
2020年の大河ドラマの主役は明智光秀です。
となると、やはり「かの人にまつわる名所旅」。
いいですね。
が、この記事の趣向はちょっと違います。
じゃあ、「かの人のゆかりの地」の付近に“ちょっと寄り道”でいいとこないの?
そう、そこに見逃せないポイントがあるのですよ。
せっかく行くんだから、その残り足で“堪能をしつくしてしまい”ましょう。
明智光秀旅“プラスアルファ”。

近江坂本に行くなら!!
明智光秀が信長旗下に参じてから最初に城持ちになった地。
そして、彼が一将として請け負うことになった比叡山延暦寺焼き討ちも行われました。
また、彼の菩提寺西教寺もあります。
ただ、坂本って実は結構広いんです。
比叡山中麓にある本町とも言うべき坂本から、琵琶湖畔の下坂本まで。
まず、光秀の出世城坂本城跡のあるのは下坂本です。
で、そこから坂をだんだん登って行き、風情が色濃くなるのが坂本(本町)。
ここは昔ながらの街並みが残っております。
そして、延暦寺関連の教育施設、坊舎、社務所、末寺などがかなり数多く軒を寄せ合っております。
まさに伝教大師(最澄)開闢以来の“大門前町”たる威風です。
ちなみに、もし四月中旬に訪れるなら“山王祭”を外したくないところです。
ここにあるのは全国にある日吉大社の総本山。
金日輪の扇子を携えた武者行列による先導。
幾多の松明に導かれた白ふんどしの氏子たちが詰めかけた大観衆の熱気を前にドーンドーンと神輿を揺する宵宮。
やがて、男たちは神輿を担いで坂本の急坂を一気に駆け下り。
琵琶湖畔から舟での渡御(とぎょ)で神々を送ります。
この祭りは、この地に本格的な春の到来を告げます。
(引用instagram)
また、比叡山麓は紅葉でも有名。
そのついでにケーブルカーやロープウェイ、あるいは徒歩で、清浄なる山上を訪ね、琵琶湖ブルーを一望に見下ろす、というのもすがすがしいものです。
この辺りの“ご当地グルメ”は「そば」「ゴマ豆腐」が有名です。
また、坂本はかの石積みで有名な穴太(あのお)衆の故郷穴太のすぐ北隣です。
明智玉・細川藤孝・忠興ゆかりの丹後を旅するなら!!
今回の大河に合わせて確実に脚光を浴びるのが丹後です。
となると、「ああ、ここもついでに足を運んでほしいな」という付近スポットが5つあります。
(明智光秀の愛娘・玉、洗礼名ガラシャ、の嫁ぎ先は後の熊本藩祖細川家です。明智の女たちについて詳しくはこちらの記事で)
天橋立
明智光秀は細川藤孝、里村紹巴とともにここを参観に訪れました。
日本三景の一。
淡い潮の香にあって、青海に立ち昇る一体の碧龍。
丹後と言えばやはり外せません。
漂泊の画人雪舟もこの天下の偉観を大胆な筆致で捉えております。
(引用instagram)
伊根
関西ではなじみの伊根の漁村。
ここの名物である舟屋群は狭い湾に向かってひしめき合うように。
で、やっぱり美味いのですね。
海の幸が。
私は寒ブリが大好きです。
特に“アラ煮”です。
(引用instagram)
出石(いずし)城下町
全国に小京都は多いですが、ここもそのひとつです。
街並みは昔ながらの風情を色濃く残したまま、狭い平地に実にコンパクトにギュッと凝縮したよう。
碁盤目状の小径から小径をおもむろに散策するだけで愉しいです。
ここは近世に信州松代から越してきた大名仙石家によって移入されたソバが今に至る名物となっておりまして、ツルッとやるのが乙です。
(引用instagram)
竹田城
(引用instagram)
天空の城ブームの火付け役。
丹後宮津よりやや内陸にあります。
ここはちょうど京・山陰・山陽、三叉の要衝です。
中世には六分一殿(ろくぶいちどの。全国の六分の一の国を支配した大大名)を誇った山名氏の拠点でしたが、羽柴秀吉によってあまりにあっけなく攻略されます。
この山上に登りつめ、まさに“日本のマチュピチュ”さながらの絶景を仰ぐのもいいのですし、雲海の立ち込める時には向かいの立雲峡から眺望するのもまた素晴らしいです。
(竹田城ゆかりのダメ戦国大名(?)山名豊国についての記事はこちら)
安国寺
出石・福知山の真ん中あたりです。
山里にひっそりと。
ここはドウダンツツジの紅葉が鳥肌モノです。
(引用instagram)
福知山に行くなら!!
