ダメ戦国大名?列伝②山名豊国

歴史
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ゲームではびっくりするくらい数値が低く、小説などではすぐにあっちへこっちへと節操もなく鞍替えするちょっと困ったお殿さまです。

こうして一見して典型的なダメ戦国大名のレッテルをはられてしまった山名豊国(1548~1626)ですが、知れば知るほどにいろんな味わいが深まってまいります。

弱肉強食の世の中で、武士の世の中で、無能とあなどられ、無節操者と後ろ指をさされ、それでもなお生き残りの末に彼がいたった境地とはどんなものだったのでしょう。

戦国の習いを生き抜いて

没落名家に生まれて

(↓山名家系図)

山名豊国の生まれは清和源氏の名門山名氏。

室町前期には六分一殿(ろくぶいちどの)とよばれ、全六十六か国のうち十一か国の守護職を兼ねた超名門です。

が、一族(山名当主宗全が西軍大将)が引き起こす大きな要因ともなった「応仁の乱」以来、時代の荒波にもまれ、退嬰基調のやむなきにありました。

東には織田が、西には毛利が強勢化。

早、山名も彼らと対等に渡り合うようなことはもうできませんから、今日は織田に、明日は毛利に、とその時々の情勢に合わせて、言い方は悪いかもしれませんが、「こうもり」のように、両陣営を天秤にかけて渡り歩き、どうにかしたたかに生き残っていたのであります。

