
中国春秋史においてメジャーなのは五覇を生み出した国々。
斉・宋・晋・楚・秦・呉・越
辺りとなってきます。
さらに時代が少し下って戦国時代になるとこういった国々が脚光を浴びます。
秦・斉・韓・魏・趙・燕・楚
いわゆる七雄です。
この時代はいわば日本の戦国時代に似ております。
大陸の中に大小の国々がひしめき合い、たがいに存亡を賭け、熾烈な駆け引きや戦争を延々と繰り返しておりました。
そんなころ、中国のちょうどド真ん中あたりに鄭という小国がありました。
基本的に、この国は我らが国の教科書・受験勉強では悲しいほどにスルーされます。
周りを強大国に囲まれ日々の存亡に汲々。
そんな過酷な環境にあってなお、国をしたたかに生き残らせるべく現れた2人の革新者・英傑。
その名は1人が祭足。
もう1人が公子産。
彼らの個性的な生きざまと、小国ゆえの生き残り戦術について紹介します。

祭足
そもそもまだ戦乱の春秋時代が始まったころ、鄭は中原(※)の有力諸国中もっとも新しい国でした。
(※)今の河南省・河北省・山西省・山東省あたり。古代黄河文明の発祥地周辺。
やはりそういう気質なのでしょう。
鄭はなんとも時代に挑戦的なやり方で名乗りを挙げます。
祭足(あるいは祭仲とも呼ばれる。紀元前743年 ~ 紀元前682年)はそのころの鄭の重要な参謀役。
中国では“春秋時代一の権臣”と呼ばれております。
出身は辺縁領土の下級役人。
まさに時代です。
そういえば、『君主論』を書いたマキャベリ、『戦争論』のクラウゼビッツ、もとてもよく似た出自です。
さて、彼らのように組織内における元々の後ろ盾がとても弱い人が活躍するには必ず彼らの優れた個性をうまく引き立てる上役の存在が必ずあります。
祭足の場合は鄭の国主荘公です。
荘公の母子の情に応える

この荘公、生まれた時難産だったこともあり、実の母親武姜にとても憎まれていました。
そして、武姜は荘公の弟共叔段をことのほかに愛し、なんとか鄭の国主となるよう画策します。
武姜は荘公に、
「共叔段に与えられる土地は険しすぎます。これではあまりに不憫。替わりに京城(今の河南省滎陽)を与えてあげてください」
荘公はこれに同意してしまいます。
が、祭足は荘公にこう言います。
「言っときますけど、そんな無茶を引き受けて、彼らがそのままおとなしくしてると思いますか。草はボーボーに伸びてからでは始末に負えません。」
荘公は
「理不尽なことは承知の上だ。だって、母の願いだ。仕方ないだろう」
こうして、結局武姜と共叔段は結託して荘公に反乱を起こします。
が、あえなく鎮圧。
共叔段は他国へ亡命。
武姜は荘公によって「黄泉の国に行かない限り二度と合わない」と絶交を申し渡されます。
が、そこは母子の情。
どうしても母と再会したくなった荘公に祭足はこんな巧みな助言をします。
「なら、黄色い土を掘り、泉を起こしなさい。そこで会えばいいのです」
こうして、二人は無事、悲願の再会を果たすことになります。
祭足はその後も鄭国の事実上の大支柱として活躍。
持ち前の優れた智謀を働かせ、内治を鎮めて強国化。
加熱し始めた列強諸国との軍事競争さらには外交駆け引きにおいても実にうまく主導。
が、そんな超アゲアゲ基調の鄭国に、建国以来のこんな大ピンチがやって来ます。
繻葛の戦い

祭足はなかなかの悪です。
・もう権威が失墜した周王朝の領内に勝手に鄭の軍隊を押し入らせ、麦を刈り取り奪い去ったり
・周の許可を得ずにほかの国と領地交換をさせたり
腐ってもまだ当時の王権は周です。
時の周の桓王はこれに収まりなど付きません。
そこで桓王はとうとう周辺諸国に号令をかけ、鄭懲罰遠征を決行します。

桓王にしてみればさぞや、「ざまあ見ろ」という気持ちだったでしょう。
序盤は案の定、周を中心とする諸侯連合が数にものを言わせ、押し切る勢いです。
が、「周諸侯連合軍は初戦烏合の衆」というのはあったでしょう。
しかも、周桓王はまだ若いので血気にはやったでしょうか。
戦中、肘(ひじ)を射抜かれてしまいます。
主将がこれでは全軍の意気が上がらぬのは言うまでもありません。
周諸侯連合軍、まさかの大惨敗です。

