い手)というシャーマンですから。
抜群の才覚に、その正統な神謡(ユーカラ)や種々の風習などを、最も身近なところから施してゆきます。
また、幸恵の性格は「大変に控えめで、自分の意見を押し殺し、むやみに誰かと衝突することを極力避け、大人びた雰囲気が漂っていた」という文献証拠が数多く見られます。
こんなですから、家族も「幸恵を旭川の女学校に入れよう」ということとなり、幸恵は受験します。
幸恵はそこで見事最も優等な成績に。
が、なぜか不合格。
「アイヌだから」「クリスチャンだから(※)」といろんな憶測を呼びます。
(※)幸恵と祖母モナシノウクはクリスチャンです。
そこで、幸恵は一年後旭川の実業学校を受けなおします。
今度は無事合格、入学できることとあいなりました。
しかし、幸恵は当校初めてのアイヌ学生。
やはり、在校生中でアイヌは幸恵ただ一人。
また、並外れて成績優秀だったため、周囲から大変なやっかみを受けます。
「生徒の中ではいつも孤立していた」ようです。
幸恵は本来、副級長にもなれましたが、周りとの軋轢(あつれき)を避けるため、自ら辞退しました。
知里幸恵の恋
ただ、知里幸恵の青春期は陰鬱(いんうつ)にばかり覆われていたわけではございません。
旭川で、ある一人の男性と恋に落ちます。
相手は年頃が同じぐらいの普通のアイヌ男性。
ただ、祖母や母は「相手が豊かな出じゃない」として反対します。
既に述べたとおり、母ナミはお金にだいぶ苦労しております。
なので、娘にはそういった苦労をさせたくなかったのかもしれません。
しかも、このころ、幸恵は自分が結核にかかっていることが判明してしまいます。
結核は石川啄木や宮沢賢治、樋口一葉、中原中也など、当時の多くの命を奪った死病です。
そもそも心臓病を患っていた幸恵は自分の短い生い先に見切りをつけた(自分と結婚しては、相手方が気の毒)のか、この男性と離縁することとします。
かわりに東京のある男のもとにあとわずかに限られたであろう生のすべてを投げうちに向かうのです。
金田一京助との出会い
その男との出会いはまるで突然でした。
名を金田一京助と言います。
京助は東京帝大出の言語学者。
アイヌの言語・風俗に強い関心を抱いているうちに「評判高いある少女の噂」を聞きつけます。
そこで、京助がたずねたのが幸恵の家。
京助は衝撃を受けます。
その少女とは、日本語がとても堪能で利巧。
そして何よりも欲していたアイヌの口承を実に膨大に正確に記憶し、豊かに描き出す文才にも恵まれております。
この時の京助の言葉です。
「だって幸恵さん、考えてごらん。あなた方は、アイヌ、アイヌとひとくちに、まるで人間と犬との合いの子でもあるかのように、人間扱いもされず、侮辱の名を忍んでがまんしている。あなた方は苦労しているじゃないか。しかし、あなた方のユーカラというものは、あなた方の祖先の戦記物語だ。詩の形にうたい伝えている、叙事詩という口伝えの文学なんだ。(略)叙事詩というものは、民族の歴史でもあると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖典でもあったものだ。それでもって、文字以前の人間生活が保持されてきたのだ。」
そうすると幸恵は目に涙をいっぱいに浮かべ、
「先生、はじめてわかりました。私たちは今まで、アイヌのこととさえいったら、なにもかも、恥ずかしいことのようにばっかり思っていました。そういう貴重なものを、アイヌには縁もゆかりもない先生が、そのように思ってくださいますのに、その中に生まれた私たちは、なんというおろかなことだったでしょう。ただいま目が覚めました。これを機会に決心いたします。私も、全生涯をあげて、祖先が残してくれたこのユーカラの研究に身を捧げます」
と答えました。
京助は勢い込んで「ともに東京で」と幸恵にさそいかけます。
が、幸恵は病気のことがありますし、年頃の少女でもあります。
また実家の都合もあり、延々と先のばしておりました。
が・・
最後に燃やした光