豊国のお父さんは豊定。

山名当主祐豊の弟であり、祐豊は但馬(兵庫県北部)、豊定は因幡(鳥取県東部)と受け持ちあう間柄です。

そして、豊国のお母さんは細川京兆家当主高国の娘。

高国は一時、京に政権を打ち立てたほどの人物ですから、豊国の名門血脈ぶりが際立つのは言うまでもありません。

また、豊国の伯父である山名当主祐豊は、この高国を裏切り、やがて高国は滅亡した、というのは豊国の人格形成にかなり大きな影響を与えているはずです。

引用wikipedia細川高国

そしてもうひとつ、豊国については豊数というやがて因幡山名の家督を継ぐお兄さんがいたことも特筆しておくべきでしょう。

ただ、この兄弟はやがて仲たがいします。

山中鹿之助さんに助けてもらいました

山中鹿之助の兜の前立ては三日月です

因幡岩井城の主となっていた山名豊国。

が、兄・豊数と争い、城を追われてしまいます(山名豊数は幼名九郎。ちなみに山名豊国は自分の子どもに右衛門と名付けております。当てつけでしょうか)。

当時の因幡はいろんな大小勢力が入り乱れて、大変ややこしくなっておりましたし……

その後、兄豊数も家老の武田高信の反逆によって国を追われ、ついに室町初期に山名の家運を大いに興した時氏以来、因幡は事実上初めての山名氏以外による支配を許すことに。

が、ここが当時の戦国山陰のややこしさです。

武田高信は毛利家の傘下勢力。

つまり、その宿縁の敵がおります。

山陰の麒麟児山中鹿之助擁する尼子再興軍です。

山中鹿之助は山名豊国を担ぎ上げると、目の覚めるような巧みな軍略で武田高信(※)の大軍を大破、駆逐。

(※)武田高信は後に毛利に見捨てられ、山名豊国に謀殺されました。高信の子助信は後、山名豊国に200石で召し抱えられております。

おかげで豊国は瞬く間に因幡一国の主にまでのし上がることができました。

いつも他人のおかげと言えば確かにそうです。

が、豊国にはこうした一躍大立身の実績もあるんです。

なおこの時、豊国は

「自分の功は劣る」

として、本丸城主の地位を鹿之助にゆずり、当人は二の丸の地位に甘んじました。

娘は大事です

が、今度は鹿之助らと敵対する大藩毛利が生涯無敗の戦巧者吉川元春を総大将として攻めよせてくると降伏してしまいます。

そして今度は織田方の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に攻め立てられると、また転身。

この時の“肝”と言われるのが豊国のです。

そもそも山名豊国自身、なかなか目鼻立ちの整った“公達系”の男前。

引用wikipedia
山名豊国

とても凛とした姿勢で、尋常ならざる気品・緊張感を感じます。

和歌・連歌・茶道・有職故実などに精通したかなりの文化人でもありましたし(ちなみに山名豊国の母方の祖父、細川高国も作庭などに大変評判高い文化人です)。

どんな娘さんだったのでしょう。

そんな彼女が秀吉に身柄を抑えられるのです。

もし、しっかりした戦国大名なら、娘を見殺しにしてまで自分と部下らのメンツを保ったでしょう。

でも、山名豊国はちがうのですね(この人の前半生を見ていると、「何が山名だ」「何が家臣だ」と言いたくなるのもわかるような気がします)。

捕まったほかの人質である、家臣の親族たちを見せしめとして一人づつ殺されていくと、豊国はとうとうたまらず、自分の娘が手にかけられる前に、秀吉に城を明け渡してしまいます。

豊国の家臣らは……

そんな“城主”豊国を居城鳥取城から追い払ってしまいます。

ほうほうのていで秀吉のもとへと逃げ込んだ豊国。

しかしその後、秀吉の手により鳥取城は完全包囲され、苛烈な兵糧攻めの末に「飢(かつ)え殺し」と呼ばれるほど凄惨な地獄(※)を現出してしまいます。

(※)兵糧のあまりにもの窮乏で餓死者が相次ぎ、城内では人肉を奪い合うまでの惨禍となっていた、という記録が残ります

拝啓、豊臣秀吉様。お気持ちだけは受け取らせていただきます

その後、豊臣秀吉は山名豊国の功に報いたくなったのでしょう。

実はあの娘さん、秀吉の大事な側室の一人(※)になっておりますし。

(※)南の局、と呼ばれるようになります

まあ下世話な話でもうしわけありませんが、そりゃかなりの秀吉好みでしょうね(※)。

(※)秀吉は貴種娘に目のない男です

引き立てる話はかけるのですが、山名豊国はそれをかたくなに受けようとはしません

ちなみにその頃の豊国は無禄(※)。

(※)茶道の影響や本人の人柄からか、画像でも案外清貧な身なり。質素な暮らしにはさほど抵抗がなかったのかもしれません。

大名でも小名でもありません。

こうして、豊国は浪人となり、後に摂津の小豪族多田氏に寄食するようになった、と伝えられます(山名の重臣たちも何人かしっかり付き従ってます。この辺が山名という名家の特徴に思えます。下は大山名に甘えているのか、普段は結構好きなようにやるのですね。で、主家と喧嘩することもあるのですが、困るとやっぱり山名に付いてまとまりたがる・・)。

にしても、このころの豊国はどのようなことを思いながら生きていたのでしょうか。

山名家復興

竹田城

やがて秀吉もついに浪花の夢に露と落ち、世は再び激動を表し、関ケ原の合戦へと突入いたします。

すると、山名豊国は東軍を支持

この時の豊国については興味深いです。

すでに、あの娘さんは亡くなってらっしゃったのでしょうか(※)。

(※)今確認される文献では不明です

こうして、無事東軍は勝利し、その戦功から豊国は但馬七味郡に領地をたまわり、家は高家旗本として存続してゆくこととなりました。

徳川家康の嫌味に対する山名豊国の答え

山名豊国は家康にこんなことを言われたことがあるようです。

「お前は元六分一殿と呼ばれたほどの名門の子息なのに、今はそんな他人様の奇遇の身になって恥ずかしいとは思わないのか」

これに対し豊国。

ええ、まったくみっともない。六分の一なんて贅沢は言わないから、百分の一くらいにでもなれたらいいですね

また、家康とともに斯波義銀の屋敷を訪れた際、あまりに豊国の態度が義銀に対して慇懃だったので、家康からは

「お前は仮にも新田の嫡流の出だろ。足利の分家(斯波家)にそこまでしなくていいだろう」

と苦言を呈されたとか(※)。

(※)家康公、本当に“豊国いじり”が大好きですね。山名豊国は家康と真逆に家臣らを裏切ったり、また自分の趣味の世界にも質朴ながらわりと好きなようにやっていたので、家康からするとどこか羨ましくも認めていた部分があったのかもしれません

