歴史上特に畏るべき怨霊伝説当事者6柱

歴史
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日本には、ならではの“怨霊伝説”があります。

そして、それが特に盛んだったのが古代。

その時代の主だった人が不幸のうちに亡くなってしまうと“祟る”といわれます。

そんな中から特に有名な畏るべき歴史的当事者を6柱紹介しましょう。

特に有名な怨霊伝説当事者6柱

長屋王

生没年:684年~729年

父親は天武天皇の長男高市皇子。

母親は天智天皇の皇女御名部(みなべ)皇女。

申し分ない血統で生まれた長屋王は奈良時代に活躍しました。

従二位右大臣にまで昇進。

まだ発足して間もない律令制度の不十分な点を意欲的に修正。

税や賦役を状況に応じて軽減・免除するなど、民政においても手厚い策を次々と打ち出しております。

しかし、突如として

「まじないをし、国家をかたむけようとしている」

と告発され、近衛兵たちがその屋敷内に乱入してあらためられます。

「その先日に亡くなったばかりの基皇子(もといのみこ※1)を呪い殺した」

とされ、長屋王とその一族の多くが首をくくり、自殺しました。

一般的にこの事件は藤原四兄弟(※2)の陰謀とされますが、今もむかしもほぼ定説とされております。

事件後ほどなくして、天然痘がはやり、藤原四兄弟は相次いで亡くなってしまいます。

さらに長屋王を“告発”した中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)は大伴子虫に突然斬り殺されてしまいました。

(※1)聖武天皇の第一皇子。生まれて間もなく死去。

(※2)藤原不比等の息子たち。武智麻呂(南家の始祖)。房前(北家の始祖)。宇合(式家の始祖)。麻呂(京家の始祖)

