
高校野球と言えば、近年全国的に私学が優勢となっております。
ただ、わがふるさと奈良県では80年ごろからその傾向はほかの都道府県よりもかなり根強く、公立高校にとって“その悲願”というのははるかに遠いところにありました。
当然ながら、選手が出身県でやること、あるいは他県でやること、どちらに善悪などあろうはずがありません。
まして最近は世界的に圧倒的なグローバルの流れ。
ひとつの土地や環境にこだわり続けること自体の意味が大変薄れてきております。
サッカーやテニス選手なら、10代前半のころから海外に留学することすら当たり前。
それぐらいの気概と経験がなければ、このますます厳しく混沌とするグローバル社会で結果を出すのは至難となってきております。
ただ、私たち人間には“地元愛”“ひいき”というのがやはりありまして、いくら理屈で分かっていても、心の中まではさすがにどうにもならんのです。
そしてやはり、あまりに大きな壁に敢然と立ち向かっていく姿というものは非常に美しい。
そんな奇跡の英雄譚をお届けしましょう。
奈良県における世にはあまり知られざる高校野球史です。
奈良県の土地柄

奈良県は中世ごろから、寺社・豪族など古来・新興にかかわらず様々な勢力が入り乱れ、中小分立する傾向が非常に強くありました。
その上、京盆地や大阪平野などから巨大勢力の介入にさらされるリスクがとても高く、そんな環境下で、「独特の処世術」が育まれてきたように思われます。
どれだけひどい境遇に陥っても、おのれの芸の昇華に全身全霊全生涯をささげた世阿弥。
時に大恩人に日和見すら見せるしたたかさ。過酷な動乱にあって大名としてしたたかに生き残った筒井順慶。
石田三成に“過ぎたる”軍師として時代の大巨頭徳川家康相手に堂々完闘し、その恐るべき武略を天下の歴史に刻み込んだ島左近。
小豪族でありつつ、豊臣政権によって失脚しながら、剣者として活人剣を編み出し、時代に徳川に魅入られてその確固たるブランドのいしづえを築きあげた柳生一族。
など。
奈良のビッグ2
天理

無論、奈良県高校球界における黄金期といってもそれはその人の主観により様々。
今私が「これ」と決めつけてしまうのはいささか勝手な気がします。
ただ、その全国との実力的相対から言ってもっとも全国に燦然と輝いていたのはまずこの時代といってよいでしょう。
86年夏、本橋投手を擁した天理は県勢初の全国制覇(※)、そして、剛腕南投手が活躍した90年夏と続きます。
(※)PL学園、KK時代最後の全国制覇の年と立浪・野村・片岡・橋本の全国制覇の年の間の1年です。
この頃、天理は金属バット野球ならではの豪打で、出れば必ず優勝候補の呼び声高く、またそれにふさわしい実績を残し続け、まさに一時代を築き上げました。
智辯学園

そして忘れてはならないのは
65年新設。
そのわずか4年後山口哲治投手(※)擁していきなり選抜初出場でベスト8。
(※)卒業後即近鉄に入団、現在楽天のスカウト兼ピッチングコーチ
翌年にはベスト4に躍進し、
以後着々と県内に地力をつけてきた智辯学園。
と、まさに「(ユニフォームの色から)紫茜時代」が、そのころ十数年来安泰に続いたのであります。
強い、強い、そして、強い

他校は元伝統であった御所工も郡高(郡山高の県内での略称)も含め、ほぼこれらのあまりに巨大な影の下、静かに鳴りを潜め続けました。
選抜は、どこかが何年かに一度出場。
夏は一貫して出場が途絶えます。
無論、悪いことではないのですが、この頃の天理も智辯も野球留学(※)にかなり前のめりで、当時甲子園ベンチ入りの選手のうち県出身者が一人でも出ればよいといった実情がずっと続きます。
(※)特に大阪から
今も強いのですが、当時の大阪のレベルというのは本当に突出しておりました。
公立の雄①斑鳩

