幕末の流れを決めた“四侯会議”とは?

歴史
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慶応3年5月。

幕末の一つの流れを決めた「四侯会議」

では、その中身とはいったいどのようなものだったのか。

“わかりやすくまとめてご”紹介いたします。

四侯会議前夜

島津久光

あくまで幕府主導で日本を引っ張っていきたい“幕府”。

諸大名連合の国政にもっていきたい“薩摩ら諸藩”。

朝廷の中でも勢力は両派に分かれた状態。

そこで薩摩藩はほかの諸藩を巻き込み、幕府との談判に持ってゆきます。

ここで会議に参列することになった“四侯”

●薩摩藩:島津久光

●越前藩:徳川春嶽

●土佐藩:山内容堂

●宇和島藩:伊達宗城(むねなり)

主に上がった議題は3つ。

議奏の欠員をだれがうめるか

議奏とは朝廷の官職の一つです。

長州藩のあつかい

長州藩は“尊王攘夷”があまりにも過激で、朝廷からも「敵」とされ、「禁門の変」で鎮圧され、まもなく「第1次長州征伐」に降伏しております。

しかし、すでに裏では坂本龍馬の活躍などにより、薩長同盟が取り結ばれております

坂本龍馬

兵庫開港問題

1858年日米修好通商条約が締結。

兵庫港は1863年から開港される運びとなっておりましたが、異人嫌いの孝明天皇が京都に近い兵庫の開港を断固拒否します。

しかし、1865年にアメリカ・イギリス・オランダ・フランスの連合艦隊が兵庫沖に停泊。

開港をせまっておりました。

決戦!!四侯会議

ラウンド1

まず、序盤に議事が白熱したのは

議奏の欠員をだれがうめるか

についてです。

四侯は親幕府派の二条斉敬(なりゆき)摂政邸を訪れ、激しい討論が交わされます。

島津久光はここぞとばかりに自分とねんごろな公卿を推挙。

が、斉敬はもちろん受けません。

「先帝(孝明天皇)の叡慮」

自分をとても信頼してくれていた亡き天皇は尊王攘夷でも過激すぎる人材を嫌っていたため、これを盾に斉敬はふんばります。

久光に、

「それならば先帝の叡慮に従い、慶喜が要求する兵庫開港も断然拒否なさるか」

と詰め寄られても、

「暴論なるべし」

とあくまでつっぱねます。

こうして結局は親幕府派の公卿補充で押し切られることとなります。

ラウンド2

さて、日を改めていよいよ二条城で将軍徳川慶喜が登場!

ここでまず議論が分かれたのは

長州藩のあつかい

兵庫開港問題

と、どちらを優先するかです。

久光は「長州を大目に見てやる」ことをここぞとばかりに主張。

慶喜はそんなもの論外に決まっています。

「兵庫開港の期限はあと1年にせまっているんだから」

とせかしたてます。

結局お互いの意見は行き別れたまま、みんなで記念撮影をしてお開きとなりました。

ちなみに慶喜。

維新後は悠々自適で写真趣味となります。

ラウンド3

いつまで経っても双方の妥協点のまったく見いだせない中、23日、山内容堂と島津久光はすでに欠席です。

なおも激論の中、慶喜はねばりにねばり、ついに会議は徹夜決行です。

こうして、結局「兵庫開港」と「長州を大目に見る」ことが明治天皇の勅許として下されることとなりました。

納得のいかない薩摩はこれをきっかけにして“倒幕”にふみきるおおきなきっかけとなります。

まとめ

①四侯会議の主要な3議題は「議奏の欠員をだれがうめるか」「長州藩のあつかい」「兵庫開港問題」

②島津久光ら反幕府派の鋭鋒を交わすべく、将軍徳川慶喜は“記念撮影”をしたり、“徹夜でも粘りに粘りに粘り抜き”、痛み分けのままお開きとなった。

③四侯会議の結果に納得のいかない薩摩藩はこの後、“倒幕”に踏み切ることとなった

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