
幕末という時代。
あの日本中を揺るがす大激動にあって、何かと脚光を浴びるのは名の残る人々ばかりという歴史の常。
でも、ふつうにあの時代を経験した人たちってそんな人々より、こっちの方が圧倒的に多いはず。
農民です。
そもそもあの時代の農民ってどんな具合だったのでしょう。
ほとんど知られていないのが現状です。
ということで、今回はそんな彼らの日常とサバイバルにクローズアップします。
誕生

これはよく知られた話ですが、江戸時代はまだ「7才までは神のうち」と言われております。
平均寿命は40才前後。
と言っても、杉田玄白、伊能忠敬など60、70と長生きする人も結構おります。
なぜでしょうか。
つまり、乳幼児の死亡率が非常に高いのです。
たとえば、12代将軍徳川家慶の子は27人中成人したのはたったの1人。

まあ、この時代、貴人の方が若死にが多かったのですが。
その大きな原因として指摘されるのが、この時代例のごとく使用されまくっていた白粉(おしろい)。
鉛白という鉛が混ざっておりました。
リアルにとても有毒です。
とはいえ、そもそもこの時代は今よりずっと栄養状態が悪く、また、医療も未発達。
出産し、子供として成長する、というのは大変なリスクを伴うことでした。
幕末の始まりは農民にとってあまりに過酷だった・・
そもそも幕末なんて激動の時代がやってくるには相応の理由があります。
よく「内憂外患」なんて言葉がありますが、まずは内憂。
そして、これはあまりに深刻です。
では、その経緯を振り返ってみましょう。
大御所時代

今でいう大御所時代(※)の末期。
(※)徳川第十一代将軍家斉の時代
幕府による大緩和策(※)によって都市部を中心に好景気でわき返っております。
(※)公共投資しまくり、質の悪い貨幣も発行しまくり、株仲間を奨励
文化は大変に華やぎ、たとえば歌川広重が東海道五十三次シリーズを続々と売り出したのはこのころです。
一方、賄賂などが蔓延し、綱紀は大いに乱れております。
そして、すでにお察しかもしれません。
そうです。
このころの末期と言えばこれを忘れてはなりません。
天保の大飢饉

大飢饉。
東北地方を中心に度重なる天候不順。
作物の実りが著しく落ち込み、5年間で全国120万人の人口減少が記録されております。
そして、人が人を食べる、という光景まで。
飢えで当たり前に人が死ぬ、そういう世の中でした。
都市部に逃れても、その深刻さは変わりません。

米の値段は急騰。
この時代の庶民というものは今では考えられないくらい米などの穀物に依存して暮らしております。
おしんこや汁物といったごく質素でわずかなおかず(※)をあてに白米などをモリモリ食べて(1日5合と言われます)日の活力としていました。
(※)肉は鶏が高級食材です。卵ですら貴重です。それよりは雉や鴨。牛馬豚はふつう食べる習慣がありません。猪や鹿などはあります。魚は流通も遠洋漁業も発展していないので、思われているよりずっと少ないです。あとは野菜や果実、山菜、大豆系食材など。この時代はとにかく穀類、とにかく穀類です。そのせいか、この頃来日したある外国人は「日本人がやたらお腹が出ているのはお腹の中で膨張する米ばかり食っているからだ」と記述しております。
幕府は歴代、田畑をとりもあえずたくさん造らせ続けましたからね。
ただ、天保の飢饉ではそれが崩れました。
都市部でも貧窮、餓死者が続出です。
天災、人災はまだまだ続々・・

それから10年ほどして安政の大地震・大津波が全国各地をおそいます。
さらにあわせるようにして異国船などのうわさが……。
生き残った者の苦しみ・・

これで生き残ったとしても、その傷跡はそう易々と癒えるものではありません。
実際、生き残るために足りない分、これをどうしたって補わなければなりません。
たとえば、借りなければなりません。
しかし、貸し手もしたたかなもので、こんな時代にそう易々とは貸してくれません。
どうしようもなくなった借り手はこういった手に訴えねばらなくなります。
抜地