丹波平定後、その中核たるべく明智光秀が街づくりに励んだ都市。
今もなお、この地では「町の初めは光秀公」と並々ならぬ尊崇を集めております。
光秀旅なら、当然福知山城・明智藪など。
が、よそのネットや雑誌の記事でそういったことは存分に紹介しております。
あくまでこの記事のスタンスは“そのついで”をとことん堪能。
なら、ここしかありません。
三段池公園です。
その中でもまさに知る人ぞ知る福知山動物園。
確かに園の規模、そして動物の数ではよその大手に圧倒的に劣ります。
でも、なぜそんなに話題なのか、なぜそんなに人気なのか、というと動物たちとの距離がまさに圧倒的に近いのです。
ここはまず入園料が大人でも210円。
しかも、動物に餌付けが許されております(指定の餌を入り口で買ってください)。
アライグマ、タヌキ、ウサギ、シマリス、ロバ、ゾウガメ、ヤギ、ヒツジ、イノシシ、レッサーパンダ、フラミンゴ、ニホンザル、キツネザル、金絲猴、カンガルーなどなど。
彼らとこんなに近くで触れ合えるなんて。
動物好きにはたまらんです。
幸せ~~~♡♡
(引用instagram)
亀岡に行くなら!!
亀岡は保津川下りの起点です。
また、嵐山へのトロッコ列車も出ております。
春の陽気に、もいいですし、夏は涼を楽しみつつ、また、秋は言わずと知れた紅葉です。
八上城に行くなら!!
波多野秀治と明智光秀が死闘を繰り返した八上城一帯。
(八上城について詳しくはこちらの記事で)
今、丹波篠山市と呼ばれている地域です。
春なら親藩篠山藩の居城篠山城の桜とともに。
夏なら盆の「デカンショ祭り」。
宵は大入り観衆の中で繰り広げられるデカンショデカンショ♩の音頭の熱狂に揉(も)まれて。
篠山城から一斉に打ち上げられる花火もまた圧巻。
それより少し先んじて8月上旬なら波々伯部(ほおかべ)神社の祇園大祭もまた味があります。
やっぱり“同じ神様”なので、京の山鉾巡業(やまぼこじゅんぎょう)と様式はよく似ているのですが、元あった「日本の祭り」という風情ならこちらの方が断然濃厚です。
その純朴さがたまらんですね。
ちなみにここの波々伯部氏は光秀とある時は敵・ある時は味方・また、ある人は敵・ある人は味方、という複雑な関係でした。
この季節、丹波篠山を昼訪れるなら、炎暑に仰ぎ見る高城山(八上城跡)。
そのどこまでも青々と茂る様に何かしら込み上げてくる「兵(つわもの)どもも夢の跡」・・
秋ならまず9月に「街並みアートフェスティバル」。
城下町の味わいを色濃く残す町並みは新進気鋭の現代アートによく馴染み、また、お互いをよく映やします。
最近では遠方からもたくさんのお客さんが“この妙”を当てに足を運びます。
そして、10月には「味祭り」。
何せ丹波篠山は近畿を代表する秋の味処です。
実がぷっくらとおおぶりな丹波栗、少し苦み走ったところが癖になる丹波黒豆、そして山秋の味覚の王松茸。ほか山菜の珍味もまた、いいご飯の友になります。
冬は“牡丹鍋(ぼたんなべ)”。
また丹波杜氏(とうじ)で名高い地酒をたしなむのは通ですね。
(引用instagram)
黒井城へ行くなら!!
明智光秀の丹波攻略に立ちふさがった勇敵の一角、丹波下剋上の権化赤井“悪右衛門”直政。
その本拠が今の丹波市春日一帯なのですが。
(赤井直正についてくわしくはこちらの記事で)
百毫寺の九尺藤
ここで“すばらしい”のがG・Wごろの百毫寺(びゃくごうじ)の九尺藤です。
(引用instagram)
高源寺
春日からもうちょっと奥座敷まで足を延ばすと、青垣町。
ここには天目カエデ紅葉の名刹があります。
高源寺。
ちなみに、丹波地域には紅葉の名所がほかにもかなり数多くあります。
そこをはしごするのもいいもんです。
(引用instagram)
小栗栖に行くなら!!
