
天保の大飢饉。
その十年後には安政の大地震・大津波の被害が全国に。
何とか生き延びても、一度ついた深刻な傷跡はそう易々と癒えるわけではありません。
無理な借金などにより、家も村も貧窮が相次ぎ、社会不安は悪化。
巷では黒船など異国船の噂などがしきり。
こんな末の時代に各地から打ちあがる狼煙。
百姓一揆。
世直し一揆とも言われます。
いったいどんな実情だったのでしょうか。
ある実例をもとにひもといてみましょう。
農民も自衛

幕末になると近藤勇や天野八郎(※)など、庶民から当たり前に剣豪が続々生まれてきます。
(※)上野彰義隊のリーダー格。好きな将棋の駒は、男なら横にそれず前進あるのみ「香車」。上野戦争後新政府側に捕縛され獄死。
そもそも近藤らの身に着けた天然理心流は江戸時代のほかの平和剣術とはちょっとわけがちがいます。
本当に“敵を殺す”ことを目的とした非常に実践的な剣法(※)。
(※)江戸時代の始まりを告げた柳生新影流の活人剣とはまさに対局です。
強いわけです。
そもそもおかしいと思いませんか。
なぜ、お百姓の彼らがこんな本気で“人を殺す”剣法を身に着けたのか。
幕末は本当に“荒れていました”。
かといって政府やお侍なんかはまるであてになりません。
自衛の措置が急務だったのです。
武装と農兵隊

江戸時代もこのころになると、百姓でも武装するようになります。
さすがに普段不必要に使うことは差し控えましたが、鉄砲なども大量に所持してゆくようになります。
天保9年には下野国壬生で“隠し鉄砲”が104丁摘発されております。
しかも、彼らは農兵隊を独自に指揮するようになります。
幕末の農民社会には格差が広まっていた

とまあ、こんな有様ですから、百姓一揆も多発するわけです。
ただし、この時代の百姓一揆はよく知られている「江戸時代の典型的な百姓一揆」とはちょっと性格が違います。
というのも、百姓一揆と言えばふつう「百姓vs武士」とした構図で捉えられがち。
ですが、幕末によく見られた百姓一揆の場合、「百姓vs百姓」なのです。
「これはいったいなんのことか」と言いますと、この時代の社会構造をひも解けばすぐにわかります。
というのも、幕末までになると、商品経済が以前と比べてだいぶ活発になり、百姓の中でも「勝ち組」と「負け組」の格差があからさまになって来るのです。
上手い人は、ちょっとした空き地に菜種や紅花なんかを植えて育てて、いい利益を生み出し、さらにそれを元手に多角経営に乗り出したりします。
二宮尊徳なんてのはそういうやり方で極貧から立身し、ついには「経済再生仕事人」として(※)、各地の村や没落武家を貧困から救っております。
(※)今ならスガシカオさんが主題歌を歌う、NHK某ドキュメンタリー番組に紹介されそうなぐらいの奇跡の凄腕でした。
その代わり、統計では、没落する農民の割合はそれまでの時代より明らかに増えております。
(幕末の農民の実生活についてくわしくはこちらの記事で)
では次に、この時期実際に起こったある百姓一揆を例にとり、そのよりくわしい実態を見ていきましょう。
万延元年の百姓一揆
大江健三郎さんの小説によく似た名前のがありますが、注意してください。
こちらで紹介することをおさえておくと、あちらの小説の内容もより生々しく入ってきます。
万延元年(1860年)。
井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起こった年です。
羽前の国、今の山形県にて。
そう、ここは天保の大飢饉で特に深刻な被害を被った東北地方に当たります。
主導者はだれ?

まずこの一揆、主導的役割を果たしのはだれでしょう。
普通の百姓一揆なら、庄屋さんとか、村で何らかの指導的役割の人を彷彿とさせるでしょう。
が、この百姓一揆は違います。
ていうか、これが当時のスタンダード。
いわゆる“あぶれ組”です。
度重なる天災や人災で疲弊し、食い詰めて、無宿人、博徒、賊などに成り下がった人たちです。
彼らが、不平浪人や一部の一般農民まで取り込み「やけっぱち」で火の手を上げました。
世直し
彼らの旗は「世直し」です。
これもまた当時の流行です。
この頃の百姓一揆は「世直し一揆」とすら言われるほどです。
もちろん、実態は例のごとく、弱者による強者への暴力革命の一種、で間違いありません。
当座の標的は?
で、すでにチラリと述べました。
彼らの標的は無茶な年貢をむしり取る藩や、その体制下にある、いわゆる武士階級でもありません。
そうです。
農民の中の“勝ち組”です。
つまり、庄屋など。
村々の庄屋の多くは一揆方に財を根こそぎむしり取られ、年貢や賦課などを記した諸帳面は手当たり次第に破り捨てられたあげくに
「“万民にほどこすための”金をこれだけ、何が何でも用意しろ」
などのかなり無理な強要もされました。
また、“飯炊き”を求められ、何とかそれだけで見逃してもらった家もあったようです。
従うか、従わざるか

一揆勢に襲われると大変です。
まず、石を投げつけられる。
家財はひっぺがえされる。
家は壊される。
火を点けられる。
女子供はさらわれてゆく。
で、もともと部外だった農民たちも「世直しに同心するか。反抗するか」を否応なく迫られてゆきます。
ちなみにこの百姓一揆の場合、一度同心すると、“抜ける”のはなかなかむずかしかったようです。
というのも“新参組”は意図的に隊列の真ん中のあたりを歩かされます。
で、周りを“ご先輩方”ががっちり固めるのですね。
何とかやり過ごそうとする農民たちはとりあえず避難。
家族を伴って山などに逃げ込みます。
結末

結局、あれだけ一時は猛火の勢いとなって村々を飲み込んだ一揆もやがて終息。
一味の多くは間もなく御用となり、裁き、とあいなりました。
ただ、村々には付けられた新たな傷跡が残ります。
それは分断です。
こういった光景があの頃、日本中のあちらこちらで展開されておりました。
ただ、時代はなおも容赦をしないのですね。
そう、次は戦争です。
(農民の戊辰戦争について詳しくはこちらの記事で)
まとめ
①幕末は度重なる天災などにより治安がかなり悪化している
②幕末になると、農村でも武装化が目立ち始める
③幕末になると、百姓一揆のターゲットは政府・武士から庶民へとシフトしてゆく
あんまりベタなことを書いちゃいますが、歴史なんてのは勝者によって語られがちですよね。
そもそもこの百姓一揆だって、一揆方が勝っていたら、その奇跡の“正義物語”が当たり前に語り継がれていたはずでしょう。
参考文献
この記事について、こちらにもっとくわしく載っております。