89夏決勝。対智辯学園

当時、法隆寺から鐘の音が聞こえるほどの近くに、斑鳩高校というものすごく一般的な公立高校がありました。
野球推薦、寮、自前の球場、一切ありません。
そこがやってくれました。
89年夏のことです。
元々、北野監督という闘将の下、県内だけの選手を寄せ集め、数年来、準決、決勝とその存在を脅かし始めていたのですが、予選決勝の県立橿原球場、私はその目で直に確かめに行きました。
実に素晴らしい試合でした。
マウンドには171cmのまさに「まほろばの小さな大投手」二年生の大島寛投手が、強力智辯打線相手に立ちはだかり、さらに地道に鍛え上げた純県内産打線が相手好投手にひるむことなくまさに一進一退の大熱戦を演じているのです。
が、歴史は微笑みませんでした。
最後は紙一重の地力の差からわずか1点差に泣き(※)、彼らに訪れる真の“夏”は「まだお預け」となってしまったのであります。
(※)智辯の“ファンファーレ”が神武の庭に天高くこだましました
89秋の快進撃

それでも当時少年だった私はこう信じていました。
「まだ来年がある。われらの悲願は必ずや彼らが成し遂げてくれるであろう」と。
そうです。
大島投手はまだ二年生です。その実力は早、その夏の新人戦を勝ち取りました(※)
(※)当時県内では北和、中和、西和、南和の概して4ブロックに分かれそれぞれでトーナメント戦をやるのです。そしてその首座を勝ち得た4チームが秋の県大会のシード校となりました。
秋もどんどん勝ち進み、準決勝でした。
天理に敗れたのであります。
県内では3位でありましたが、この年近畿大会への出場2校枠だった県代表からは無念にもまたあと一歩のところで漏れてしまいました。
が、伝説が始まるのはここからです。
当時神宮は今と違って全国各ブロックから申請を許された代表校が選出されていて、斑鳩高校がこれに近畿代表として選ばれたのであります。
初戦の対戦相手は秋の北信越を制し、春の選抜出場を確約されている金沢高校(※)であります。
(※)翌年の選抜でもベスト8入りを果たします
なんとわれらが斑鳩高校、延長激闘の末勝ちました。
そして、2回戦、次なる対戦相手、これが大変な難敵でございます。
いや、勝負できるだけで夢といっても良いかもしれません。
帝京です。
しかもその年の夏全国制覇を果たしたばかりでございます。
さすがに、と思っていたのですが、なんと一進一退延長にもつれさせ、敗れはしたものの1点差、天晴れその雄名は紛れもなく全国に轟きました。
90奈良県勢の選抜出場校選考

私は奇跡を信じました。
1月、選抜出場校の選考の季節であります。
確かに秋近畿大会には出ていません。
ですが、金沢を下し、あの帝京をあと一歩まで追い詰めたのです。
近畿大会における他校の戦いぶりと比べてもまるで遜色がないいといったどころではありません。
何かが起こるかもしれない。
だが、儚くもその何かは起こりませんでした。
奈良からは当たり前に天理が近畿準チャンピオンとして選出され、そして、すでに南投手の名は全国区、「スーパー高校生」として鳴り物入りにとどろいていました。
自慢の打線も健在でありました。
当然の優勝候補であります。
そして、智辯学園が昨夏決勝で苦しめたあの好投手小泉を中心とした堅守のチームとして選出されました。
聖地甲子園で県民の真の底力を見せつける機会はまたもお預けとなってしまったのであります。
90夏3回戦。対智辯学園

夏が来ました。
この年、トーナメントにちょっとした異変が生じました。
あの斑鳩高がシード校としてエントリーされていないのです。
春の公式戦(春はシード一切なしのくじ運次第)で序盤天理と当たり惜敗の上乗り込んだこの大会、そのブロックに智辯学園の名があったのです。
3回戦。
1年前の決勝のカード、そして、三つ巴の中にあって頭一つ抜けた天理へのただ一つの挑戦権をかけた事実上の準決勝であります。
そして実際のぶつかり合いはまさに1年前のゲームの再来でした。
両チーム一歩も譲りません。
斑鳩が取れば智辯も取り返します。
智辯が上回れば斑鳩もまた負けじと追いすがります。
スコアは6対4でありました(今も忘れません。ちなみに1年前では5対4であります)。
勝ったのは智辯でした。
そして、決勝でこの智辯を破り、天理が全国の栄冠にまで輝いたのはもうとくとご存知の方々には何ら説明を要しません。
真の県勢の悲願は結局この年も果たせませんでした。
公立の雄②奈良