また、関ケ原の戦功により「但馬国より一郡を与える」と家康に言われ、なぜか石高の特に少なく山奥まった七味郡を申し出ております(※)。

(※)ちなみに七味郡は但馬国ほぼ全ての郡と接し、因幡国とも接しております。晩年は但馬山名ゆかり人たちの引き立てにも労を惜しまなかったようなので、そのあたりの「心配り」もあったのかもしれません。

この人の処世術というか、人への相対し方は道化なほどに“謙虚”です。

この辺りは、

・名門とはいえ、分家の出であり、かつ、長男でなかったこと

・大勢力に囲まれる中規模大名家の生まれであったこと

・確かに武略ではあまり派手な活躍がなかったこと

・もてなしの心である茶道を習っていたこと

・禅が好きで物欲があまりない

などが影響しているでしょうか。

「キングオブ都合のいい人」ゆえの強力なサバイバル能力

また、山名豊国がサバイバルできた大きな要因として、もう一つ言いたいのが、なんだかんだ言って人に頼られる、許される、という独特の人徳です。

そもそも戦国山名家と言えば、部下らに都合よくお神輿にされる存在。

山名豊国はその最後に現れた、まさに「キングオブ山名」。

これほどお神輿甲斐のある人はそういないでしょう

何せ

☆公認のへたれ

☆押しが弱い

☆柔らかい(彼の本心はいざ知らず)

☆それなりの権威は持っている

こう言う人といると、「居心地が良い」と感じる人は少なくないはず。

組織の中の有能な人、強権の人、頑固な人に、「ワーワー言われたくない」「負い目を感じたくない」「責任を負わされたくない」「シビアにされすぎるのはつらい」と感じるのが人情。

その点、山名豊国なら安心です。

ドッジボールで言えば、ボールを捕るのも、投げるのもドヘタ、ですが逃げるのだけは異様にうまい。

こうして、あれよあれよと、最後まで生き残っていったのかな、と私は思っております。

山名豊国の人相から推し量る性格

山名豊国の顔を見ていると、その立派な鷲鼻が特徴です。

人相学ではこう言う人はどんな性格かと調べると、実に興味深い結果が出てまいりました。

こちらです。

①他人の幸せを喜ぶ

②頼もしい

③お節介焼き

④繊細

⑤誘惑に弱い

⑥人当たりが良い

⑦献身的

⑧プライドが高く頑固

⑨外交的で幸運

⑩計画的

⑪頭が良い

⑫誠実

私的には「あー、豊国だー」と思ったのですが、いかがでしょう。

ちなみにご先祖の山名宗全も鷲鼻。

なんだかんだ言ってリーダー向きの家系なのかもれません。

まとめ

不思議と勝ち目を外さない。

乱世に彼なりの修羅道を突き進み、時にいろんなうつろいもありましたが、終わってみるとその場所にきっちり収まっておりました。

そういう結果も面白いですが、その間の心の動きが気になります。

山名豊国は没落の名族に生まれた

山名豊国は羽柴秀吉の鳥取城攻めにあって“家”や“立場”より愛娘を守るべく、自分の家臣たちに城から放逐された

山名豊国は戦国大名らしからぬ卑屈なまでの謙虚さで侮られがちだが、知ると独特の凄みがある

山名豊国は勝ち目を外さない男であり、結局彼の家は高家旗本として明治まで残ってゆく

(もっとほかの“ダメ戦国大名(?)”を知りたいならこちらの記事

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