早良(さわら)親王

生没年:750年?~785年

光仁天皇の皇子。

奈良時代末期の皇族です。

737年、政府の要人である藤原種継(たねつぐ)が暗殺されるという事件がありました。

これにともない、“事件を企てた”とされる者が数多く摘発され、早良親王も“連座”として淡路に流されることになります。

早良親王はこれに無実を訴え、絶食をおこないます。

そして、淡路にたどりつくことなく死をむかえます。

すると間もなく、桓武天皇の母や妻などの近親が次々と亡くなり、当時出来上がったばかりの長岡京はおろか畿内に広く疫病が蔓延、皇太子も重病におちいります。

ほどなく平安京遷都が行われますが、その本当の理由は早良親王の祟りを恐れてだといわれます。

桓武天皇は淡路にある早良親王の墓を入念に供養し、崇道天皇の尊称を追贈しております。

菅原道真

生没年:845年~903年

大変な秀才で知られる平安時代前期を代表する朝廷政治家です。

中流貴族の家系でしたが、あまりに優秀だったことと、藤原氏の勢力が一時的に弱体化していたこともあって素晴らしい勢いで右大臣まで出世してゆきました。

財政を中央集権化させたり、当時衰退傾向にあった唐への留学制度いわゆる「遣唐使派遣」を廃止させたことで知られております。

しかし、そういった的確で大胆な政治手法や急激な立身がまわりに警戒されたのか、突然「大宰権帥(だざいのごんのそち)」に左遷されてしまいます。

この左遷の中身はかなり厳しかったようです。

●道真の子どもたちの多くが流刑に処される

●任地におもむくまで、あるいは着いてからも刺客などに命をねらわれる

●役職は名ばかりで実質的な権限をあたえられない

●あばら家に住まわせられる

この屈辱にはかなり恨みを飲んでいたようです。

間もなく道真は亡くなりますが、その6年後に大いなる政敵藤原時平が病死。

さらにその4年後には時平と組んで道真を失脚させたという源光が突然堀の中に落ちて溺死。

ほかにも生前の道真にあだなしたといわれる人やその近親に不幸が相次ぎ、ついには御所の清涼殿に雷が落ちるという事態になりました。

人々はこれをとても恐れ、菅原道真を天神様としてあがめたてまつることを決めます。

そして、今ではかの人の生前のたぐいまれな秀才ぶりからあやかって“学問の神”として人々の信仰の的となっております。

平将門

生没年:不詳~940年

平安時代中期における関東の有力な武士団のリーダーです。

ある時、地方政府の倉をおそい、罪人とされた藤原玄明という男が将門をたよってきます。

この時、いかな事情があったのか、細かいところはほとんどわかっておりません。

地元を取り仕切っている男の侠気が働いたのでしょうか。

玄明をかくまい、地方政府と戦争になります。

平将門はこれを打ち破りまたたくまに関東一円に支配圏を広げ、“新皇”と名乗ります。

ちょうど、そんなおりに瀬戸内海で乱を起こしたのが藤原純友

朝廷は東西からまさに挟撃の態。

ここ数百年無かった未曽有の危難です。

が、それも一時的でした。

朝廷側は次第に押し返しだすと、やがては両方の乱を鎮定。

平将門も藤原純友もあえなく討ち取られることとなります。

こうして将門は死体の首をはねられ、それを京の七条川原にさらされることに。

しかし、いつまで経ってもその姿はまるで生きたままのように生々しく、その目は大きく見開かれ、歯ぎしりをしているようだったと言われます。

やがて、その首は急に高らかに笑い始めると、いつどことなく地は鳴り響き、雷が轟きわたり、

「体と付けて、もう一戦やろうじゃないか。俺の胴はどこだ!」

と一声あらげると、東を目指して天高く飛翔していったとか。

そして、その首がついに降り立ったのが東京の神田明神の地だといわれます。

平将門の祟りは近現代においてもその顕現はあらたかとされ、とても畏れられております。

たとえば、関東大震災のあと、大蔵省の新庁舎を造るために平将門の首塚をこわしたことがありました。

すると、それからわずか2年の間に大蔵省内で大臣をふくめた14人もの人たちが相次いで亡くなりました。

さらに、戦後すぐにはやはりアメリカ軍が首塚を接収しようとしたことがありました。

すると、そのブルドーザーがひっくりかえり、運転していた人が亡くなりました。

高度成長期に入ってもすぐそばのビルで首塚の方を向いた部屋の社員たちが次々と病気となってゆきました。

ただ一方で、平将門をまつる神田明神は生前の彼の遺徳にあやかり、「勝運に御利益あり」と親しまれてもおります。

崇徳上皇

生没年:1119年~1164年

平安末期、生まれて間もなく天皇に即位。

しかし、実権は父、鳥羽上皇らによってにぎられたまま。

崇徳上皇満22才の時、強引に譲位をせまられ、弟でまだ満2才の近衛天皇に明け渡します。

当時はいわゆる“院政期”。

上皇が権限を握っておりましたが、それは“天皇の父親”である場合にかぎられます。

つまり、崇徳上皇はまたしても周囲の都合によって名ばかりの地位におしこめられたのです。

しかし、近衛天皇は間もなく亡くなります。

すると今度もまた別の弟である後白河が天皇に。

やがて、父、鳥羽上皇は重病におちいりますが、崇徳上皇の見舞いまでも拒否し、そのまま崩御してしまいました。

崇徳上皇はついに“決起”を決意します(保元の乱)。

武士や公家に味方を募りますが、思うように集まりません。

こうして政争に敗れ、讃岐(さぬき。今の香川県)に流され、軟禁状態に置かれます。

崇徳上皇は罪滅ぼしとして五部大乗経を熱心に写経。

仕上げて京に送ろうとしますが、後白河天皇が

「のろいがこめられているのでは」

と拒絶。

これを聞いた崇徳上皇はついにこみ上げる怒りで

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

と、経に自分の血で書き付け、爪や髪を伸ばし続け、生きながら夜叉のような姿になっていったといわれます。

やがて崇徳上皇は崩御しますが、以後後白河天皇の身近で死が相次ぎ、ついには政権が朝廷から武家に移り変わるという日本史上始まって以来の事態がやってきます。

後鳥羽上皇

生没年:1180年~1239年

源平合戦熾烈な頃、生まれました。

間もなく都落ちの平家によって『三種の神器』が持ち去られます。

さらに壇ノ浦の合戦で伝家の宝剣“草薙剣(くさなぎのつるぎ)”が海中に沈みます。

後鳥羽上皇はこうして日本史上初めて宝剣なきままの天皇となります。

後鳥羽上皇は文武に秀でております。

乗馬や弓をよくし、和歌においては百人一首に選定されるほどです。

しかし、政治の実権は武家に移り、やがて鎌倉幕府とのあつれきがのっぴきならなくなり、衝突をむかえます。

後鳥羽上皇は武士らに決起をうながしますが、思うように味方が集まりません。

こうして、鎌倉幕府に敗れ(承久の乱)、日本海の真っただ中にある隠岐の島へと流されることになります。

後鳥羽上皇はなおも、京への思いを抱き続けておりましたが、何年経っても帰郷の許しの声がかかりません。

ついに隠岐にあって18年目に当地で崩御。

後鳥羽上皇は死に際して、

「万一私のこの世への思いで魔物になることがあればこの世に災いを起こすだろう。そして、もし私の子孫たちが天下を取り戻すことがあれば、それはすべて私による力だ。」

と言い残しました。

すると、後鳥羽上皇の死後、承久の乱の時後鳥羽上皇にあだをなした武将や後鳥羽上皇直系ではない天皇が次々と亡くなります

そして、後鳥羽上皇の子孫に天皇位がまさに“承久の乱”以来返ってきます。

以後700年あまり、この血統が天皇本宗家として今も脈々と受け継がれ続けております

追伸

“怨霊”というと一見するといかにもおどろおどろしいイメージがあります。

しかし、それは歴史に敗れ去った人たちの存在や事績を再確認し、おそれ、あがめたてまつるということ。

こういった信仰が根強いのはまさに日本ならでは。

そういった優しさを思いつつ、“たたら”なければならなくなった人々はみんなやっぱり気の毒です。

6柱の方々の祟りを恐れつつ、また、彼らのご冥福と、彼らによるご利益を、と虫のいいことを思いながら今、二拍三拝しております。

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