90秋史上最強天理

さて、大島投手も引退し(※)、すっかり大和盆地も日々秋が深まってまいります。
(※)のちに龍谷大に入って神宮大会でも活躍し、西武に入団します。
天理には谷口投手という先代の南投手(※)に似た2m近い長身から投げ下ろす剛腕がまさに「高校球界の至宝」と早くも全国の高校野球ファンの耳目を集めておりました。
(※)高卒すぐ日ハムに入団しています
県内でも無敵といってよい状況でした。
この年の天理の無敵さというのはある意味前年以上、2回戦や3回戦といった試合には谷口投手は登板しません。
3番手4番手(※1)を投げさせてそれで無難に5回(※2)で終わらせておりました(※3)。
(※1)2番手ですらほとんど登板がなかったと記憶しています
(※2)県内ではベスト8まで5回10点、7回7点のコールド制
(※3)「複数投手による持ち回りが当たり前」の現代野球のことを言っているのではありません。今から30年ほども昔の話です。
相変わらず打線も強力です。
そこに一矢報いたのはなんと(こういうと失礼かもしれませんが)奈良高校。
県内では言わずと知れた学業の名門校(※)。
(※)私学の東大寺学園、県立の奈良高といった位置づけです
どこがやってもほぼ一方的なラグビー試合状態にあって辛うじて見れるスコア(※)の試合を決勝でやってのけました。
(※)とっいても準々決勝以下ならコールド。この年の天理の強さは本当にそういうレベルだったのであります。
近畿でもなぜか1回戦で天理を引き当て、前回よりもなお見れるスコア(1-4)の試合にまとめて、なんとそこを選考委員に評価されて選抜にも選ばれてしまったのです。
これは奈良県高校球界始まって以来のひとつの快挙であります。
91選抜奈良高校大躍進

そこに1人の立役者がいました。
素晴らしくカーブの曲がる田中投手であります。
私は正直「選抜などというとんでもない大舞台で果たして試合になるのだろうか」と不安でいっぱいでありました。
が、序盤からいきなり失点し、どんどん重ねられてあれよあれよと4回までに0対10になってしまいました。
正直、「まあ奈良高だから仕方がないか」とかえって生温かい目で当時ブラウン管を眺めていた記憶を今もありありと思い返すことができます。
対戦相手は当時まだ初出場の群馬桐生第一であります。
まあ、あきらめておりました。
が、また妙なことが起こりはじめました。
やっと打線が連なり、1点を返したと思ったら今度はこちらがどんどん点を重ねて追いすがり始めます。
しかも、かの田中投手は前半とは打って変わってまったく立ち直ったものか、以降相手打線に1点すら許さぬ快投です。
結果6対10。
前半のあの大量失点がなければ、とまことに悔やまれてならない試合ではありました。
後日談ですが、私たまたまかの田中投手の関係者の方と知り合いになりまして、その方のおっしゃるには
「あいつのカーブはすごいんだ。もうとても打てやしない。でもストレートとなると、言っちゃ悪いが素人の俺でもカコーンと。あいつなんでか知らないけど試合前のインタビューで『直球で勝負します』なんて言っちゃって、何言ってるんだと思ったら本当にそうしやがった。案の定パカスカ打たれて、後半はカーブしか投げてなかっただろ」
ということだそうです。
あの試合なぜ田中投手はあれほどストレートにこだわったのか、それは個人的に謎は謎のまま置いておきたいと思います。
91選抜イチロー

さて、天理の方は圧倒的前評判でしたが、2回戦で松商学園の上田投手(のちに日ハム入団)の前に自慢の打線はまったく沈黙をさせられ敗れてしまいました。
ちなみにこの時1回戦で先に松商学園に敗れたのがあのイチローが投手として所属していた愛工大名電。
松商はこれらに勝った勢いそのままにこの大会準優勝を果たします。
そして、イチローの愛工大名電が前の夏に一回戦で敗れたのがあの天理であります。
イチロー選手のいたチームに勝った方が優勝、準優勝するというのもなんとも当時から「持ってる」んだなと勘繰らせます。
公立の雄③高田商