なお戦後、荘公は祭足に、わざわざ周陣営に桓王を“お見舞い”に行かせております。
この戦は「周の凋落」を天下に決定づけました。
荘公没後

こうして春秋の戦乱に真っ先に躍り出た祭足と鄭国。
ついに後世に「鄭の小覇(※)」と呼ばれるほどの大黄金時代がやって来ます。
(※)後の「五覇」に先駆けた“小さな覇権国家”という意味です
が、荘公が亡くなるとたちまち精彩を欠くように。
鄭国内では公位をめぐっての跡目争いが連年壮絶となりゆく一方。
祭足ですらどうにもうまく鎮めることはできなかったようです。
公子産
この辺りは小国の悲しさ。
そして、時代、および、祭足の裁量の限界を意識せざるを得ません。
出て来る時は実に颯爽としておりましたが、大した実利を得ることなくあっという間に先細り。
そして、そもそも彼ら自身が動かし始めたはずの世の流れは愈々巨大なものへとなってゆきます。
中原に斉。晋。宋。
南方には新興の異民族系国家楚。
西方には秦。
並みいる強豪が次々と台頭し、生き馬の目を抜く覇権争いの行方は目まぐるしく移り変わります。
そんな中、すっかり中原の一小国にまで零落した鄭国。
もはや北の晋や斉などの中原国家と南の大国楚との間を節操もなく右顧左眄してどうにか国体を維持する有り様です。
朝には楚前で「晋をともに討つ」と戟をふるい、昼には晋宮の床に這いつくばり倒楚の密約を交わし、夕にはその誓紙を破いて斉に媚びを売る、……。
悲しいですが、こんな小手先の外交術にずっとすがり続けるばかりで国が強くなるわけがありません。
諸国にも愈々なめられる一方です。
が、長く持ってはみるもの。
ここに意外な英傑が現れました。
鄭穆公の子、公子産(?~紀元前522年)です。

公子産が国策として示したのは“成文法”。
それまで国家や封土は「“徳”や“無為”によって治めるのがよい」とされていました。
人治です。
が、文明の発達によってすでに人口はかなり増え、社会も複雑になっていたでしょうし、もうそれだけでは国家運営が難しくなってきておりました。
しかも、時は生き馬の目を抜く乱世です。
立ち遅れていては、容赦のない現実があまりに生々しく待ちうけているばかりです。
そこで、この窮余を脱する便利が“法”というわけです。
法とはいわば、
「うちの国でうまく生きていくにはこういう風にしろ」
という超現実的なマニュアル。
国家から見れば、“よくできた仕分け装置”です。
これなら、広い土地、多くの人口の管理が非常にやりやすくなります。
また、支配者である王侯の多少のうまい・まずいに関わらない安定した統治も望みやすくなります。
じゃあ、こんなシステムを作ってしまう公子産というのはもともとどんな人だったのでしょう。
やっぱり祭足みたいに超ドライな人だったのでしょうか
どうも違うようです。
というより、むしろ真逆。
「とても誠実な人柄だった」と言われ、ほぼ同時代を生きた孔子には絶賛されております。
じゃあ、なんでそんないい人が超現実的な策を国策として実行に移したのでしょう。
実は公子産。
こういうとても苦い体験がありました。
ある時、公子産はある人に相談を受けました。
とてもまっすぐな公子産は彼にこうたしなめます。
「悪いものは悪い。善い行いをしなさい」
その人は公子産に言われた通り、その物事に誠実に対応しました。
が、乱世の厳しさです。
その人はその甘さから、かえって、熾烈な権力争いに敗れ、破滅。
後に公子産はこのようなことを語っております。
「優しさで人を治めるのは難しい。それはマエストロでないと無理だ。なので、凡人は厳しく人を治めなければならない」
・・
すると、もう俄然、“法”に行きつくわけです。
公子産はこうした現実的なやり方と、持ち前の誠実で温かいやり方を織り交ぜ、で鄭の国を改革してゆきます。
ために鄭の国は豊かとなり、「国内に盗人がいない」と言われるほどゆとりができ、たと言われます。
そして、かつて祭足全盛期のように中華のど真ん中に侮りがたい存在感を示すことができるようにもなりました。

そうなると当然、この激しい生存競争の世の中「真似」をする勢力が続々と現れ、俄かに強大化してきます。
その筆頭格と言ってよいのが、商鞅(※)・始皇帝で有名な秦国。
(※)国内に徹底的な信賞必罰・法治制度を敷き、秦を大変な強国へと導きました
秦は他国を圧倒するまでになり、ついには中華を統一。
行き過ぎた暴政で始皇帝の死後たった4年で滅亡するものの、この政治体制は以後長い長い中国史における歴代の王朝へと脈々と受け継がれ続けてゆくのです。
その後の鄭
結局、公子産の登場による春もあまりに短いものとなりました。
公子産の没後は鄭の国力は停滞。
それを尻目に、中華全土の群雄による生存競争は愈々激しくなりゆき、鄭も疲弊してゆきます。
そして、紀元前375年、ついに滅亡。
建国後約430年のことでした。