抜地(ぬきち)といいます。
つまり、本来の土地の担保では貸してくれないので、本来より水増しした土地を担保にして貸しを募るのです。
これがなかなかにくせのあるシステムでして。
つまり、担保した“水増し土地”は貸し手名義になってしまいます。
ということはそこで年貢をはらわなければならないのですが、それが“水増し土地分”となってしまうのです。
村社会による融通

よく知られている通り、当時の農村は圧倒的に“村社会”です。
農村は村民たち一人一人の暮らしを守るため、一丸となってかわりにお金や担保を出し合ったりして融通しあいます。
だれかの土地が「質流れ」で没収されたとして、後年になって村で巨額の資金を何とか工面し、取り返した土地の一部をそのだれかに分け与えた、ということもままあります。
「個々よりも結束する」
弱者による生存の知恵です。
そして、人情の世の中ですね。
ただもちろん、村の論理に従えなければ、“村八分”があります。
人によっては「いろいろとめんどっちい」ことは間違いないでしょう。
なお、今でも途上国に行くと、こういった風土を肌で味わえます。
彼らは文明に恵まれない代わりを、“自分たちにあるもの”で必死に補おうとします。
すると、リサイクル精神・質実剛健・相互扶助・創意工夫などがおのずと鍛えられてゆく、といった具合です。
治安の悪化、そして……

こちらでもあちらでも訴訟沙汰が横行するようになります。
無宿者、さらには博徒、賊などがたくさん出てまいります。
幕末になって近藤勇だの渋沢栄一だの天野八郎だの、なぜ百姓があんなに熱心に剣を学ぶようになったか、というとその大きな原因の一つがこの治安の悪さと言われます。
「ご公儀(幕府)や藩、武士などというものは当てにならんから、自分や自村は自力で守れ」
ということです。
そして、行き着く先は当然↓こうなります。
江戸時代の“家”について

この時代、長男は家を継ぐのがやはり至極普通なところです。
もともとは何よりも土地が財産。
決められた土地というものは往々にしてあなたやあなたの父・祖父の代ぐらいに発生したものではありません。
それよりずっと遠い先祖から。
彼らはその決められた大事な財産を「何とか減らすことなく。あわよくば増やして、次の代へ」というのをモットーみたいにして受け継ぎ続けました。
長男でないなら、
●他家への養子
●長男家に残って支える
●都市へ出る
さらには
●分家を立てる
という選択肢もあります。
江戸も時代がだんだん下ると、豊かになってきてわずかな土地からでも商品作物を作るなどして、自立がやりやすくなってきました。
実はここがとても大事なポイントです。
つまり、その人の器量次第で成功する人は成功する、一方で挫折する人は挫折する、いわゆる“格差社会”がじわじわと進行してきております。
江戸時代の結婚事情

また、江戸時代の結婚についても話しておきましょう。
意外かもしれませんが、江戸時代は離婚・再婚が多いです。
この時代、妻に求められるのはまずなによりも跡取りを産むこと。
出産ができない、などが判明すると、早期に離縁されることがままありました。
ただ、長期の夫婦になると、離婚するケースはかなり少なくなってゆきます。
またやはり、嫁姑問題は今よりかなりきついようです。
農民の激動はまだまだ続く

さて、ここまででもずいぶんいろんなことがあったでしょう。
しかし、時代のさらなる大いなるうねりはすでにひたひたとそのすぐ後ろまで忍び寄っております。
そう、戊辰戦争です。
(戊辰戦争と農民についてはこちらの記事で)
戊辰戦争はやがて片が付きます。
が、“御一新後”も地租改正・松方デフレなど大きなイベントは続々と控えております。
まとめ
- 幕末は天災が相次ぎ、農民の暮らしもかなり混迷していた
- 幕末の農民の暮らしではやはり家・村中心の社会観が根強い
- 幕末の農民はさらに百姓一揆・戊辰戦争も身近に差し迫った問題