91春、新たな星

春の県大会がやって来ました。
天理がやっぱりどんどん他を圧倒して勝ち上がっていきました。
が、ここにまたある異変が起こったのです。
決勝にあまり上位では見かけないあるチームがまたひとつ勝ち上がってきたのです。
高田商です。
そして、あの強力な天理相手にかの奈良高に匹敵するスコアの試合(0対4)をやってのけました。
天理はそのまま近畿も制しました。
91夏始まる

夏です。
もうどうやったら天理にストップをかけられるか。
ほとんど「いったい何連勝するんだ」というあの無敵時代の白鵬に誰が土をつけられるかと挑んでゆく、そういった世界です。
全国ですら。
選抜2回戦で敗れたとはいえ、全国高校野球ファンの間には事実上の全国の綱は「天理だ」というのが少なからずあったのは事実です。
最近の高校野球に例えるなら、根尾昂投手らのいた大阪桐蔭銀河系軍団とさして変わらぬあつかいではないでしょうか。
さて、夏が始まると、天理はものすごく順当に勝ち残っていきました。
例のごとく2回戦3回戦は3番手やら4番手に投げさせてしかもコールド参考ながらノーヒットノーラン(完全試合だったかもしれない)をやってのけていました。
高田商vs“魔球”の片桐

高田商も逆サイドからしっかり勝ち上がっていました。
特に準々決勝の片桐戦はわくわくして奈良TV放送の前にかじりつきました。
相手投手はストレート、カーブ、スライダーのみならずパーム、さらにS・F・F(※)という、当時高校野球といえばスライダー、カーブ、たまにフォークかシュートで、ほとんど聞いたこともないこんな魔球を2つも投げれるとは。
(※)こちらはそれまで試合では使ったことはないということですが、ついにこの大会で何球か実戦使用されました
パームなんて当時、阪神の中西投手か第△野球部の〇すなろ君ぐらいのものです。
S・F・Fに至っては巨人の桑田投手ぐらいです。
高田商はその時、三浦といわれていた投手(そうです。今某球団の投手コーチをなさっているあの方です)の好投もあってこの難敵をどうにか退けました。
志貴(しき)高校の健闘

智辯は残念ながら2回戦で姿を消していました。
ちなみにこの試合対戦相手は公立の志貴(しき)高校なのですが、もう序盤でいきなり智辯が複数点を先制し、私はまことに失礼ながら何も言わずにTVを切り、遠出に旅立った思い出があります。
そして、翌朝新聞を見ると驚愕。
なんと、フツーに智辯が敗れ去っているではありませんか。
そういえば、そのころ近視が進みつつあったので、そのせいかと思いましたがどうも違うようです。
ちなみに、志貴の投手はその投球フォームがかなり変則的だったのが非常に強く印象に残っております。
ただ惜しむらくこの偉業の投手はこの激闘に全身全霊をなげうったように肩を壊し、次の試合にまるで力を発揮できぬまま相手打線につかまり、敗北を喫してしまいました。
奈良県高校野球の応援はとても個性的なものが多い

志貴高校は応援のブラバンもかなり個性派的。
いい意味で「ガチャガチャ」としたなんとも耳に癖となるオリジナルテーマ。
奈良の学校は実のところあの有名な天理、智辯、郡山、奈良大付だけでなく実にブラバンの選曲がオリジナリティ豊かなのです。
今や全国のどこでもやってる「アフリカン・シンフォニー」は智辯学園が同系列の智辯和歌山と並んで有名。
そして、「エルクンバンチェロ」は郡山高校発、「青のプライド」は奈良大付、「紅」はこの選抜の奈良高こそがカープや他のどこの学校にも先んじて全国初お目見えと記憶しております。
平城音頭とか、香芝ポパイとか、確か五條や他の学校にも個性に光るテーマがあったと思います。
圧巻だったのはある年の吉野高校で、応援席いっぱいにあたかも「魁!□塾」のようなあの時代を感じるものすごく硬派な方々が綺麗に直立したまま整列し、大太鼓と笛と声のみで、一糸乱れぬ気合の入った応援をやってらっしゃいました。
さすがは日本古来の桜の本場。
これまた他校にはない見事な「美」としてわが心に焼き付いております。
その夏、吉野高は県大会準決勝まで勝ち上がりました。
(奈良県だけでなく近畿の高校野球名物オリジナル応援についてはこちらの記事で紹介)
“番長”準決勝での怪投
準決勝であります。
世間において片方の試合はもう天理がやる前から勝ったみたいになっておりました。
そして注目はもう一つの試合であります。
奈良(※)対高田商であります。
(※)3回戦で志貴高校に大勝した一条高校を準々決勝で下しております。
私は奈良が勝つと思っておりました。
選抜出場校です。
しかも田中投手が本調子ならまず。
ところが、三浦が恐ろしいことをやってのけました。
なんとあの選抜でもベスト8の桐生第一相手に畳みかけるように6点を奪った打線が完全に沈黙。
いやヒット1本すら出ないのです。
私はブラウン管の前で戦慄しました。
そうです。
「番長伝説」はここから始まったのです。
確か奈良高主将が選抜出場意地のスリーベースヒット一本を放ったのが最終回のあと一人か二人の場面だったと思います。
三浦劇場、高田商の完勝でありました(まだリーゼントはしてませんでしたよ。丸坊主です)。
大巨人に挑む“遅れてきた勇者たち”