1922年、知里幸恵18歳の5月のことでした。
ついに、幸恵は北海道を後にすることにします。
向かう先は東京にある金田一京助邸。
当時、京助は幸恵より年が20近くも上で、すでに妻帯をしております。
子供の春彦も生まれております。
幸恵はそこに居候。
京助の助手としてアイヌ文学の翻訳、編集に懸命に邁進します。
こういった環境ですからいろいろと気兼ねすることは多かったでしょう。
一方で病状は悪化するばかり。
また、幸恵やアイヌをまるで研究対象としか見ていない京助の態度には次第に違和感を覚えだした、といわれます。
ちなみに、この頃の幸恵は「救世軍」と呼ばれるキリスト教組織にかなり熱心に帰依しております。
このあたりは独特な救世と幸福を願った宮沢賢治をも彷彿とさせます。
やがて、京助と幸恵は一編の著作をまとめあげます。
それが『アイヌ神謡集』。
そして、ちょうどその完成の夜、少女は息を引き取ります。
享年19歳。
知里幸恵の手記より
私は特に知里幸恵の遺したこの文章が好きです。
亡くなる半月ほど前に書かれたものなのですが。
「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサム(和人)のやうなところがある?!たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。」
幸恵は「外見は穏やか」と言われますが、このころの彼女の手記にある文章は痛ましいまでにどこまでもひたむきな情熱があふれ出すようです。
(↑知里幸恵の生涯についてまとめられた本です)
(↑学習漫画シリーズです)
知里幸恵とアイヌの意志は終わらない
知里幸恵には6つ年下の弟真志保がおります。
真志保も非常に優秀で、学業に頭角を表しますが、家が貧しいためやむなく地元の役場に勤め始めます。
しかし、その才を惜しんだのが金田一京助。
京助は真志保を自邸に住まわせ、真志保もそれに応えて一高に見事合格を果たします。
その後、真志保は北海道帝国大学の教授となり、アイヌの研究を引き継ぎ、今の『アイヌ学』へとつながる偉大な業績を残しました。
今私たちが見ることが聞きことが感じることができるアイヌの文化。
彼らの思いは、私たちの心に大いなる灯をともし続けております。
アイヌ文化の紹介
イオマンテ(熊送り)

アイヌには独特の自然崇拝の文化があります。
そのもっとも代表的なものの一つがイオマンテ(熊送り)。
北海道に生息するヒグマを神として崇め、「より高位なるもの」に昇華していただくべく、神々の世界へと送り返します。
みなで盛大に宴を催し、そのヒグマの肉を余さず食し、毛皮も衣服や絨毯などに利用しつくします。
最近は動物愛護の観点からこの祭りは自粛されております。
アイヌの民族音楽と舞踊
(引用youtubeより「レクッカラ」)
アイヌには「ウポポ」「ユーカラ」「リムセ」「レクッカラ」など、それぞれの地方、用途によってさまざまな民族音楽と舞踊を持っております。
「ウポポ」はアイヌ語で「歌」を意味します。
「ユーカラ」は神謡と訳され、一種の「叙事詩の語り」です。
「リムセ」は歌と踊りの混ざったもの。
「レクッカラ」は女性同士が向かい合ったまま自分の口を両手で覆い、喉で即興の音を奏であう遊びの一種です。
アイヌの食
(引用youtubeより「オハウ」)
一番有名なのが「オハウ」でしょう。
塩ベースのアイヌ・スープ。
優しい味です。
また、石狩鍋や三平汁など、北海道にはアイヌ食がルーツになっているご当地グルメがたくさんあります。
ルイベはサケやマスなどを冷凍保存した刺身。
また、ユーカラにはギョウジャニンニク、イクラの登場が目につきます。

(↑アイヌ文化の基礎教本です)
追伸
そもそも私がアイヌの歴史・文化に関心を抱き始めたのは1冊の歴史教本からです。
その冒頭には
「日本は単一民族国家ではない」
と記されており、瞠目した思いでその先を読み進め、どんどん引き込まれてゆきました。
たとえば、われわれはまるで当たり前のように北方領土は日本の領土と教えられます。
また、まるで当たり前のようにロシアはそこを実効支配しております。
私のこの記事では日本国内のことしか触れておりませんが、ロシア領内でもいろいろとあったようです。
また、日本国内にはほかにもいろんな人や民族が暮らしてらっしゃいますし。
そもそも自然の中に私らは生きておりますし。
私が言えた義理ではありませんが。