明智光秀終焉の地として知られる京都市伏見区小栗栖(おぐるす)。
どこにでもある“もの静かな住宅街”のちょっと奥まったところにある、本当に鬱蒼(うっそう)とした竹藪(たけやぶ)。
東の方を仰げば、大きく迫りくる比叡山系の黒々とした山影。
これさえ越えれば坂本だったのです。
三室戸寺
この付近で外せないのが三室戸寺(みむろとじ)。
西国霊場にも数えあげられ(明智光秀ゆかりの地には西国霊場がとても多いです)、あの紫式部ゆかりの地でもあります。
源平合戦期、梶原源太景時と佐々木四郎高綱によって先陣争いを繰り広げた宇治の急流はすぐ袂(たもと)です。
そして、橋向こうにはもう平等院鳳凰堂。
また、ここは茶の本場であることも忘れてはなりません。
そして、ここ宇治三室戸を訪れるなら、やはり梅雨時でしょう。
この寺は人々に紫陽花寺と呼び習わされるほどの名勝。
1万株と言われる青・紺・紫・桃・白とりどりの花々が広い境内も狭しと・・
しかも、傍にある宇治川の水量は浪浪と増し、実に“らしい”。
ここから天ケ瀬ダムライン(大津南郷宇治線、またの名を滋賀県道・京都府道3号)で宇治川沿いに遡上、深山の大自然に抱かれ玉虫色に輝く水面を追いかけつつ、やがて岩間寺・石山・瀬田・琵琶湖へ、という地元民なら知る絶好のドライブコースもいいものです。
(引用instagram)
醍醐寺
春の花見のシーズンなら醍醐寺(だいごじ)に少し足を延ばしてみるのはいかがでしょう。
明智光秀のライバル羽柴秀吉がここで“大興行をぶった(1598年醍醐の花見)”ことでも知られております。
(引用instagram)
明智光秀ロード
すいません。
これは私が勝手に名付けているものです。
ただ、近江坂本から丹波へと至るこの道。
当の明智光秀は現に何度となく往来を果たしております。
丹波入りの時。
安土に伺候する時。
そして、“あの時”も・・
近江坂本からまず京阪沿線に沿って南下。
やがて、浜大津から1号線に乗りかえ、だんだらと登るその山は、知るも知らぬも逢坂山(おおさかやま。百人一首でおなじみ。京から東国への代表的関門)。
その最高点をようやく越え、今度はじりじりと下りゆけば急に視界がパーッと開けて山科(やましな)です。
繁華な街並みにあって少し山の手に並走するのは“琵琶湖疎水”。
春のシーズンなら、バイクや車・原付をちょっと降りて「桜並木とともに」というのはいかがでしょう。
また、付近にはあの天智天皇の“御陵(みささぎ)”が。
ほどなく、次の峠を越えれば、東山です。
上(かみ)の辺りは美術館あり、浄水場あり、と、市街の喧騒を忘れさせる何とももの静かな情趣。
ポツポツと隠れ家的に営業している“湯葉料亭”の暖簾をふいと押し上げてみるってのもなかなかいいもんです。
やがて急坂を下れば、南禅寺・平安神宮・青蓮院・八坂神社・祇園へと。
鴨川を渡り、いよいよ京のど真ん中。
で、東が河原町・祇園の鴨川なら、西はやっぱり西京極桂川です。
ここを越えれば、光秀が京に討ちいった“あの道“をまさに逆走。
当時の記録によると、桂川を越えるあたりで、部隊には半中のわらじに履き替えるように布達があったとか(本城惣右衛門覚書)。
後は、本能寺に向けて各将士を“思い思いの道へ”と急がせました。
つまり、深夜の京の小径を彼らはバラバラとなって上って行ったのですね。
ただ、これに従軍する人は要注意です。
“変に先駆けをした”と見なされれば、明智将士によって問答無用にぶった切られました(密通者として見られた)。
実際に、何の関係もなくただ近くの畑に居合わせただけの地元のお百姓さんがこれで誤殺されてしまっております。
そして、私たちの旅路は9号線に沿い、老の坂をいよいよと登ってゆけば、いよいよと急坂つづら折りの、山道へとなってゆきます。
このどこかで、“あの人”は「山陽路(羽柴秀吉の赴援)か、京か」の運命の岐路を決することになります。
ついに胸突き八丁登りきると、今度は一転してやはりつづら折りの急坂をヘビが鎌首ふるよう右へ左へ下りゆき、やがてまた視界がグッと大きく開けるのは亀岡盆地です。
光秀が地ならしした丹波口における拠点。
この篠村に万余の大軍は終結し、暮方ごろより“出兵”が始まったのです。
そもそも、ここは古来天下趨勢の要地。
あの足利尊氏とて興り、やがては天下を統べたのです。
さらに9号線沿いに北上し福知山に向かうか、あるいは、度重なる激闘の兵庫県方面に向かうか。
福知山方面に向かうなら、キリシタン大名内藤如安が本拠を築いた八木。
さらに福知山を経てその先は、大盟友細川藤孝の丹後へ。
兵庫方面に向かうなら、光秀の重臣明智弥平次秀満が波多野秀治・秀尚兄弟を殺傷せざるをえなかったという本梅城、そして峻険な天引峠(あまびきとうげ)を越えればついに兵庫県。
丹波篠山市よりさらに向こうには赤井直正や西波多野家(波多野の分家。光秀を苦しめる)ゆかりの丹波市が広がっております。
※なお“明智光秀ロード”は、浜大津から9号線までほぼ一貫して混んでます。なので、すんなり行きたいならバイクや原付がおすすめ。自転車は半端なくきついので、「我こそは」という人に限ります。また、情趣はかなり落ちますが、高速道路を車で、という手もあります。
(明智光秀について詳しくはこちらの記事で)