決勝は高田商対天理となりました。
準決勝でも綱の力は圧巻でありました。
積み上げてきた実績が違いすぎるのです。
全国最強と呼び声高いまさに高校球界の巨人とごくごく普通の公立校、見た目から言っても天理の選手はほぼ一人残らずの長身、高田商は普通にその辺を歩けば人並みなのですが、相手が相手なのでまるで子供たちの群れのように見えるのです(大げさではありません)。
試合は開始されました。
先制点を取ったのは天理であります。
やはり綱の力です。
彼らだってここで負けるわけにはいきません。
何のために地元から遠く離れた寮まで入って、毎日毎日ただひたすら野球漬けでがんばってきたことか。
横綱には横綱の背負うべきみんなの期待があるのです。
そして、彼らには勝利が使命とすらされているのです。
ましてこの県大会で敗れるということなどあってはならないのです。
が、高田商にだって思いはありました。
三浦投手はもともと智辯学園にトライアウトで入ろうとして合格することは叶いませんでした。
一年の時は荒れて野球にも身が入らなかったとか。
が、そこをしめてくれたのが監督さん(※)だったと聞きます。
(※)画像や映像で何度かお目にしたことはありますが、黒縁のメガネがトレードマークの真面目そうな、だが、どこか秘めきれないほどの負けん気の強さを感じました。
「お前だけで野球やってるんじゃない」
2年夏でも智辯学園に大敗。
監督さんが後にもおっしゃっている通り、三浦にはそんなにすごい球があるわけではないんです。
でも、なぜか抑えてしまう。
プロになってから冴え渡った天下無双のコントロールと投球術をこの期間人知れず鍛え上げたのでしょうか。
天理や奈良が全国で脚光を浴びているさなか、彼には彼なりの思いをその白球に込めていたのです。
そして、チームの仲間たちも。
彼らとてこのチームは
「三浦だけのチームじゃない」
という思いがあったはずです。
彼だけにそのすべての重荷を背負わせられない。
甲子園に行くのは俺たちだ。
俺たちみんなで行くんだ。
それがついに形となって火を噴き始めました。
相手はあの全国区、「高校球界の至宝」とも呼ばれた谷口投手であります。
が、ひるみません。
ええ、ひるみませんとも。
彼らは一丸となってまっこうから挑んでいきました。
「二階から投げ下ろすような(※)」壮絶な剛速球を打ち返します。
(※)この二三年このフレーズは奈良TV放送の野球中継ではほぼ流行語のようになっていました。
それがどれだけ汚い当たりだったとしても。
あきらめはしない。
勝つのです。
全力で泥だらけになってほんのかすかにでもチャンスがそこに転がっている限り。
そして、その寝かせたバットに込められた思い。
仲間が作ったかすかなチャンスを絶対に殺しはしない。
次の打者を信じて。
そして、ついに快音が球場中に響き渡りました。
塁上の選手が揚々とホームベースに駆け込んできたのです。
1点、1点を取ったのです。
あの大投手から。
みんな本当にエリートでも何でもありませんよ。
それこそまさに普通の奈良県球児なのです。
恐れおののいたのはかえって谷口投手の方でした。
彼はのちに語っております。
「このままやられる……」
完全に勢いは高田商にありました。
挑む側に風が吹いていたのです。
が、これはまさに勝利の女神のいたずらとしか思えません。
季節は夏の盛りです。
どこからとなく気味の悪い遠雷が鼓膜をかすめたと思うと、もう間もなくでした。
橿原球場がまさにバケツをひっくり返したような激しい驟雨に包まれたのは。
今すぐそこに鳴り落ちたようなすさまじい雷鳴と稲光、ついに球審がたまらず試合に「タイム」を宣告すると、選手たちは両陣営ベンチに引き上げ、雨と雷の引くのをただ待ったのです。
思えばこれが潮目でした。
少し小止みになっては、早く投げたい、みんなの作り上げてくれた流れを壊したくない、とベンチの前でキャッチボールをしていた高校三年生三浦の姿を鮮明に覚えております。
巨人を飲み込むはずの波はいつしか萎え、完全勢いに飲まれていたはずの天理ナインは正気を取り戻し、ついにはこの恐るべき挑戦者たちを、土俵際に力の限り寄り切ったのです。
3対1。
奈良県球児の悲願はこの年も達成されませんでした。
そして、勝った天理もその夏全国で、2回戦敗退します(谷口投手はその年巨人に一位指名されるも、入団間もなく重大な故障が発生し、それが元でその有望に過ぎる才を惜しまれつつ日本プロ野球界を去ります)。
その後の奈良県高校野球史
93年夏には俄かに地力の戻った郡山高校が主戦大内投手を軸とした非常に堅い守備力と、いぶし銀の試合運びと、抜群の勝負強さ、であの圧倒的牙城をついに打ち破り、21年ぶりに甲子園出場の栄冠を勝ち取ります(※)。
(※)天理・智辯以外の学校が夏の奈良県代表になるのも同年数ぶりです
この時の郡山を象徴するのが悲願の全国初戦で愛知の強豪享栄と当たった時のこと。
郡山は相手好投手に6回まで無安打に抑え込まれる非常に苦しい展開。
が、7回と9回この試合非常に貴重なランナーが出ている場面で、見事適時打が出て、2-1で勝利。
そもそも、郡山の名将森本達幸監督はまだ代表戦が紀和大会(※)だったころから、同校のエースとしてノーヒットノーランを果たすなどをして県大会を勝ち残り、惜しくも和歌山県勢に決勝で敗れた、という経歴の持ち主。
(※)夏の決勝は和歌山代表と奈良県代表がただ1つの代表の座をかけて争いました。ちなみにこの頃和歌山の高校野球は全盛期。ほぼすべての代表枠を和歌山県勢が独占しております。
どうもこの人はすでにこの頃から「そういう運命」を背負っていたようです。
そして、同校の監督になってからも、県を代表する公立進学校の身でありながら、
「あの天理・智辯に勝たないと全国に行けない」
「さらに全国で勝ち抜かねばならない(森本監督の郡山はたびたび全国のベスト4、8あたりまで勝ち進んでおります)」
という大変厳しい環境の中で戦い続けなければなりませんでした。
なので、強豪私学には無い「見えざる力」のようなものを鍛えに鍛えたもの、と推察します。
斑鳩高校は2003年に春の選抜に初出場。
この時は見事初戦突破も果たしました。
また、2013年には桜井高校が夏・初出場。
残念ながら、全国では初戦の厚い壁に屈しました。
が、当校の野球部では
「便所掃除を率先して行う」
「試合中、絶対にガッツポーズをしない」
「試合中、敵チームへの礼節を徹底する」
などして、
「野球のうまさでも力でもない“人間力”で勝ち取った悲願」
として大変話題にもなりました。
また、2016年春では智辯学園が全国制覇。
この時の智辯は多くの主力メンバーが奈良県内の出身者。
奈良県球界の底上げを大いに証左し、私をも勇気づけてくれました。
追伸
毎年全国各地で素晴らしいドラマの数々を見せてくれている球児ならびに関係者の皆様に大いなる感謝の気持ちを申し述べます。
そしてこの素晴らしき祭典が今後もなお平穏と受け継がれてゆきますように。
何度となく苦難の時を迎えることもあるでしょうが、それを乗り越え、人々の心の糧となり続けますように。